陽の章 第六項 ~勅命~
私は泣いていた。
失う事は、覚悟していた筈なのに。
それなのに、私は枕に顔を埋め、慟哭していた。
ずっと一緒にいられるわけではないと、
いつかはさよならをしなければならないと、
ちゃんと理解していたのに。
どこまでも優しく、哀しい、純白の光を持つあの人は、
もう、いない……
陽の章 第六項 ~勅命~
「大変な事に」
「なってしまいましたね……」
祝宴から四日後、レフィアの私室。
机上に置かれた書簡を挟んで、
フィアシスとレフィアは困り果てたように、
全く同じ仕草で頬に手を当てて唸った。
二人の眺めている書状に認められた、
赤の王女ティニアの言葉は、
白の女王達に酷い頭痛を与えるものだった。
「クレミアの怪我については、
疑う余地もなく白の国の責任。
現場の責任者であったアルムの責を問い、
私刑としての決闘を申し込む。
この書の署名の日付から七日後、
ラグナ平原にアルムを連れて来い。
もしこれが果たされなかった場合、
赤の国は全兵力を以って、白の国へ侵攻を開始する」
丁寧な言葉遣いや挨拶などの、
不要な箇所を除いた主たる部分は、このような内容だ。
責任が白の国にあるのは言われるまでもない。
あの夜、事後報告を受けたレフィアは、
フィアシスの傍を離れるべきでなかったと、深く後悔した。
自分が居て抑止できるものでもなかったかも知れないが、
その場で自分にしか出来ない事もあった筈だ。
目下一番の問題は、アルムを戦場に送り出すことだ。
フィアシス=イグリオール親衛隊隊長に任命した以上、
軽々に戦場に出しては、役職の体裁が崩れてしまう。
加えて、親衛隊という立場のために、
アルムを出陣させる為の号令には、
フィアシスの名を連ねる必要がある。
今まで頑なに戦から遠ざけてきた娘の名を、
このような形で、戦の場に出す羽目になるのは、
レフィアとしては可能な限り避けたい事態だ。
レフィアが頬に当てた手を机に置き、
飲み物を頼むために立ち上がろうとしたところで、
「レフィア様、アルム様がお見えになりました」
丁度、前室に控える侍従が、件の剣士の来訪を告げた。
「来ましたね。
入れて下さい、貴方達は部屋の外へ」
少し浮かせた腰を改めて深く椅子に沈め、
大きめの声量で、扉の向こうへ伝えるレフィア。
その声に先程までの迷いは無く、表情からも困惑の色が消えた。
既に、レフィアを見て先程までの姿を想像するのは難しい。
凛々しく、強く、意志の揺るがぬ全能の王。
その一瞬の変貌に、フィアシスは自分の母ながら、
改めて目の前の人物が白の国の女王なのだと思い知る。
「失礼する」
短い挨拶とともに来訪者が姿を現すと、
それだけで、フィアシスの胸が強く鳴った。
もう聞き間違えないほどに聞いた声であり、
何より王族に敬語を使わない人間など、
フィアシスはこの国の中で、一人しか知らない。
漆黒の鎧と兜を纏った剣士は、
二人の王族を前にしても一切の畏れを持たず、
直立の姿勢で王の私室へ踏み入った。
「ここに来るように、と言われたのだが」
「ええ、こちらに」
アルムの相変わらずの態度にも、
悠然とした空気で迎え入れるレフィア。
フィアシス自身には、もう慣れたものではあるが、
レフィアに対する話し言葉というものは、
いつ見ても、異常極まりない光景だった。
「先ずは、これを読んで下さい」
机上の書簡を手に取ったレフィアは、
几帳面に端を揃え、アルムに差し出す。
「赤の王女からの果たし状、と言ったところだろうが……
王族宛の書を私に読ませて良いのか?」
呼び出された用件自体は想定済みなのだろう。
受け取るより先に、アルムはその是非を確認した。
本来、王族へ宛てられた書は、
検分役の侍従を除けば、王族以外が手に取ることは許されない。
ただ、アルムの様式に拘った慎重な態度は、
フィアシスにとっては少々意外に感じられるものだった。
一方のレフィアを見遣ると、
いかにも満足気な笑みを浮かべているあたり、
彼女にとっては想定済みの回答だったようだ。
「勿論。貴方は私のいない場所で大事を未然に防ぎ、
事態を適切に収拾した、一番の功労者なのですから」
「未然に防ぐ事が出来なかったから、こうなったのだが。
まあ、問題が無いのであれば、拝読しよう」
レフィアの褒賞を受けて、書簡を受け取ったアルムは、
果たし状と目したその文面を黙読し始める。
「緋鳳ティニアを前に、素晴らしい機転だったと……」
「誰でも心得ている礼儀を実践したまでだ」
直立の姿勢で書を読むアルムに、
レフィアはやや遠慮がちな声色で賛辞を続けようとするが、
その言葉の途中、まるで邪魔だとでも言わんばかりに、
アルムは書簡に視線を向けたまま答えた。
守星神を除けば、この世界で最大の権力者の一人である白の王、
そのレフィアに対する冒涜とも言える高慢。
かの大臣がこの場に居合わせたなら、
今度こそレフィアの静止をも無視し、刃を抜き放ったかも知れない。
それでも、レフィアは気にも留めていないどころか、
困ったような、申し訳なさ気な、曖昧な微笑を浮かべるだけだ。
大概にして温厚なレフィアではあるが、
決して礼節に無頓着な王ではなかった筈だ、
と実体験を基に記憶するフィアシスにとって、
アルムに対するここまでの態度の軟さは、
流石に違和感を禁じ得ないものだった。
「ところで、あの者は?」
「戦死した兵士の妻だ。
赤の第二王女の隊と交戦したようだな。
直接王女と交えたのかは不明だが……
まぁ、典型的な逆恨み、といったところか。
事が事だけに、終身刑は免れないだろう」
レフィアの問いに、アルムはいかにも事務的に、
まるで報告する必要もない些事であるかのように答えるが、
フィアシスはその内容に息を呑んだ。
クレミアの隊と交戦した、という一文にも衝撃を禁じ得なかったが、
何より、アルムが簡単に口にした終身刑という単語。
これは、イグリオール王国に於ける極刑である。
受刑者は緑の国との国境付近の砦に移される。
フィアシスが知るのは、ここまで。
砦は武闘派の軍人が取り仕切る重労働社会。
囚人達は男女を問わず、休みなく、
白の兵が扱う白銀の兵装の鋳造や鍛冶を強いられる。
白煙が溢れ、煤に汚れた、石造りの堅牢な砦は、
赤の国の鋳造所さながらだ。
有事には先遣兵としても駆り出される囚人は、
並の軍人よりも遥かに危険で過酷な日々を、
その生涯が閉じるまで続けることになる。
「それで……あの者の侵入経路は、やはり?」
アルムの閲読を妨げない程度に報告を促すレフィアだが、
その語調には、遠慮とは異なる僅かな逡巡が含まれており、
併せて、一度だけ視線がフィアシスの方へ泳いだ。
フィアシスはレフィアの変化にこそ気付かなかったものの、
『侵入経路』という単語には、途轍もない不安を覚えていた。
或いは、その報告を聞く前から、
どこか核心めいた胸騒ぎをフィアシスは感じていた筈だ。
ただ、それを自覚することは、
「ああ、北門だった。偽造の招待状で入ったようだな」
「っ!」
彼女にとっては、あまりにも苛酷だった。
一方で、視線を書から外すことも無く、
あくまで無機質な口調で答えたアルムは、
そんなフィアシスに対しては目もくれない。
自責。フィアシスの心に浮かぶものは、ただその一念のみだった。
無知に過ぎる自分の甘い理想が、親友のクレミアを傷付け、
一人の女性の人生を壊し、そして赤の国との戦を引き起こした。
人が傷付く事を望んだ瞬間など一度としてない、
誰とも知れぬ悲報にすら心を痛めるフィアシスにとって、
それは余りに、目眩を覚えるほどに、絶望的な事実だった。
「ぁ、あの……わた……」
フィアシスは惑乱の只中で、言葉にならない声を漏らすが、
「概ね予想していた通りだったな。
それで、私にはどのような命が下る」
書簡を読み終えたアルムは、レフィアに向き直り、話を継続する。
その仕草の一つ一つに、フィアシスへの配慮は一切無い。
あの日、北門の警備の強化を進言したアルムからすれば、
自身の願事を優先し、この事態を招いた自分は、
どんなにも愚かな命主だろう。
失望されただろうか。非難されているだろうか。
言葉を聞く価値すら無いと思われているだろうか。
その想像は、フィアシスの心の奥深くから、
とても昏い感情を噴き出させていた。
「貴方が私なら、どのように命令しますか?」
アルムが差し出した書簡を受け取り、レフィアは問う。
無論、あの日のフィアシスとアルムの会話の内容は、
フィアシスの侍従からレフィアの侍従を経て、
レフィアの耳にも入っていた。
彼女が女王として下した判断は、フィアシスの肯定。
自責というなら、寧ろレフィアこそが、
この場で最も大きな自責を抱えているだろう。
ただ、彼女はそんな感情を誰にも見せはしない。
「非はこちらにあった。
敵国が事の解決法を明確に提示している以上、
それに確実に応じるべきだろう。
無論、女王がそう命ずるならば、だが」
「……」
あの夜と同じく、自らが出陣すべきと語るアルムに、
レフィアは瞼を伏せて思案に耽る様子を見せた。
淡々と、全く口調を変えずに語られるアルムの言葉は、
幾ら想定されていたこととはいえ、
フィアシスの心を大きく抉るものだ。
自分のせいで、アルムが戦場に立つことになる。
まだ出会って僅か数日とはいえ、
既に掛け替えの無い相手になったアルムが。
ましてや、相手は今代最強と謳われる赤の王女ティニア。
幾ら白の国の剣術大会で優勝を収めたとはいえ、
それで勝利が確約されているわけではない。
そして、ティニアがこれを私刑であると宣言している以上、
敗北は即ち死だ。
もはや、ただ願うことしか、フィアシスには出来ない。
女王であるレフィアが、アルムの出陣を否認してくれれば。
そうすれば、誰もそれを覆すことは出来ないのだから。
だが、
「……良いでしょう」
「お母様!?」
再び瞼を開いたレフィアが浮かべる表情は、
フィアシスの知らない、戦地を馳せる女王のそれだった。
「フィアシス=イグリオール親衛隊隊長アルム。
イグリオール王国女王としての権限で、
私、レフィア=イグリオールが、
貴方の命主、王女フィアシスを介さず勅命を下します。
明後日の正午、ラグナ平原へ向け出陣し、
この書にある通りの日時、グレイス軍を迎え撃ちなさい。
本日中に、貴方を大将とする混成部隊を私が編成し、
書状で正式に発令します」
「了解した」
それは、フィアシスが生涯で初めて目にする、
出征の命令が下される瞬間だった。
フィアシスが感じるものは、目が眩むほどの疎外感。
同じ場所に居合わせながら、途方も無い遥か遠くで、
二人の間だけで出されてしまった結論は、
彼女の存在、彼女の想いから掛け離れたものだった。
「そして……
必ず、この国に帰ってくるように」
フィアシスの表情に宿る悲歎を察して、
というわけではないだろう。
レフィアはあくまでアルムの兜の奥、
窺い知れぬ深い影の向こうの瞳を見詰めながら、
一言ずつ、説き聞かせるように告げた。
「……了解した」
レフィアの深刻なまでの眼差しを受けたアルムは、
僅かな間を置いてから、忠実に頷く。
帰ってくる。アルムがそう約束した。
ただそれだけでフィアシスは、
自責と憂戚に震えていた自分の心に、
仄かな安堵の温もりが、小さな冀望の光が、
確かに灯ったのを感じていた。
この日の夜、
レフィアの言葉通り、正式な征戦計画が発表された。
隊長にアルムを据えて編成されたのは、
白星騎士団の団員を中心に集められた、八〇〇名余りの大隊。
城内は矢庭に戦時の様相を呈し、
白銀の甲冑が鳴らす重厚な金属音は、
夜半に至るまで兵舎に響き続けていた。
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