陽の章 第二十四項 ~紫元~
緑の民の怒りに触れてはならない。
これはリハデアに生きる者にとって、
聖戦の時代からの常識、そして教訓として語られているものだ。
他の国の者達よりも強い同族意識と団結力を持ち、
誰か一人の怒りが、即ち種族全体の怒りとなる。
平時に於いては悠然と生きる狂人族も、
一度戦となれば、目を剥き、牙を剥き、死をも恐れぬ戦士と化す。
戦場での彼女らの姿は、赤の民をも怖気付かせるほどだ。
『オオオオオオオオオオオオオオオオッ!!』
怒りに満ちた咆哮が、大橋の向こうから木霊する。
姿が見えずとも、その声の重なりが百や千で足りないことは、
誰の耳にも明らかだ。
間もなく、このライラーズ大橋には、
この怒号の発生源たる緑の大軍が雪崩れ込むだろう。
「来たね」
「えぇ」
国境の橋の白の国側。
今まさに押し寄せんとする緑の軍を待ち構えるのは、
たった二人の白の民。
一人は、白星騎士団の若き隊長たるウェイ=リウェン。
儀礼用の華美な白銀刺繍の外套を纏った男は、
橋の向こうを真っ直ぐに見据えて、不敵に笑う。
もう一人は、白の王城で住み込みで働く侍従イレーネ。
純白の美しい長髪を山風に靡かせる女は、
傍に立つ男の横顔を見詰めて、不安げに頷く。
「本当に、あれを止められるのですか?」
胸の前で拳を握り、緊張に震える声を隠し切れないままに、
イレーネがウェイに問う。
「まぁ、見てなよ。
白星騎士団団長の名に懸けて、必ず止めてみせる」
そんなイレーネの不安を吹き飛ばすように、
振り向いたウェイが屈託なく笑う。
また、この笑顔だ。
いつだって、どんな苦境にだって、
彼はこの笑みを浮かべて立ち向かってきた。
大胆不敵、泰然自若。
彼はいつしかそんな言葉で評されるようになっていた。
「でも……」
それでも、今から立ち向かうのは緑の軍だ。
怒りに沸き、死を厭わぬ、狂戦士達だ。
彼がいかに優れた戦士でも、たった一人で臨むなど、
自ら死を選ぶに等しい行いだ。
だというのに、
「大丈夫。心配要らないよ。
この国と君は、僕が守るから」
まるで疑いようもないくらいの最高の笑顔で、
こんなことを言われてしまったら、もう、
信じて任せるしか出来なくなってしまうではないか。
不満とも愚痴とも言えない言葉を胸に抱えて、
イレーネは顔を真っ赤にしながら頷くしか出来なかった。
陽の章 第二十四項 ~紫元~
緑の国、ステイルランドの王城は、
リーステ山脈の北側の中腹に位置している。
前面はなだらかな丘陵が続き、王城からは裾野まで一望できる。
背面はリーステの急峰が並び、山越えは緑の民にも厳しい。
攻めるに難く守るに易い、難攻不落と呼ばれるに足る天然の城郭だ。
「き、貴様っ……!」
そんな緑の王城の守護を司る近衛の兵達は、
眼前に現れた侵入者に、狼狽を隠し切れない。
「不躾に過ぎる往訪ゆえ、警戒するのも已む無しだが、
こちらとしては事を荒立てるつもりはない。
この通り、白の女王からの親書も持っておる」
緑の兵達の眼前で、侵入者が悠々と露台に降り立つ。
青い髪、青い瞳、青い装束。
白の国に現れたとされる青の民ミヅキについては、
既に緑の国でも広く噂されていた。
もしもそれが、白の者に連れられて、真っ当な形で来訪したならば、
ここまでの警戒と混乱を顕にはしないだろう。
本人の言の通り、事前の通告が無いという不躾さもさる事ながら、
彼女らを最も驚嘆させたのは、その非常識極まる侵入経路だ。
ミヅキは、緑と白の国境を流れるセジム川から、
この緑の王城までを、一直線に歩いて向かってきた。
地表の森や山を踏み分けるのではなく、
遥か頭上に生み出した、氷の道を悠々と歩いて。
青の紡月が水や氷を操るものであることは、誰もが知っている。
それでも、どこかから伸びてきた氷の塊が、
そのまま自らの頭上まで至るという、
非現実的な光景を目の当たりにした緑の兵達は、
初めは意味が分からずに呆気に取られるばかりで、
その上を歩いてくる人間がいる事に気付いてから、
ようやく迎撃の準備を始めたのだった。
「青の髪に、青の紡月。貴女がミヅキですね?」
ミヅキが露台に降り立って間もなく、
取り囲む兵達の人垣を割り、女王ファナンが前へ歩み出る。
突如として現れた氷の橋、そして歩み来る青い人影の報を聞くや、
ファナンは逡巡もなく、自ら近衛を引き連れて出迎える体制を整えた。
手を前で組み、微笑を浮かべ、静々と問うファナンだが、
身に纏う気配には警戒の色が強く滲む。
無理もない。
噂に聞く青の剣士ミヅキは、巨獣を一撃の下に屠ったとされ、
今も、途方もない距離の氷の橋を作り上げて見せている。
その実力が並ならぬものであることは疑う余地もない。
「いかにも。
八尾の狂人、緑の女王ファナン=ステイルランド。
早々に目通りが叶い、光栄だ」
眼前のミヅキが不敵に笑う。
得物を抜き放つ気配などまるで無いというのに、
緑の兵達が感じるのは、
まるで喉元に刃を突き付けられているかのような緊迫だった。
下手に動いたところで、
爪が届く前にこちらの手足が落ちるのは間違いないだろう。
「お待ちしておりました。歓迎いたしましょう」
そんな兵達の畏怖を余所に、
女王ファナンは穏やかに微笑み、ミヅキに向けて歩を進めた。
赤の国の西側を占めるグレイス砂漠。
中央街道を辿る道を選んだ場合、
平原から砂漠へ踏み入るための拠点となるのがディンだ。
平時には、これから砂漠に挑む者が入念に準備を行い、
砂漠を抜けてきた者が足を休める宿場であるが、
戦時には関門は閉ざされ、白の軍を迎え撃つ城塞となる。
その閉ざされた門の東、
肉眼で見えるほどの場所で睨み合う、赤と白の軍勢。
互いに百にも届かぬ少ない数であるが、
それを率いるのは、紛れもなく一騎当千の将だ。
「まさか、こんな形で貴様と再び相見えようとはな」
赤を率いるのは、第一王女ティニア。
そして、傍に控えるのは第二王女クレミア。
赤の女王の嫡子が二人並び立ち、己が近衛を率いている姿は、
凡百の兵が見たならば、さぞ心が沸き立つ光景だろう。
ましてや、その二人が相対する者が、
第一王女が一度敗北を喫した難敵であるならば、尚の事だ。
「無理な招聘にもかかわらず、
二人揃って応じて貰えたことに感謝する」
白を率いるのは、異邦の剣士アルム。
奇しくも、ティニアとアルムが初めに剣を交えた時と、似通った状況。
あの時はクレミアへの襲撃が口火を切り、
今回は、赤の市民による白の王女フィアシスへの襲撃が端を発した。
「正直、こちらとしては意味が分からん状況なんだがな。
赤の民の不可解な死について詰問するという話から、
どうすればあんな怪文書に繋がるんだ」
白の王都に滞在していた赤の市民が、
城下町を視察中の白の王女を襲撃して捕縛され、獄中で自害した、
という話がティニアの耳に入ったのは、
既に白の国への返信が出された後のことだった。
一歩間違えば全面衝突にも繋がりかねない問題が、
自分に伝えられる事すらも無いまま処理されようとしていた、
という事態にティニアは憤りを隠せずにいたが、
それを問い質そうとしたクレミアに至っては、
まだ事件を知りもしなかったという有り様であり、
白の王女を案じて狼狽する妹の姿は、
流石のティニアも気の毒に感じてしまうほどだった。
今も病床に伏せる、それも文官の種である母が、
殊更に争いを求めるとも思えない。
母に代わり内政を分担する父王達も同様だろう。
今、赤の国で最も闘争を欲する立場にあるのが、
他ならぬティニア自身だというのに、
此度の襲撃が、白の国への文が、
誰が何を判断した結果生じたものなのか、未だに定かではない。
そんな中で、白の女王から届いた返信の、
わざわざ母と自分と妹に宛てて同じ文面で三通も寄越した中身は、
黒の王と青の王が現れただの、
五国の王族が集うように求めているだのと、
まるで世迷い言、アルムや青の剣士の存在を知らぬまま聞いていれば、
気でも違ったのかと疑うようなものだった。
ただ、肝心の赤の市民の死については、
捕縛したのはアルムである、
詰問にはアルムが応じるので赤の王女のいずれかに立ち会って欲しい、
という明確明瞭な回答が示されていた。
初めはティニアが一人で向かうつもりでいたが、
白の王女の安否に関わる事案ゆえか、クレミアが頑として譲らず、
今ここに二人が並び立つに至る。
「怪文書と言われても、こちらが求めているのは文に記した通りだ。
今、緑の国には、青の女王ミヅキ=ツキカゲが向かっている。
可能であれば、君達二人にも……」
「待て待て! 勝手に話を進めるな!」
当たり前のように青の女王などという言葉が放たれて、
ティニアは狼狽を隠せないまま言葉を遮る。
白の国側では、既に受け容れられている話なのかも知れないが、
ティニアからすればまだ妄言の域を出ない話だ。
何より、今この場にティニアが自ら足を運んだのは、
白の国側の要求を諾々と呑むためではない。
「まずはこちらの話、
赤の市民の死についての詰問が済んでからだろう」
事実としてアルムが黒の紡月を操る以上、
青や黒といった話が、この件を誤魔化すための虚言とは思わないが、
それでも、赤の王女たるティニアからすれば、そんなものは二の次だ。
自国民の命に纏わる問題を棚上げにする理由にはならない。
「確かにそうだな、失礼した。
仔細は既に文にて伝えたとおりだが、問いには私が答えよう」
殊の外、ということもないだろうか、
アルムがティニアの言葉に素直に応じる。
思えば、クレミアの怪我の一件に於いても、決闘に於いても、
この剣士は態度は大きく、何ならこちらを下に見ている節すらあるが、
一方で、話は通じるし、道理を弁えているし、
尊大さと見合わない素直さをティニアに感じさせていた。
「では、順に問おう。
白の王都にて、赤の市民複数名が捕縛された。
これは、白の王女に刃を向け、命を脅かしたからだ、
と記されていたが、これは事実か」
「事実だ」
脇に控えるクレミアが、大きく息を吸う音が聞こえた。
ティニアは構わず問いを続ける。
「赤の者達を制圧・捕縛したのはアルム、お前だと記されていた。
これも事実か」
「ああ、事実だ」
問いに間を置かずアルムが答える。
何も驚きには値しない。
アルムの剣の腕を鑑みれば、たとえ徒手であっても、
生半な相手ならば易易と仕留めてしまう姿は想像に難くない。
ましてや緋鳳斬をものともしない黒の紡月があれば、
万に一つも身の危険など無いだろう。
そして、自分との決闘の決着を無血で済ませたアルムならば、
襲い来る相手であろうと、命を絶ちはするまい。
その光景を思い浮かべれば容易に納得がいく。
ただ、
「こちらで集めた証言では、
その日、白の王女が連れていたのは、
白い髪の女だった、とのことだが」
アルムであったというならば、これが不可解だった。
別に、女であると言われても驚きはしない。
体躯は鎧で隠されていて、
兜でくぐもった声も不明瞭だが中性的な高さだ。
性別を偽っている可能性も頭にあった。
だが、黒の紡月を扱うのならば、その髪は黒であるはず。
「ああ、そこを問われるのは想定していた。
予め主に了解を得ている」
言いながら、アルムが両の手を首元に運ぶ。
まさか、とティニアが思うよりも早く、
アルムはそのまま、兜の留め具に手を掛けた。
動揺は、赤だけでなく、白の側にも見て取れる。
あの様子では、白の兵達も、アルムの素顔など知らず、
この場で兜を外すとも思っていなかったのだろう。
それだけ秘匿してきたはずの本性を、ここで晒すというのか。
然しものティニアも戸惑いを隠せずにいたが、
「これで納得してもらえただろうか」
呆気なく、事も無げに、アルムが兜を脱いだ。
「白い髪……」
クレミアの呟きが漏れ聞こえた。
赤の陣にも白の陣にも、ざわめきが広がっている。
晒されたアルムの髪は紛れもなく白。
顔立ちも声も中性的ではあるが、
女であることを疑うようなものでもない。
声真似に長けた替え玉を用意したと言うのでなければ、
アルムは白の国の女である、ということだ。
「……なるほどな」
何のことはない。
結局、初めにティニアが想定していた中身の一つが、
そのまま正解であったというだけの話だった。
ただ、たとえ可能性の一つとして挙げただけとはいえ、
『正視に堪えないほどの醜貌』などとは、
流石に恥じて詫びねばならないだろう。
目の前にあるのは、最上級の美貌に他ならない。
「だがそうなると、
お前が黒の紡月を扱うことが不可解でならんのだが」
「事情は追って話そう。
ただ、私は黒の国の人間であり、
私が扱うのは白ではなく黒の紡月だ」
訝しむティニアの言葉に対し、
アルムが念を押すような口調で答える。
紡月の色は生まれと等しい筈ではあるが、
思えば、光の紡月などという埒外を操る者もいた。
自分が知らないだけで、
そういった事も起こり得るものなのかと、
ティニアは無理矢理に自分を納得させる。
それに、もしアルムの紡月が産まれながらに黒であった、
というならば、合点の行く部分もある。
「話す気があるというなら、今は良しとしよう」
多少は面食らったものの、話の本題はアルムの素性ではない。
自身と、後ろに並ぶ兵達に言い聞かせるように、
ティニアがはっきりとした口調で続ける。
「話を戻すが、赤の者達は襲撃現場でお前に殺されたのではなく、
捕縛された後に投獄され、獄中で死んだ。
これも間違いないか」
「あぁ、私が直接遺骸を見たわけではないが、
看守からそのように報告が上がっている」
事の核心、赤の民の死の経緯について触れても、
アルムの口調はまるで揺るがない。
表情が見えるようになったところで、
兜で隠されているのと大差ないと感じるほどの鉄仮面ぶりだ。
嘘や誤魔化しの気配は微塵にもない。
この剣士がそんな手合いでないことは分かり切っている。
しかし、それならば、
「それでは、お前は赤の者達の死の真相を知らないということだ」
不自然に極まる獄死を遂げた者達が、
文に記された通りの自死なのか、それとも何者かに殺められたのか、
赤の国として一番明らかにすべき部分はそこだ。
だというのに、詰問を受ける人物が知らないとなれば、
それではまるで意味が無い。
いっそ、襲撃の場でアルムが全員を返り討ちにした、
とでも言ってくれれば話は早かったのだが。
「あぁ。
看守の一人一人に聴取は行われたが、証言に矛盾もない。
白の国としては、前回の親書に記した通り、という回答になる」
ならば看守を全員この場に連れてこいと要求すべきであろうか。
そんな考えがティニアの頭を掠めるが、すぐに霧散した。
白の国がそれを呑むわけがないし、
アルムがそう断じているならば、
本当にそれ以外の結論には至らないのだろう。
単純な口裏合わせ程度なら看破し、この場で事実を語ってみせるはずだ。
「白の国側の主張は理解した。
だが、こちらとしては受け容れ難い話でもある」
「そちらの考えも理解できる。
正直に言えば、私としても腑に落ちてはいない。
襲撃そのものが別の何者かに企図されたものにも感じている」
アルムが応えた言葉に、ティニアは心の中で頷く。
どうやらアルムも自分と同様に捉えているようだ。
死んだのが軍属、或いは間諜の者ならば納得もいくが、
経歴を洗っても全くそういった痕跡は無く、
なんなら個々人同士の関わりも皆無だった。
そうなると考慮すべきは、
襲撃の時点で全員に精神操作の類の紡月が施されていた可能性。
それならば、下手人の自害まで含めて説明がつくだろう。
被術者の口を閉ざしてしまえば、そこから先には辿り着きようがない。
そして、精神を操る紡月は白が得意とする領域。
白の国の立場としては明らかに『余計な一言』を、
わざわざ口に出すアルム個人については、
少なくともティニアにとって信頼に値する。
「今から他の誰かを問い詰めたところで、
何も情報は出てこないだろうが、
疑わしき点が残っている以上、
やはり、こちらとしては白を非難する立場に変わりはない」
「白の国としては、事を荒立てるつもりはない。
文にもあった通り、白の女王は対話による解決を求めている」
落とし所の見つけ難い話になった、
というのが、ティニアの率直な胸中だった。
本音をそのまま言葉にするなら、ティニアはこの件に拘るつもりはない。
赤の民の獄死については悼みも憤りもあるが、
それよりも赤の内の混迷ぶりに対する怒りの方が勝っているせいで、
初めから感情的には冷めてしまっている。
自分と白の女王との対話で済むならそれで良いとも思うが、
それはそれで、弱腰だなんだと言い出す輩が現れるのは想像に難くない。
大変に不愉快である。
ならば、
「例えばの話だが、
赤の国がこの件を武力で解決すると言ったら、お前はどうする?」
やはり我を通してしまうべきだろう。ティニアはそう結論付けた。
「姉さんっ……!」
ティニアがさらりと口にした言葉に、
脇で事の成り行きを見守っていたクレミアが即座に声を荒らげる。
あまりに予想通りの反応に苦笑しつつ、ティニアはそれを手で制した。
前回のアルムとの戦いの際にティニアは認識を改めたが、
抱いている理想と、発露する方向性が異なるだけで、
クレミアもやはり赤の王族である。
「そうだな……
この場で君一人を捩じ伏せて、
力尽くで対話の席に座らせるのも吝かではない」
「アルム様まで……!」
ティニアの問いの意を充分に汲み、アルムが返す。
悲嘆の声を漏らすクレミアを敢えて捨て置き、
ティニアは更に続けた。
「雪辱の機会をそちらから用意してくれるとは、
願ってもない話だな」
赤の民の死について、赤の側が納得する結論に至ることはなく、
この場のやり取りだけでは今以上の進展も望めない。
さりとて、白の側の要求を丸呑みする赤の国でもない。
対話の席に着くことを已む無しとするだけの状況が必要だ。
「クレミア、下がっていろ。
命のやり取りをしようというわけじゃない」
言いながら、双剣を抜き放つ。
おぉっ、と背後から兵達の沸き立つ声が上がるものの、
残念ながら、ティニア自身はその期待に応えられると思っていない。
アルムに敗北して以来、それまで以上に研鑽を重ねてきたが、
どう足掻いても、今の自分がアルムに敵うことは無いだろう。
今は、ただ挑むのみ。
敗北の後に待つ失望や誹謗は甘んじて受け入れる。
それでも、王族を軽んじる者達の思惑通りに進むよりは、遥かに良い。
「もう一つ」
臨戦態勢に入るティニアに対し、
アルムが得物に手もかけないままに語る。
「君達二人を招聘するにあたり、顔を晒すことに加えて、
剣を交える状況になった場合には、
見せても良いと言われているものがある」
黒鉄の手甲に覆われた手が、その細い首に触れる。
場違いに思いつつも、華奢な体つきだ、とティニアは感じた。
体躯や筋力に優れる赤の自分と比して、という話ではない。
上背こそ程々にあるものの、首から上だけを見る限りでは、
白の女の中でも痩身の部類ではないだろうか。
到底、あれほどの苛烈な剣を放つ戦士には見えない。
アルムの手が触れたのは、首に巻かれた鎖状の黒い装飾。
遠目には刺青のようにも見えていたそれを、
アルムが指で捩じるようにして外した。
「っ!?」
その刹那、ティニアが感じたのは強烈な違和と悪寒だった。
眼の前にいるアルムが、何か別の物に、
それも明確に忌避すべき何物かに置き換わった。
本能的に、近付いてはならないと察せられる何か。
クレミアも同じものを感じているのだろう、
一歩後退る姿が視界の端に映った。
赤と白の兵達も同じように混乱している様子が伺える。
「なっ……!?」
変質の正体が、ゆっくりと目に見える形で現れ始める。
ティニアは驚愕の声を短く漏らすのが精一杯だった。
アルムの髪の色が、純白から徐々に別の色に変じていく。
初めは淡い赤かと思ったが、違った。
赤でも青でも黒でもない。
紫だ。
それは、ティニアの知る限り、紫としか呼びようが無い色だった。
真っ先に想起されるのは、紫元の月だろう。
紡月の根源と呼ばれる光を放つ、リハデアの夜を照らす月の色。
リハデアに産まれる者の色として存在し得ない異様が、
ティニアの前にあった。
「五国の王族が集った場で見せる予定だったものだが、
状況が状況ゆえに、君達には先に見せて良いという事になった」
髪を真紫に染めた姿でアルムが言葉を放つ。
先ほどまでと同じ口調、同じ声であるにも拘らず、
まるで別の生き物が人の言葉を話しているかのような異質感。
同じものを、クレミアも兵達も感じているのだろう。
アルムが素顔を晒した以上の動揺が周囲に広がっている。
「疑念は尽きないかと思うが、説明は後にさせてもらおう。
まずは君達に、招聘に応じてもらわなければならない」
剣を構えることもなく、アルムが足を一歩前に踏み出す。
それだけで、全身が総毛立つような怖気が走った。
双剣を握る手に力を込め、ティニアは大きく息を吸う。
アルムの身に何が起こっているのかなど分かりようもないが、
戦うと決めた以上、恐れてなどいられない。
眼前の敵を真っ向に見据えて、ティニアもまた足を踏み出す。
アルムが力尽くで捩じ伏せるとまで言ったのならば、
これこそが、アルムが全力で力を振るう姿なのかも知れない。
かつて敗れた際にも確かな実力差を見せつけられたというのに、
更にそれを超える力を隠していたというのか。
怒りや屈辱を通り越して、いっそ愉快にすら感じられた。
自分を圧倒した剣技、緋鳳で傷一つ付かぬ黒の紡月、
それらを上回るような驚嘆があるのなら、是が非でも見てみたい。
「ならば、言葉通り捩じ伏せてみろっ!」
声高く吼え、ティニアがアルムに向けて駆ける。
背には赤の兵達の烈々たる声援。
僅かに混じるクレミアの静止の声など知ったことではない。
「おおおおおぉぉぉぉっ!」
元より言葉を交わす程度の距離。
ほんの数歩の疾駆で間合いに入ったティニアは、
双剣を上段から真っ直ぐに振り下ろす。
まだアルムは得物に手を掛けない。
いくらアルムの剣が速かろうと、
この拍子からティニアの剣を受けることなど、
「……」
アルムが動いた。
だが、右手が向かう先は腰に携えた黒刀ではない。
真っ直ぐに、迫り来るティニアの方に向けて伸ばそうとしている。
二振りの斬撃を、手甲で受け止めようというのか。
或いは黒の紡月を展開しようとしているのか。
いずれにせよ、ティニアの成すべきことは変わらない。
大きく踏み出した右足で地を踏み抜きながら、
ティニアは全力で腕を振り抜いた。
そして、
「……っ!?」
ティニアの両腕が、そのまま最後まで振り抜かれた。
受け止められる衝撃が伝わるでもなく、
打ち据える音が響くでもなく、
空振りしたかのように、何の手応えも無い。
背後の赤の兵達には、
ティニアの斬撃が過たずアルムを捉えたように見えたかも知れないが、
右腕を前に突き出したアルムの甲冑には、擦り傷一つ無い。
それどころか、異常はティニアの得物の方に起きていた。
双剣の刀身が、その半ばほどから欠損している。
それが見間違いでないことは、
柄を握るティニアの腕が感じる重量の変化が物語っていた。
「何だ、今のは……?」
アルムの挙動を視界に捉え続けていたティニアが、
その瞬間に目にしたのは、何とも形容し難いものだった。
アルムが伸ばした右手がティニアの双剣に触れる直前、
紫色の光が溢れたのが見えた。
そこから先をティニアの語彙で表すならば、
紫の光が満ちた空間がぐにゃりと歪んで、
その歪みに触れた瞬間に、剣が消滅した。
消滅としか言いようが無いだろう。
砕けたようには見えなかったし、熱で溶けたわけでもない。
現に、消失した箇所の残骸は周囲のどこにも見当たらない。
残った刀身の端を見れば、風化した砂岩のように、
赤銅の破片が僅かにぽろぽろと崩れ落ちている。
「それを説明するためにも、私と共に来てもらおう。
武器を失った以上、継戦は難しいだろう」
未だ腕を振り抜いた姿勢のまま呆然とするティニアへ、
まるで変わらぬ語調のアルムが告げるが、
ティニアの心中はそれどころではない。
実戦で振るい続ければ毀れも折れもする。
新調することは珍しくもなく、
特別な思い入れがあったわけでもない。
それでも、赤の鍛冶師が自分の為に設えた最上の剣だった。
それが、こんなにも無造作に、呆気なく。
「こんな……納得などできるか……!」
譫言のような声で漏らしたのは、批難というよりも嘆きだった。
睨めつけたアルムの表情は、やはり黒鉄の兜のような冷徹で、
勝ち誇るでもなく、嘲るでもなく、かと言って悪びれるでもない。
未だティニアの手に握られる、双剣の柄。
このままアルムの顔面に拳を叩き込めたならば、
打ち合うことすらも無いまま朽ちた物への弔いになるだろうか。
ティニアがそれを実行に移すよりも早く、
「姉さん!」
背に、クレミアの声が響いた。
ティニアの剣に何が起こったのかは、
後ろからでも見て取れただろうに、
それでも、駆け寄る足音には一切の躊躇がない。
「……」
クレミアの意固地さは、先の敗北の際に思い知っている。
落胆と諦観の溜息を吐き、姿勢を正すと、
ティニアは半ばまで失われた双剣の刃を慎重に鞘に納めた。
「見ての通りだ、クレミア。
もうまるで意味が分からんが、ともあれ負けは負け。
俺は、白の国に出向かなきゃならんらしい」
いかにも不安気な困り顔のクレミアに、
ティニアが努めて砕けた語調で伝える。
妙な気を起こす心配など万に一つも無い相手ではあるが、
それでも、その直情さには危うさも感じている。
「であれば、私も……っ!?」
自分が一人で赴く、という意図のティニアの言葉に対し、
帯同を申し出ようとするクレミア。
その言葉が途切れた。
遮ったのは、視界を染めるほどの瞬光だ。
「くそっ、今度は何だ!?」
痛みを感じるほどの強烈な白光の瞬き。
反射的に瞼を閉じたティニアの口から、思わず悪態の声が漏れる。
光の紡月かとも思ったが、それならばもっと金色と呼ぶべき色のはず。
今の光は、紛れもなく純白だった。
光は文字通り瞬く間に収まる。
瞼を開いたティニアの眼前には、恐る恐る片目を開くクレミアの姿があった。
少なくとも、自分と妹の身に異変は無いと知り、ティニアは安堵の息を吐く。
「あれは……?」
ティニアには視界が急に白く染まったように感じられたが、
クレミアには光源の方角が見えていたのだろう、
顔を上げると、迷わず視線を一点に結び、ぽつりと声を漏らした。
それに釣られるように、ティニアはクレミアの視線を追う。
「白い……何だ? 煙? いや霧か?」
視線の先、遥か遠方、そこに見えたのは、白く細く高く伸びる何か。
方角や距離を鑑みれば、ちょうど白の王都の辺りだろうか。
赤と白の国境より西に立つティニアの目にすら映るほどなのだから、
それこそ、リーステの高峰にも及ぶ高さかも知れない。
山や柱のような物には見えず、霧のように霞んで見える。
波立つように淡く白い光を放つ姿は、
さながら細い白糸で織られた面紗のような佇まいでもあるが、
少なくとも、視界に捉えた瞬間にティニアが感じたものは、
アルムの変異と同様の悪寒だった。
美しくなど感じないし、快いものだとも思えない。
「まさか……ディアクティベーター……!?」
同じ方角を振り返ったアルムが、珍しく動揺を顕にして声を漏らす。
表情までは見えないが、その声色だけで、
アルムが用意したもの、予期したものでは無いことが伺える。
「ディ……一体何の……」
「馬鹿な、あれを操るのは……!」
口走った言葉をティニアが問い返すより早く、
声も聞かず一瞥もくれず、アルムが白の陣に向かって駆け出す。
その疾駆は、ティニアの戦場での突撃よりもなお速い。
「……あぁ、くそっ! 何が何だかまるで分からんぞ!
クレミアッ!」
アルムは対話していた相手を蔑ろにするような質ではない。
ならば、それだけ余裕を無くすほどの事態なのだろう。
その場に取り残されたティニアは頭を切り替えて、
「はいっ、私も行きます!」
自分はアルムを追う、と続ける暇も無くクレミアが続けた。
迷いや恐れなど微塵にも無い声だ。
ティニアは声に出さず、クレミアの胆力を称賛する。
「……分かった、付いてこい。
近衛! 馬を持て! 俺とクレミアはアルムを追う!」
「はっ! 仰せのままに!」
自陣に向けて吼えるティニアに、近衛の兵が応えた。
アルムの変貌、ティニアの剣を消失させた力、そして今も聳える白く光る何か。
立て続けに起きた異変に、流石に狼狽の色は隠せないようだが、
それでも自分が号令を一つ飛ばせば迅速に動く。
誇らしく思うと共に、同じ相手に二度も敗北する背を見せた事への不甲斐なさが、
今になってティニアの胸に押し寄せてくる。
借りは必ず返す。敗北の汚名は必ず雪いでみせる。
白の陣に戻るや否や馬に飛び乗り駆け出していくアルム。
その背を睨みながら、ティニアは一人決意を心に刻んだ。
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