陽の章 第二十五項 ~混迷~(冒頭部のみ)
「イレーネ! ぼ、僕と! 結婚してくれないか!」
暮夜のイグリオール王城、その城壁の露台の一角。
白星騎士団団長ウェイ=リウェンが、
眼前の想い人へ向け言い放った声は、ともすれば、
何事かと人が駆けつけてもおかしくない程の声量であったが、
配下の騎士達に頭を下げて人払いを頼んで作り上げた一世一代の大舞台には、
邪魔者の心配はないだろう。
ここは二人の出会いの場所。
あの日、遥か故郷を望むこの露台で黄昏れていたウェイに、
どうしたのか、とイレーネが声を掛けた。
そこから始まった恋だった。
彼女は知っていた。
今日この場で、ウェイが自分に何を伝えようとしているのか。
場内に飛び交う言葉の一つ一つが、
彼女の耳に入れる価値の有無を選り分けたうえで、
全て彼女に伝達されるようになっている。
その中に、ここ数日の白星騎士団の動向も含まれていた。
彼女は知っていた。
ウェイが、自分をどれだけ想ってくれているのか。
いや、たとえ今の今まで知らなかったとしても、
紫の月光にも分かるほど頬を紅潮させた、
ウェイの真剣な眼差しを受ければ、
一目でそれが他意のない真摯な想いであると分かるだろう。
嬉しい、と。喜んで、と。
何の憂いも無く言えたならば、良かったのだが。
彼女には一つ、解決しなければならない問題があった。
そう、他ならぬ彼女自身の素性について。
彼はまだ知らない。
自分が「イレーネ」と呼ぶ相手が、実のところ如何なる人物であるのか。
もしそれを知ったならば、
ウェイは今の言葉を、「イレーネ」に向けた求婚の言葉を、
もしかしたら取り下げてしまうかも知れない。
それでも、伝えないわけにはいかないだろう。
自らの素性を偽ったまま、求婚に応じることなど、
「喜んで。私を貴方の妻にしてください」
そう思いながら彼女が口走ったのは、
何一つ偽りのない自分の素直な気持ちだった。
「ほ、本当に……!?」
「はい。もちろんです」
だって、嬉しいのだから。
彼のことが好きで好きで堪らないのだから。
そんな大好きな彼が、自分に求婚してくれた喜びで、
本当だったら飛び跳ねて叫びたいくらいなのだから。
彼を手放したくなんてない。
絶対に彼と結ばれたい。
その為だったら、そう、どんな手段だって厭わない。
「ウェイ……」
愛する人の名を呼びながら、彼女はゆっくりと足を一歩前に踏み出す。
「イレーネ……!」
応えるように、彼が一歩歩み寄る。
それだけで二人はもう互いの吐息すら感じられる距離。
瞼を伏せ、顔を上げる。
眼前で、ウェイが大きく息を吸う音が聞こえた。
そして、
「……」
紫の月光の中、満点の星空の下、二人の唇が重なった。
それは、二人が出逢ってから初めての行為。
彼女が、そしてきっと彼も、
いつかきっとこの人と、と思い描いていた、想いを伝え合う姿。
少なくともこの瞬間、彼女の頭にあったのは、幸福の二文字だけだった。
やがて、名残惜し気な動きで、ウェイが唇を離す。
その唇が次の言葉を紡ぐよりも早く、彼女が口を開いた。
伝えなければならない事実を告げるために。
「ウェイ。
実は、私からも貴方に、大切な話があります」
夢心地な気持ちを抑え、表情を引き締め、
鋭い眼差しで、ウェイを見詰める。
「……何だい?」
彼女の纏う空気から、
告げられる言葉が決して浮ついたものではないと察したか、
ウェイもまた姿勢を正し、真剣な声で促す。
「私は……私の名前は、イレーネではありません。
王城に住み込みで働く侍従というのも、嘘です」
「……」
戸惑いの表情を隠せないウェイ。
それでも、決して眼を逸らさず、真っ直ぐに視線を結んだまま。
「私の本当の名は、レフィア=イグリオール」
レフィアは初めて自らの素性を告げた。
「レフィア、イグ……って、えぇっ!?」
伝えられた名を繰り返そうとした、その途中で、
その名の意味するところを理解したウェイの声が裏返る。
「白の女王ネスフィア=イグリオールの娘、第一王女レフィア。
それが、私の本当の姿です」
侍従のイレーネという偽りの姿は、
何も彼を騙すために始めたものではない。
元々、場内の声に耳を傾けるために使っていた偽装だった。
それが、笑顔を失った彼に寄り添うのに都合の良い姿だったというだけ。
もっと早く明かしても良かった。明かすべきだった。
ただ、彼との関係が変わることを恐れて、言い出せなかった。
「君が……王女様……」
ウェイが狼狽えるように一歩後退る。
驚きや戸惑いはどれほどのものだろうか。
求婚が、口付けが、どれほど大それた事だったのかと、
後悔すらしてしまっているかも知れない。
だから、そんな言葉が彼の口から漏れるよりも早く、
「どうか、許してください。
私は、ただ、貴方の傍にいたかった。
どうしても、貴方の隣にいたくて、それで……」
彼を繋ぎ止めるための言葉を、
「それで……だから……私は……」
詭弁を、
「私、私は……白の、王女で……」
用意していた策の通り、告げなければ。
王族は生涯を共にする伴侶以外に唇を許してはならないと。
だから、今から求婚を取り下げることなど出来ないと。
本当はそんな仕来りなど無いけれど、いかにもそれらしい理屈で、
逃げ道を塞いでしまえば、何とかなるはずなのに。
そう思っていたのに。
「だから、貴方は……貴方を……」
口からは震える声が零れるばかりで、
瞼からはぽろぽろと涙まで溢れ出して、
もう、何も考えられなくなってしまった。
「貴方が……好きです……愛しています……
お願いします……私の……私と、一緒に……」
俯き、手で顔を覆い、
嗚咽混じりの声を漏らすのが精一杯だった。
こんな筈じゃなかったのに。
彼が自分の傍に居てくれるように、上手くやる筈だったのに。
どうすれば。このままでは、彼が。
「僕で良いんだね、レフィア」
柔らかな声と、温かく大きな手がレフィアの肩を抱いた。
いつだって、そうだった。
自分がどれだけ不安に思っていたって、
彼は屈託のない笑顔で、そんなものは簡単に吹き飛ばしてくれる。
そんな彼だから、好きになったのだ。
「貴方だけ……私には、貴方だけです……」
「うん。だったら、改めて。
僕と結婚してくれるかい、レフィア」
「はい……もちろんです……!」
愛する人の温かな抱擁に身を委ね、
またぼろぼろと涙を流しながら、
レフィアは縋り付くようにその背に腕を回す。
幼い頃に思い描いた理想の相手とは少し違う人で。
予め思い描いた理想的な流れとは全く違う形で。
それでもきっと、
自分が思い描いたどんな理想より、
ずっと素敵な人からの、ずっと素敵な求婚だった。
陽の章 第二十五項 ~混迷~
涙月 はいぐろ @haiguro_ayana
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