陽の章 第十八項 ~想望~


思い願った未来は手に入らなかった。


光の紡月を操ることが出来たのは、

王族以外の者どころか、

当代を生きる王族の中でエナフィアだけであり、

どれだけ手本を示そうとも、

どれだけ言葉を尽くそうとも、

どれだけ補助を続けようとも、

誰一人として、光の紡月の発現には至らなかった。


比類無き才能を持って産まれた天才。

エナフィアに対するそんな評価を、

最愛の姉妹と自分とを隔てる言葉を、

より強く固く、刻み付けることしか出来なかった。


自分と比され、無能と断じられた姉は、自分を憎みはしなかった。

姉は望まぬ過酷を強いられ、若くして戦場に命を落とした。

自分と比され、不要と断じられた妹は、自分を妬みはしなかった。

妹は次代のみを嘱望され、若くして望まぬ婚姻を結んだ。


姉を喪い、妹とは隔てられ、エナフィアに望まれたのは、

戦場にて敵を駆逐することだった。

赤の攻勢は未だ止まず、消耗戦は尚も続いている。

夥しい血と肉の山が築かれようとも、終わりは見えない。


「飽きもせず、わらわらと……」


眼前の赤を睨み、毒を吐く。

連日に亘って光の紡月ばかりを使い続けてきたからか、

視界の明暗が安定しない。

そもそも肉体が持つ本来の色形と異なるものを、

無理矢理に捻じ曲げて使っているのだから、

いずれは隠しきれない影響が出てきてしまう。


このまま光ばかりを使い続けた先、

自分の肉体がどのような変貌を遂げるのか、

今はまだ想像もつかないが、

最終的に行き着く先が自壊であることだけは確信している。


神の威光は、純粋にして絶大な破壊の力。

慈悲もなく、容赦もなく、命を消滅させる力。


光の紡月など、初めから使えなければ良かった。

癒やしの風だけを操ることが出来たならば、

或いは、姉と妹と肩を並べ助け合う、

そんな人生もあったのだろうか。


今となってはもう、決して取り戻せない望みだった。

白の紡月を発現することすら難しくなりつつある肉体では、

誰も何も癒せはしない。



陽の章 第十八項 ~想望~



「まずは、出来るだけ仔細な地図が欲しい」


書庫に足を踏み入れるや否や、

ミヅキは小さく咳払いをして切り出した。


「地図、ですか?」


『こちら』の現状について知りたいというミヅキが、

一体どのような情報を求めているのか、

そもそも自分に示せる類のものなのかと、

不安に駆られていたフィアシスだったが、

取り敢えず自分でも果たせそうな要求に安堵する。

地図ならば、収められている区画は把握しているし、

勉学で叩き込まれたものの中では、

まだ興味を持って覚えようと思えた知識の中の一つだった。


「うむ。

 凡そは把握しておるとはいえ、

 地理に疎くては移動もままならぬからな」


ミヅキの言葉に、フィアシスはなるほどと頷く。

同じリハデアの大地に生きているとはいえ、

自分の生活に関わらない地域について知る機会は少ない。

白の国の中で生涯を過ごす者達に、

赤の王都に至る道を問うたとしても、

中央街道以外を答えられる者はそう多くないだろう。

ミヅキの求める知識を誰かに乞うとするならば、

フィアシスは適任と言える。

移動、というミヅキの言葉が示す行動が、

何を目的にしたものなのか、という不安は、

一旦、フィアシスの中では扠措かれた。


「地図であれば、こちらの区画になりますね」


剣についてはまるで話に混ざれないが、

この書庫についてならば自らの右に出る者はいない、

と自負するフィアシスは、

少し得意気に、ミヅキを先導して歩き出す。


「では、私は史書を見繕ってこよう。

 ミヅキへの案内は任せる」


「はい。

 えっ、待っ……」


その背へアルムが投げた言葉に、

反射的に是と応えたフィアシスは、

口に出した後で、慌てて静止しようと振り返るが、

アルムはすぐに書棚の向こうに隠れてしまい、

呼び止めることは叶わなかった。


「……」


まさかミヅキと二人きりにされるなんて、と呆然としつつも、

アルムがその状況を許すということは、

ミヅキが自分に危害を加える可能性が絶対に無いという証明と言える、

と、フィアシスは強引に自分を納得させ鼓舞した。


「……では、ご案内します」


アルムが去った方向とは別の、

地理・地学に関する書の収められた区画は、

この王城の書庫を利用する者には需要が大きく、

学習机の並びのすぐ後ろに配置されている。


「地図で細かい記載があるものというと、この辺りでしょうか。

 大きな一枚物の方が良いのであれば、

 書庫ではなく、兵舎とかそういった場所の方が良いかも知れません」


本棚の前に屈み、下段から大判の地図帳を引き出して、

フィアシスは適当な頁を開いて見せる。

ミヅキが横からそれを覗き込むと、

彼女の絹糸のような青髪がフィアシスのすぐ眼前に垂れた。

何度見ても溜息が出るほどに見事なまでの真青だ。


「いや、これで結構。

 説明も頼みたいのだが、良いだろうか」


「はい。私で良ければ」


満足そうに微笑むミヅキに、フィアシスは自信の無さを隠して応じた。

幼少より学んできた学問の一つではあるが、

あくまで教えられた範囲で知っているという程度で、

とても専門家と語らうほどの知識量は無い。

それこそ、戦略・戦術といった用途での情報を求めるのであれば、

アルムに尋ねた方が緻密な答えが得られるかも知れない。


「うむ、宜しく頼む」


それでもミヅキはフィアシスを頼っている。

それは、間接的にアルムの助けにもなるのだろう。

であるならば、フィアシスとしては協力する以外の選択肢はない。


「分かりました。では、こちらに」


「済まぬな」


手にした地図帳を机に置き、椅子に腰掛けるフィアシスに、ミヅキが続く。

白の王城の中にあって、比較的清掃の頻度の少ない書庫ではあるが、

それでも、フィアシスをはじめ余暇をここで過ごす者は多く、

机や椅子に埃が纏わっているということはない。


「それで、一体何を話せば……」


地図帳を机に広げつつ、

フィアシスは右隣の席に腰掛けたミヅキに顔を向ける。

油断するとすぐに見惚れてしまいそうになるが、

それをぐっと堪え、フィアシスはミヅキに言葉を促した。


「まずは、今のリハデアの情勢について。

 国境線と、国境付近の地形や拠点など、

 分かるようならば戦力の分布などについても」


言いながら、ミヅキは座る向きを変え、フィアシスに対して半身になる。

椅子に腰掛けようとも姿勢は全く崩れず、

背筋が真っ直ぐに伸びていて、まるで隙が無い。

本を読み始めるとすぐ背を丸めてしまうフィアシスは、

ミヅキに倣うように、一度椅子から尻を浮かせ、背を伸ばして座り直す。


「戦力……は、私では答えられませんが、

 国境付近の地理であれば、ある程度は」


言いながら地図帳をめくり、

白と赤の国境の南端を含む頁を開く。


「ここが白と赤の国境の南端です。

 この辺りは海岸線に断崖が続いていて、

 凹凸の激しい岩場が大きく広がっているので、

 道も作られていなくて、基本的に交通はありません」


かつて母や教師に叩き込まれた知識を呼び起こしながら、

フィアシスは地図を指でなぞりつつ、慎重に言葉を紡いでいく。


「北に進んでいくと草原地帯です。

 国境から白の国側はリセル平原、

 赤の国側はラグナ平原と呼ばれていますね。

 平原には街道が幾つか走っていて、

 白と赤との往来に一番多く使われるのが、この中央街道です」


一つ説明する度にミヅキが、うむ、ふむ、と相槌を返す。

年齢を問うてはいないが、

見るからに自分よりも年上であるミヅキに、

ものを教えるような振る舞いをすることは、

フィアシスに何とも言えない気恥ずかしさを引き起こさせる。


「それから更に北に進むと、

 リーステ山脈の山岳地帯に入っていきます。

 北上するにつれて、急斜面や切り立った崖が多くなり、

 整備された山道以外では、往来は難しいですね。

 白と赤の国境にほど近い、二つの山道が交わる位置には、

 最大の要衝と言われているセリジア砦があります」


「ここ、だな」


地図上の国境線を跨ぐように記された地名の一つに、

ミヅキが指を重ねる。

同じように話を聞いていた幼い頃の自分を想起し、

フィアシスは心の中で苦笑する。

可愛いなどと思うのは実に不相応であるが、

それでも、ミヅキの仕草は愛らしさを感じるものだった。


「はい。

 セリジアより北は、峻険な山々が並んでいますし、

 白赤緑の三国の狭間になっているので、

 ほとんど人が立ち入ることはありません。

 山脈は北西に向かって伸びていて、

 赤と緑の国境は山脈に沿っています。

 国境線は主要な峰を繋いだ形に」

 

地図の頁を捲り、赤と緑の国境を順になぞっていく。

フィアシスの中では段々と過日の記憶が鮮明に蘇り、

頭で考えずとも自然と言葉が浮かんでくるようになっていた。

幼い頃は、この王城から一歩も出ることが叶わないが故に、

地図を用いた地理の勉強は、

まだ見ぬ景色への想像を掻き立てられたものだ。

無論、今でも自分が実際に訪れたことがあるのは、

白の領外では、赤と緑の王都とその道中のみであり、

地図でしか知らない土地の方が多いことに変わりはない。


「赤と緑は、互いに攻め入るのが難しいのか」


まるごと山と山道で埋め尽くされた頁を眺め、ミヅキが思索に耽る。

狂人族の身体能力を以てすれば、

或いは山越えでの進駐も不可能ではないし、

古い時代には試みられたこともあるらしい、

という話もフィアシスも学んでいる。

高峰の連なる地帯には肉食の鳥獣も多く生息しており、

そもそも越境までに支払う代償があまりに大きい、とも。


「北西側は、海岸線からなだらかな地形が続いているので、

 赤と緑との往来はそちらに集中していますね」


「なるほど」


また頁を捲り、北西端の地図を示す。

白の国から最も遠く離れた地方であり、

フィアシスはおろか、レフィアや歴代の白の王族も、

ほとんど足を踏み入れたことは無いだろう。

赤と緑の間に関しては、ここ数代は大きな衝突も無く、

互いに不干渉な状況が続いていると聞くが、

一度戦端が開いてしまえば、行路が限定されるが故に、

この一帯は文字通りの焼け野原になるという。


「白と緑との国境は、山脈を迂回するように東に伸びて、

 あとはセジム川の流れに沿って東端まで。

 主要な橋は、ジオ高原にライラーズ大橋と、

 東のフエル平野にシエラーズ大橋があります。

 どちらも、聖戦の時代から残る、とても立派で綺麗な橋ですよ。

 特にシエラーズ大橋は、

 聖戦以前の時代に、白と緑の両国で協力して建てられた橋で、

 双方の意匠が施されていて、文化的な価値も非常に高い橋なんです。

 緑の国を訪れる際には、こちらを使うことが多いので、

 もし機会があれば是非ご覧になってください」


頁を進めながら、フィアシスは調子良く語る。

白と緑との国境線については、

フィアシスも幾度となく訪れたことがあり、

自身の記憶に基づいて話すことが出来る。

レフィアとファナンと親交の深さもあり、

緑の王都や、国境付近の拠点を訪れることは多く、

その度にフィアシスは、その旅程に心を躍らせている。

一方で、白と赤とは常に緊張状態であり、

グレイス砂漠の過酷な暑さと殺風景さもあって、

クレミアに会える、という一点を除けば、

フィアシスに赤の王都への行程を楽しむ余裕はない。


「ふむ。これだけ大きな川ならば、互いに攻め入るのは難しい。

 赤と緑の王都はどこに?」


上機嫌に語るフィアシスの案内は、

さしてミヅキの興味を引くものではなかったか、

淡々とした調子でミヅキは問いを投げる。

フィアシスは少し残念に感じつつも、

地図の頁を幾つか戻し、赤の王都を指し示す。


「赤の王都は、グレイス砂漠のちょうど中央あたり、

 リーニ川が二又に分かれる地点の東側にあります。

 リーニ川が氾濫すると西の支流側が浸水するため、

 川沿いの街や集落は、全て東の本流側に作られていますね。


「ふむ。

 白と赤との国境から進む場合、

 地理的に行く手を阻むものが無いのだな」


フィアシスの説明に対し、ミヅキが興味深そうに呟く。

確かに、白と緑を隔てるセジム川や、

赤と緑を隔てるリーステ山脈のような、

行き来を妨げるような地形は、白と赤の間には存在しない。

そもそも聖戦の時代には、白の国と赤の国は直接隣接しておらず、

緑の国の領土と不戦領域とで完全に隔てられていた。

赤の王都が聖戦の時代から遷都していないことを考えれば、

それは自然なこととも言えるだろう。


「そうですね。

 ただ、グレイス砂漠を進むには相応の準備が要りますので、

 城塞や宿場街が多く在る中央街道を行くしか無いかと思います。

 でなければ、リーステ山脈の麓に沿っていく道か、

 セリジアを抜ける山道を使う形になるかと」


「確かに、砂漠で道を外れて迷えば死は免れぬか」


今度はうんうんとミヅキが頷く。

中央街道に商人の馬車が行き交うのは日常風景であり、

馬で進めば毎晩寝床を確保できる程度には整えられた道だが、

それでも死者が一人も出ない年は無いという旅程である。

フィアシスは、過去に突発的な砂嵐に巻き込まれた事を想起する。

砂漠に慣れた者達が率いてくれていたからこそ事無きを得たが、

そうでなければ、きっと取り乱して遭難していたことだろう。


「次に、緑の王都ですね。

 緑の王都は、ライラーズ大橋の北西、ライリア山の中腹にあります」


「聖戦の時代には、

 大森林の中央に位置していたという記述を見た記憶があるが……」


頁を再び進め、緑の王都を指し示したフィアシスに、

ミヅキが疑問の声を漏らす。


「そうですね。

 聖戦の後の時代に、今の場所に遷都しています」


国境や王都の位置を知らないというミヅキが、

聖戦の時代の王都の位置については既に知り得ていた、

という違和感に対して、探りを入れたい気持ちを抑えつつ、

フィアシスは問いに答えた。

聞いても答えてはくれまい、という諦観もあるが、

それよりも、ミヅキとアルムの住まう地について、

自分の頭の中の想像を広げる要素が増えていくことに、

フィアシスが楽しみを見出しつつある、という側面の方が大きい。

 

「随分と国境に近いようだが……

 山側は警戒も防衛も不要なほどに険しいということか」


疑問の声を漏らしたミヅキがすぐに自答した言葉を受け、

フィアシスは改めて地図を眺める。

確かに、緑の王都のほぼ真南にはセリジア砦があり、

地図だけで見れば、それこそ一日も掛からないような距離だ。


「はい。

 緑の王都に向かう場合は、

 北側のなだらかな道に迂回する必要があります。

 緑の国の飛翔獣を借りられれば、

 直接向かうことも可能ですが」


フィアシス自身は乗ったことは無いが、

ニニルから伝え聞く話によれば、飛翔獣での移動は、

それはもう刺激的で、開放感に溢れたものらしい。

空を飛ぶ、というだけの話であれば、

それこそフィアシスは紡月で飛ぶことも出来るのだが、

飛翔する高度も違えば、飛翔可能な時間も違う。

何より、紡月を強く繊細に行使し続ける必要があるため、

周囲の景色など楽しんでいる余裕はまるでない。

ニニルから話を聞く度、一度は乗ってみたいものだと、

フィアシスは羨む気持ちを抑え切れずにいる。


「なるほど。

 国境線はいずれも緑にとって都合が良さそうに感じる」


ミヅキが地図帳をぱらぱらと捲っていく。

自分が熱を持って語る言葉にミヅキはまるで関心を示さず、

興味の対象が自分とはまるで違うのだと、半ば残念に思いつつも、

フィアシスは根気よく説明を続ける。


「古い時代の緑の女王が、白や赤との衝突を嫌って、

 国境付近の地を明け渡したとされています。

 元々、リーステ山脈は赤の国側の麓までが緑の国で、

 ジオ高原も白と緑が幾度となく奪い合っていたとか。

 遷都も、同じ王の時代に行われたそうです」


語りながら、学んだことは記憶に残っているものなのだなと、

フィアシスは心の中で何にとも言えない感心を覚えた。

歴史の授業は、幼いフィアシスにとって興味を引くものではなく、

さして真剣に覚えようと聞いていたわけでもなかったのだが、

今、自然と知識として引き出すことが出来ている。


「そうか、民には受け容れられぬ決断だったろうに、

 それを通せるだけの王だったのだな」


まるで想いを馳せるように瞼を伏せ、一際大きくミヅキが頷く。

それは、今までミヅキが示してきた中で一番大きな関心だった。


「うむ、参考になった。礼を言う」


一度大きく頷き、ミヅキが席を立とうとする。

果たしてこれで、求められていたものは示せたのだろうか。

ここまでフィアシスが話した内容であれば、

きっと、アルムに問えば即座に返ってくる程度のものだ。


「あ、あのっ……」


フィアシスは半ば衝動的に、ミヅキを見上げて呼び止めた。


「ん?」


振り向くミヅキの髪が、フィアシスの眼前に靡いた。

石鹸とは違う、花のような香りがフィアシスの鼻を擽った。

今更になって思い出す。

今、この場には自分とミヅキしかいない。

今更になって思い至る。

ミヅキに問いたいことは、知りたいことは、沢山ある。

地理についてなどではなく、歴史についてなどでもない。

ミヅキの出自についてよりも、もっと知りたいことが。

勢いに任せでもしなければ、きっとずっと問えないままだろう。

だから、


「答えにくい、ことかも知れないのですが……」


フィアシスは震える唇で、問いを紡ぐ。


「気を遣わずとも、聞いてくれれば良い。

 拙者に答えられるものならば答えよう」


ミヅキがいつもの微笑を浮かべる。

何度見ても、見惚れずにいられないほどの美貌。


「で、では……その……」


本当に問うのか。

フィアシスの心に不安が込み上げる。

或いはその答えは、自分の心を深く傷付けるかも知れない。

二度と立ち直れないほどに心が折れてしまうかも知れない。

それでも、問いたいのか。

躊躇いが心を塗り潰そうとする。

それでも、問いたかった。


「アルム様と、ミヅキ様の……その、関係、についてなのですが……」


心臓の鼓動が、耳が痛くなるほどに大きくなっていく。


「関係……?

 拙者とあ奴とは、剣の師弟だが」


「そ、そうではなく……」


喉が固まり、言葉が途切れ途切れにしか出てこない。


「その、それ以上の、特別な関係、なんてことは……」


肺が縮んで、胃が裏返りそうだった。


「特別な関係、とは……?」


あの害獣を前にした時の怯えが、

まるで取るに足らないものだったと思えるほどに。

母の怒りの形相を見た幼き日にだって、

ここまで泣きそうな気持ちにはならなかった。

それでも、問わずにはいられなかった。


「そ、その……恋人、とか……」


言ってしまった。

曝け出してしまった。

決定的な言葉を口にしてしまった。

もう後戻りはできない。

無かったことにはできない。


「……」


ミヅキが沈黙する。

その表情を正視することは、フィアシスにはとてもできない。

自然と、首が項垂れていく。

逃げるように、視線が俯向いていく。

両手はいつの間にか、祈るように組んで握っていた。

まるで、頭上から下される審判を待つ罪人のようだった。


「ふ……」


「……?」


小さく、ミヅキが息を吐いた。

というよりは、吹き出したような音だった。

フィアシスは恐る恐る、視線を上げる。


「ふっ、ふふっ……」


見上げたミヅキは、笑っていた。

瞼は愉快そうに伏せられ、

口元は笑いを堪えるように緩んでいた。

フィアシスがこの数日で見たミヅキの表情の中で、

一番の喜色だった。


「ふっ、はははははっ。

 恋人か、いや、なるほど、そうか、はははははっ!」


やがて堰を切ったように、ミヅキが声を上げて笑い始めた。

それが、嘲笑うようなものでないことは、

ミヅキの纏う空気から察せられる。

ただそれでも、自らの決死の問いへの答えがこれでは、

あまりに無惨だと言わざるを得ない。


「あ、あのっ……!」


「いや、済まぬ、笑うのは無礼に過ぎたな。

 問いへの答えだが、

 拙者とあ奴は、そのような関係ではない」


怒気の滲んだ形相を浮かべるフィアシスに、

こほん、と一度わざとらしい咳払いを挟んでミヅキが答える。

居住まいを正しはしたものの、その表情は、

油断すればすぐにまた破顔しそうなものだった。


「ほ、本当ですか……?」


ミヅキの態度はともあれ、

返答はフィアシスにとっては望ましいものだった。

訝しむ気持ちと、安直な喜びの入り混じった声で、

フィアシスは言葉の真偽を問う。


「あぁ、剣の師弟として以上の関係はない。

 それに、拙者にはシグレという連れ合いもおるしな」


「つれあい?」


ミヅキの口から発せられた、

聞き覚えの無い人名、聞き慣れない単語。

話の流れからして、恋人を指す言葉だろうと、

フィアシスは迷わず聞き返すが、


「伴侶。夫だ」


「夫!?」


示されたのは、想像を上回る情報だった。


「ミヅキ様、既婚だったんですか!?」


「うむ」


もはや、先程までの躊躇や懐疑は跡形も無く消し飛んだ。

フィアシスの心を占めるのは、純粋な驚きと興味だけだ。

元より恋愛小説を三度の飯より好物としてきたフィアシスである。

こんなにも見目麗しく、凛々しく、強く、

まさしく高嶺の花といった有り様を見せているミヅキが、

既に生涯を共にする伴侶を得ているともなれば、

それは是非にも事細かに問い詰めたいに決まっている。

そして、既婚であるならば、

確かにアルムと特別な関係ということも無いだろうと、

フィアシスは一気に納得と安心をも得たのだった。


「し、失礼ですが、ミヅキ様はお幾つなのですか?」


見目からして、ミヅキが自分よりも年上であることは、

フィアシスにも察しがつくが、

さりとて身を固めるほどの年齢にも見えない。

急に降って湧いた艶聞への興味に、

フィアシスは自分の口が早くなることを抑え切れない。


「拙者は今、二十一だな」


「に、二十一で結婚をなされたんですか……」


平然と答えるミヅキの回答は、外見通りの年齢。

だが、それはフィアシスからすれば喫驚に足るものだ。

フィアシスの耳に入る限りに於いて、

縁談は概ね二十代の半ばからのものが多い。

それこそ二十二よりも早い結婚ともなれば、

今までにも耳にした記憶が無いものであり、


「婚姻は十七の時だが」


「十七!?」


ましてや十代で、ともなれば、

それはもう、物語の中でもそうそうお目に掛かれないものだ。


「じゅ……じゅうなな……」


「うむ」


呆然と呟くフィアシスに、ミヅキが事も無げに頷く。

今のフィアシスよりも若い時分に、

ミヅキは生涯の伴侶を見つけ、将来を誓った。

未だ初めての片想いに胸を焦がす只中のフィアシスとは、

全く掛け離れた人生。

それを誇るでも恥じるでもなく平然と語るミヅキを、

フィアシスはただ畏敬と羨望を持って見るしかできない。


「まぁそういうわけで、あ奴とはそういう間ではない。

 いやしかし、まさかフィアシス殿がそうであったとは。

 しかも、あ奴にとは……」


「うっ……」


改めて、自らが口走った言葉が、

それをミヅキに向けてしまったことが、

フィアシスの心に羞恥として重く伸し掛かる。

本人を前にしていないとはいえ、

これはもう完全に懸想の吐露としか言いようが無い。

決してミヅキを深く知っているわけではないが、

きっと、今のやり取りをアルムに伝えるような人物ではない。

それだけはフィアシスにとって救いとも言えるだろう。


「心配せずとも、今のあ奴はお主のものだ」


「えっ……!」


激しく紅潮した顔を隠すように深く項垂れていた首が、

ミヅキの口から漏れた言葉で、忽ち大きく振り上がる。

今、ミヅキは何と言ったのか。

アルムはフィアシスのもの、と言ったのか。

それは一体どういう意味なのか。

言葉通りの意味で捉えて良いのか。


「そ、それって……」


それを問うよりも早く、


「随分な大笑いが響いていたが、どうかしたか」


書庫の反対側から、アルムが姿を現した。

その左手には、二冊の厚い本が抱えられている。

フィアシスに勧める史書の選定が終わったのだろう。


「いや、大した話ではない。気にするな」


「そうか。

 まぁ、打ち解けられたのならば良いことだ」


涼し気な表情で問いを流すミヅキに、

アルムはそれほど興味も示さず話を閉じる。

この二人の会話は、概ねこの調子で、

言葉は少なく、必要以上の干渉もしない。

きっと、必要な言葉であれば口に出して伝えると、

互いが互いを信用してのことなのだろう。

それは、フィアシスにとって、途方も無い憧れを抱く姿だった。


「とりあえず、二冊見繕った。

 文体としては読みやすい部類だろう」


無骨に言いながら、アルムが机に本を並べる。

フィアシスとミヅキの会話が、

一端でも聞こえていなかっただろうか。

今更になって不安に駆られるフィアシスだったが、

少なくともアルムの態度から、そのような気配は感じない。

いや、黒鉄の兜の奥にある心情を察せられたことなど、

フィアシスには一度だって無かった。


「さて、今日のところは拙者の用は済んだ。

 部屋に戻るが、お主らは?」


「あ、えっと、では私も自室に……」


退室を告げるミヅキに、フィアシスは慌てて立ち上がる。

アルムと二人きりになるには、頭と心の整理が足りなさ過ぎる。

アルムはフィアシスのものだ。

言葉の意図は不確かだが、アルムと最も近しいミヅキがそう言った。

嬉しくないわけがない。

期待しないわけがない。

ただ、だからと言って、

踏み出す勇気が、踏み込む覚悟が、急に湧き出すわけではないのだ。


アルムが選んでくれた本を両手に抱え、ミヅキに続いて歩き出す。

自分の後ろを歩くアルムを振り返ることが出来ない。

真っ直ぐに見詰めることなど出来はしない。

頭がくらくらとする。

深まる想いが、逸る気持ちが、戸惑う心が、胸の中でせめぎ合って、

心臓は今にも爆発しそうなくらいに高鳴っていた。

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