陽の章 第二十二項 ~秘事~
「お前は、どうして……そこまで、強くなった……」
死合は終わりを迎えようとしていた。
アゼルの纏う白銀の甲冑は、
フェリアの放った数多の斬撃で歪んで、裂けて、
全身の至る所に刻まれた傷からは、止め処なく血が滴っている。
短槍を握る手は血に塗れて滑り、
次の一撃には取り落としてしまうのではないかと思う程だった。
「それしか、許されなかったからよ……」
アゼルの声に答えるフェリアもまた、
全身の至る所から血を滲ませ、整わない呼吸を繰り返す。
垂らした両腕は力無く、それでも双剣を離しはしない。
このまま戦えば、掌の血がいずれ固まって張り付いて、
二度と離れなくなるのではないか、
そんな悍ましい想像がぼんやりと浮かんで、すぐに消えた。
「俺は、強くなりたかった……
自分で、武器を振るって、それで、
民とか、好きな人とか、守りたいものを、守って、
そういうのに、憧れてた……」
「そうね、王族だもの。
別に、それは、おかしくないわ……」
息も絶え絶えに、表情を苦悶に歪め、
霞んだ視界で互いを見据えて、言葉を交わす。
飽きるほど語り合った話だった。
それを語るアゼルがいたから、
フェリアも望まぬ研鑽に意義を見出せたのだ。
「本当に、なんで……
なんで、俺は、お前と、殺し合ってるん、だろうな……」
「そんなの……」
答えの分かり切っている問いだ。
初めから分かっていたことだ。
「敵、だからでしょ……」
「そうか……」
頭で理解はしていた。
それでも、心が否定し続けた。
白と赤であっても、敵同士であっても、
求め合ってさえいれば、いつか、と。
「守りたかったな……お前のこと……」
絞り出すような声は半ば吐息に霞んで、
フェリアには最後まで聞き取れなかった。
「今更……」
この期に及んで尚、アゼルが自分に向ける睦言に、
フェリアが瞼を伏せて、照れるように俯いて笑う。
思わず双剣を握る手の力が抜けそうになるが、
それよりも早く、アゼルの槍が、地に転がった。
「えっ……?」
その音に、顔を上げて、アゼルを見る。
槍を落とした手が力無く開き、
俯いた首が更にだらりと垂れ下がり、
ゆっくりと、身体が傾いて、
「アゼルッ……」
フェリアが双剣を放り捨てて、足を前に踏み出すのと、
アゼルの左膝が崩れ地に着くのが同時だった。
そのままアゼルが左肩から倒れ、地に伏すまでを、
フェリアはただ呆然と見ていることしか出来なかった。
「ア……アゼル……?」
震える膝に力を込めて、引き摺るように足を前に運び、
フェリアがアゼルの傍まで歩を進める。
乾いて霞んでいた視界が、滲んで歪んでいく。
荒い息を繰り返していた喉が震えて、上手く息ができない。
「ねえ……アゼル……やだ……やだよ……」
アゼルの許に辿り着いた頃、声は嗚咽に変わっていた。
どこかで、死ぬのはきっと自分の方だろうと、
そう思っていたのかも知れない。
自分達が本当に命を奪い合うならば、
白の紡月を持つアゼルが生き残るのだろうと。
だから、覚悟は伴っていなかった。
「アゼル……ねぇ、アゼル……お願い……」
両膝が崩れ、フェリアがアゼルの傍にへたり込む。
両目から涙をぼろぼろと流し、
アゼルの体を力無く揺する姿は、
二人が出会ったあの日よりも、もっと幼い少女のようだった。
見届けた者達からは、
ただ勝敗という結末だけが伝えられ、残される。
二人が共に過ごした時間も、交わした言葉も、
重ねた想いも、望んだ未来も、戦った理由も、
全てはここに置き去られていく。
時を同じくして、
赤の国から白の国への宣戦布告が発せられた。
後に語られる歴史に於いて、
赤の王女フェリア=ティ=グレイスの名は、
この戦のどこにも現れない。
彼女がこの後に歩んだ軌跡に触れる書さえ、
今に至るまで、ただの一つとして見つかっていない。
陽の章 第二十二項 ~秘事~
夜更けのイグリオール王城を一人往く、小さな人影。
紫の月光に白い髪を煌めかせ、
身を隠すでもなく廊下の真中を静静と歩くのは、
複雑な心中を面持ちに滲ませるフィアシスだった。
フィアシスの夜の徘徊は、今に始まった話ではない。
自室に持ち帰った書を半端な時間に読み終えて、
新たな出逢いを求めて書庫に足を運ぶ姿は、
夜警の者ならば一度は目にしたことがあるだろう。
だが、今宵のフィアシスの足の向かう先は、
通い慣れた書庫ではなく、
自室の階下に宛てがわれた、かの王族達の客室だった。
黒の国、青の国、アルム。
フィアシスは言うまでもなく、
レフィアも、その先代も、その先代の時代にも、
御伽噺のようにしか捉えられていなかった、聖戦記。
不確かで曖昧な神話の時代の物語が、
まるで今のこの時に再臨するかの如く、
疑いようの無い姿で一度に押し寄せてきた。
「ふぅ……」
もう幾度目になるか、重い足取りで歩くフィアシスが、
胸に手を当てて深く溜め息を吐く。
いつまで経っても、一向に頭の整理がつかない。
黒の王テュード=ディメイルが白の王城に現れて、まだ半日。
城内の混乱は著しく、
いつもならばこの時間には灯りが消えているような、
厨房や執務室の窓からも、今日はまだ光が漏れている。
静かな廊下を歩いていても、
常にどこかから誰かの忍び声が聞こえるような気がして、
フィアシスは居心地の悪さを覚えずにいられない。
誰と話をしたくて、足を運ぼうとしているのか。
未だにそれさえ定まらないまま、フィアシスは夜闇の中を独り歩く。
今のフィアシスにとって、一番会いに行きやすいのはミヅキだ。
居を移す前とはいえ、ミヅキの部屋にはアルムを伴って何度も訪れているし、
ミヅキならば突然の訪問であっても歓迎してくれるだろう。
話せる範囲であれば、きっと隠さずに話してくれる。
一番傍にいたいと思うのはアルムだ。
親衛隊長として共に過ごした時間は三人の中では一番長く、
言葉は少ないながらも、常に誠実に向き合ってくれたように思う。
結果的に惨事の切掛になってしまったとはいえ、
素顔のアルムと共に街を歩いた時間は、
フィアシスの中で掛け替えのない幸福だった。
一番言葉を交わしてみたいのはテュードだ。
あまりに鮮烈で印象的な邂逅。
アルムとミヅキと共に少しばかりの時間を過ごしたものの、
まるで目を合わせることも出来なかった。
アルムに向けた穏やかな笑みが脳に焼き付いて離れず、
優しく語り掛ける声を思い出すだけで胸が甘く締め付けられる。
アルムを想う気持ちがあったからこそ、
これは紛れもなく恋であると、フィアシスは忽ち自覚した。
「……」
そうこうしている間に、目的地に辿り着いてしまった。
結局結論は出ないままだったが、
自然と足が止まったのは、アルムの部屋の前だった。
単純に一番手前であったというだけかも知れないが、
やはり自分が求めているのはアルムなのだと、
どこか安堵するような気持ちで、フィアシスは一つ息を吐く。
「……」
来訪を告げようとして、手と足が止まる。
アルムとミヅキの三人で過ごすのは、
訓練に使う中庭と、あとはミヅキの部屋ばかりで、
フィアシスはアルムの部屋に足を踏み入れたことがない。
招かれたこともないし、自ら訪問したこともない。
フィアシスにとっては珍しくもない活動時間だが、
こんな時間に突然訪れたとして、招き入れてもらえるものだろうか。
そもそもの話として、
この区画は前室付きの客室であり、その前室に侍従も配していないため、
外からでは火を灯しているか分からないし、
扉を叩いたところで居室にいる者には伝わりもしない。
即ち、初めから手詰まりの状態だった。
「はぁ……」
肩を落とし、落胆の溜め息を漏らす。
頭を巡っていた悩みと、ここまで歩いてきた時間は、
丸ごと徒労に終わってしまった。
諦めと踏ん切りと、あとは戸締まりの確認くらいのつもりで、
フィアシスは扉の把手に手を添えて、軽く回した。
「ぇ……」
すぐに施錠に突っかかって止まるはずだった手が、
予想に反して抵抗無くゆっくりと回り、
回り切ったところで、扉が僅かに奥に開いた。開いてしまった。
そんなことが、あるだろうか。
フィアシスの頭を一気に当惑が支配した。
あのアルムが。
ミヅキに促されて兜を脱ぐまで、
女性であるということすら悟らせなかったアルムが。
部屋の施錠を怠るような隙を見せるわけがない。
「……」
アルムの身に何か異常が起きているのか、という疑念を建前に、
好奇心に負けたフィアシスが、音を立てないように扉を開き、
忍び足で前室に足を踏み入れる。
前室の照明は灯っていない。
当たり前のことではあるが、そこには人影も無く、
奥の窓から注ぐ紫の光だけが室内を照らしている。
フィアシスは息を潜めて、居室に繋がる扉を見遣る。
居室に明かりがあれば見て取ることが出来るはずだが、
それらしい光は漏れていない。
既にそれなりに遅い時間だ。
アルムが就寝していても何ら不思議ではない。
このまま部屋に踏み込んで、下手に音でも立てれば、
アルムの睡眠を妨げることにだってなり得る。
何より、部屋の主の許可を得ずに踏み入るなど不躾に過ぎる。
このまま扉を締めて、引き返した方が良いのは明白だ。
だと言うのに、自分でも何故そうしているのか分からないまま、
まるで闇に吸い込まれるように、フィアシスは歩を進めていた。
自分でも驚くほど密やかな歩み。
衣擦れも、自らの吐息さえも聞こえない異常な静寂。
音が世界から丸ごと失われたような錯覚すら覚えてしまう。
居室に続く扉の前に辿り着いた。
やはり光はどこからも漏れていない。
だが、細く吸った息を止めた拍子に、フィアシスは微かな音を聞いた。
厚い扉の向こうから、声が聞こえる。
扉の加工は、王や客人の会話の内容を盗み聞かれぬよう、
前室から居室に向けては声が伝わりやすく、
その逆には伝わりにくいように作られているが、
それでも声が発せられていることが分かる程度の声量で、
誰かが何かを話しているのは間違いない。
「……」
幾ら何でも、度を超えている。
たとえ王女とその護衛という関係であろうが、
他人の部屋に侵入した挙げ句に盗み聞きなど、
断じて許される行いではない。
そんな道理を理解できないフィアシスではない。
だが、確かにそう考えているはずなのに、体が動かない。
思考と身体の制御が切り離されたかのような感覚。
いつの間にか視界はぼんやりと滲んでいて、
目の前の全てに対して現実感が薄れつつあった。
他の音が全て消失した世界で、
たった一つ残った音に惹き寄せられるように、
フィアシスは居室に続く扉の把手に手を伸ばす。
開く。そんな予感はしていた。
つい先程まで、異常だと思っていた筈なのに、
今は開くのが当たり前だと、開かないわけがないと思う。
思考が鈍り、揺蕩っている。
どう考えたっておかしなことを、自然に受け容れている。
普段の自分なら絶対にしない行為を、躊躇いもしない。
いつの間にか夢を見ていたのだろうか。
だとすれば、これは不思議でも何でもない。
このふわふわとした空間は、自分の思い通りなのだ。
そんな気持ちに後を押されて、フィアシスは扉を開く。
きっとこの中には、兜を脱いだアルムがいて、自分を招き入れて、
「テュード様……」
「メゥフィ……」
ぞくり、と、背筋を強烈な冷たさが走り抜け、
フィアシスの意識は一気に現実に引き戻された。
薄く開かれた扉、居室の中から聞こえたのは、二人分の声だった。
女性の声と、男性の声。
囁くような声量の、柔らかく、甘く、湿った響き。
フィアシスは自身の体験として知りはしない。
それでも、忽ちに理解する。その声の意味を。
見てはならない。
決して見てはいけないものだ。
そう後悔するよりも早く、半ば反射的に、
フィアシスの視線は声の方へと惹き寄せられていた。
「はっ……ぁ……テュード、さまっ……んむ……」
窓掛けを通して紫の月光が僅かに染み出した、薄暗い室内。
天蓋付きの寝台の端。
フィアシスが目にしたのは、
二つの人影が向き合い、一つに重なった姿だった。
それは、フィアシスの読む恋物語の中で、
時に麗句で飾り立てて描かれ、
時に浅ましく汚らわしいものとして唾棄されていた。
フィアシス自身は、それを物語に求めてはいなかったし、
どちらかといえば忌避感を持って、自分には縁遠いものとして、
ただ知識として識るだけのものとしていた。
それが、今この時に、あまりにも突然に、
現実のものとして目の前に突き付けられた。
フィアシスがそこに抱いたのが、
嫌悪ではなく憧れだったのは、
今までに読んだ書のどんな表現も及ばないほどに、
その光景を美しいと思えたからだろう。
薄闇に踊る、白い肌。
一目見ただけで、二人が一切の衣服を身に纏っていないことが分かった。
黒い髪の人影が寝台の端に腰掛け、
白い髪の人影がその腰を跨いでいる。
互いが互いの背に腕を回して抱き合い、
密着した肌はまるで溶け合っているように境が分からない。
顔は互い違いに向き合って、唇と唇が深く重なっている。
その隙間から、あるいは鼻から漏れる吐息は、
フィアシスが想像し得なかったほどに艶めかしい。
全身が強く結びついたまま、それでも両者の肢体が滑らかに揺れる。
緩やかでありながらもはっきりとした律動は、
声ではなく身体で言葉を伝え合っているかのよう。
純白の髪が闇に踊って不規則に跳ねる様は、
まるでそこにある喜びを、闇に描いているようにも見えた。
すぐにも目を逸らし、その場を去らなければならない。
そんな事はフィアシスにだって分かっている。
だと言うのに、どうしようもないほどに魅了されて、
視線が釘付けになって離せなかった。
或いはそれは、フィアシスの心の中で、
美の象徴の如き二人が見せる媚態だからこそ、
淫らさや厭らしさを意識せずにいられたのかも知れない。
「はぁっ……ぁっ……愛して、います……テュード様っ……!」
「僕も、愛してるよ、メゥフィ……」
唇が離れ、潤んだ声で二人が愛を囁き合う。
その声を聞いて間もなく、
フィアシスは自分の心に重い後悔が宿るのを感じて、
後退るように扉から離れた。
足音を立てないように遠ざかるのに必死で、
居室の扉は未だ薄く開いたままだったが、
それを気にする心の余裕などなかった。
緩慢な動きで前室の入り口まで戻ったフィアシスは、
そのまま音もなく廊下に出ると、
細心の注意を払いながら扉を閉め、
把手を握ったままの姿勢で硬直した。
「……」
メゥフィ、と。
テュードと思しき人物が、アルムと思しき人物を、そう呼んだ。
それを聞いてしまった事が、
二人の睦事を覗き見てしまった事よりもなお、
フィアシスの心に、深く鈍い後悔として伸し掛かっていた。
知らなかった。
とはいえ、分かっていたことでもある。
アルムという名は禁忌の名であり、男の名。
彼女がアルムと名乗り続け、
ミヅキもテュードも彼女をアルムと呼んだところで、
女性である彼女に与えられるはずのない名だ。
何より、他ならぬテュードが「名乗らせている」と語ったのだから、
それが彼女の本来の名である筈がなかった。
知ってしまった。
アルムがテュードの名を呼んだのならば、
それに応える声は、アルムの名に他ならないだろう。
出会いの日からずっと呼び続けたアルムの名前。
フィアシスの中で、彼女を指すものとして確立した言葉。
それが、揺らいで崩れていく。
アルム様、と。
彼女に向けて呼び掛ける事が、今までと同じ気持ちで出来るのだろうか。
盗み見たものを、盗み聞いたものを、知らない振りをするのか。
それとも素直に白状し、謝罪をするのか。
どちらにしたって、全く今まで通りになど出来はしない。
きっと何かが大きく崩れてしまう。
それが、どうしようもなく怖くなって、知らず目の奥が熱くなっていた。
「っ……」
ここに涙を零してはいけない。
そう思い至り、フィアシスは息を止めて駆け出した。
つい今しがた歩いてきた廊下を引き返している筈なのに、
まるで知らない道に迷い込んだように、不安で心が塗り潰される。
すぐに息が苦しくなって、それでも息を止めたまま走り続け、
離れられるだけ離れてから、立ち止まって、壁に手をつき、息を吐き出す。
頭がくらくらと揺れ、心臓は破裂しそうなほどに痛い。
荒い呼吸を繰り返して、気が付いた時には涙は頬に伝い落ちていた。
「アルム様……」
心のどこかで、
アルムにとっても自分が一番特別なのだと、そう思っていた。
親衛隊長に任じられて出会ったアルム。
『この国とお前は、私が守る』
そう言ってくれた声を、今でも鮮明に覚えている。
あの言葉が与えてくれた温かな気持ちは、
フィアシスにとって掛け替えのないものだった。
だが、もし今、同じ言葉をアルムが告げたとして、
それを同じ気持ちで受け止めることは出来るだろうか。
きっと、無理だ。
ミヅキとの間にある師弟の信頼は、
テュードとの間にある男女の親愛は、
アルムにとって、フィアシスへ向けるものよりも、
ずっと強くて大切なものに違いない。
「アルム……さま……」
何も特別ではなかった。
ただの護衛対象でしかなかった。
決してそんな事を言われたわけではないのに、
フィアシスの頭は悲観から抜け出せず、
重苦しい喪失感を募らせていく。
息を整えて、ようやく涙が収まった頃、
フィアシスは再び月光が照らす廊下を歩き出した。
眼差しは虚ろげで、足取りにも力は無い。
何も考えずに眠りに落ちることが出来たなら。
そう願って自室への帰途についたフィアシスが、
どうにか意識を手放すことが出来たのは、
朝陽に空が白み始めるような時分だった。
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