陽の章 第二十項 ~鮮紅~
その巡り合いは必然だった。
同じ時代に、互いが王の子として生まれたという時点で、
邂逅は遅かれ早かれ訪れるものだった。
何ということはない。
歴史を振り返れば数え切れぬほど同じ境遇はある。
その巡り合いは悲劇だった。
偶然に偶然が重なってしまった。
決して有り得ない事が起こり得るほどに。
決して有ってはならない事が起こってしまうほどに。
白の王子、アゼル=イグリオール。
心優しい白の気質を望まれた少年は、
猛々しさに、雄々しさに、憧れを抱いていた。
物心ついた時分から、騎士達の訓練を眺めるのが趣味で、
筆やら杖やら棒状のものを握っては、
演武の真似事をして振り回して、
周りを困らせているような子供だった。
赤の王女、フェリア=ティ=グレイス。
猛々しい赤の気質を望まれた少女は、
優しさに、穏やかさに、憧れを抱いていた。
物心ついた時分から、女中達の仕事を眺めるのが趣味で、
裁縫やら炊事やらの仕事場に入り浸っては、
侍従の真似事をして振る舞って、
周りを困らせているような子供だった。
アゼルは、幸いにして武才に恵まれていた。
フェリアは、不幸にも武才に恵まれていた。
アゼルは自ら望んで、フェリアは他に望まれて、
アゼルは槍を、フェリアは双剣を握り、
臣下の者達が目を見張るような成長を遂げた。
出逢いは、フェリアの九つの誕生日の祝宴。
親馬鹿同士が、互いの子の方が凄いと言い争い、
白熱した結果として執り行われた試合だった。
アゼルは敗北した。
幼い子どもにとって一つの歳の違いはなかなかに大きい。
だが、敗れたアゼルの心を、悔しさよりも焦がしたのは、
フェリアの太刀筋の美しさだった。
「綺麗だ」
などという称賛の言葉が思わず口を衝いて出るほどだった。
称賛の言葉など、フェリアにとっては日常の筈だった。
それでも、同年代の少年から放たれたその一言は、
完全な不意打ちで、完璧な拍子で放り込まれた一撃は、
容易く心を伸し伏せてしまうほどの衝撃だったらしい。
陽の章 第二十項 ~鮮紅~
これはこれで良かったのかも知れない。
と言うか、これはこれで良いかも知れない。
アルムの性別が女性であることを知り、
未熟な恋心が完全に砕け散ったフィアシスが、
そう気持ちの整理を付けられるまでには、三日の時間を要した。
「意外と、気付かれないものなんですね」
傍に並んで歩く、白の国の装束を身に纏うアルムに対し、
フィアシスは緊張を露わに問い掛ける。
自分の足で城下町を歩くという状況、
そして、素顔を晒したアルムが傍にいるという状況に、
フィアシスの心が慣れるのはもう少し時間がかかりそうだった。
「少なからず気付いている者もいそうだが、
流石に話し掛けるのは躊躇われるだろうし、
こちらの意図を察せば、下手に騒ぎもしないだろう」
問い掛けられたアルムは、
頭までを覆う外套に半ば隠れた眼で、視線を周囲に巡らせて答えた。
あの日から、三日。
意を決したフィアシスは、再びミヅキの部屋を訪れ、
兜と鎧を脱いだアルムを連れて街に出る、と宣言した。
続けて、自分に出来る配慮としてフィアシスが差し出したのが、
この、頭をすっぽりと覆うことのできる外套だ。
髪を纏め、外套で目元までを隠せば、
少なくとも一目で髪の色は判断がつかない。
自分も寸法違いの同じものを纏えば、
不自然さも少しは薄れるだろう、という判断だった。
街に出るという話そのものを捨てても良かった。
自分も乗り気な態度を示していた以上、
止めるとなれば皆から勘繰りを受けるのは避けられないが、
アルムとミヅキの諫言だとでも言えば納得させられただろう。
黒の鎧と兜を纏うアルムを伴って行っても良かった。
初めはそのつもりであったし、
アルムも不承不承という様子ではあったが受け入れていた。
ミヅキとて、フィアシスの決断なら尊重しただろう。
だが、それでも。
枕に顔を埋めて、兜を脱いだアルムの素顔を思い返す度、
フィアシスの心を占めたのは、
もっとアルムの素顔を見ていたい、
兜を脱いだアルムと共に時を過ごしたい、という願望ばかりだった。
「こちらの市場は、とても賑わっていますね」
「そうだな。
この区画に住む者達の生活の基盤だ。
戦時でも人の足が絶えることは無い」
商店と露店が立ち並ぶ大市場の、
肩がぶつかりそうな程の人混みに少し気圧されながらも、
フィアシスは改めて、もう何度目になるかも分からないが、
左隣を歩くアルムの横顔に見入る。
美しい。
今までに読んだ物語の中にも、
美貌を称える言葉は数多存在したが、
一番単純で直截的な言葉こそが相応しいと、
フィアシスは頭の中でそう感じた。
気取らず、取り繕わず、飾り気がなく、それでも魅了される。
どうしようもなく胸が高鳴るのに、どこか安心もする。
性別を知ったことで、それを恋だと思えなくなっただけで、
アルムの素顔を見る前から感じていたものは、
結局、今もまるで変わらずに感じていた。
直近で読んだ史書の影響もあってか、
もし自分に姉がいればこんな感じなのだろうかと、
そんな事すらも考えてしまっている始末だ。
これはこれで良いかも知れない。
欺瞞でも何でもなくそう思えてしまうほど、
不思議な心地良さをフィアシスは感じていた。
「お金を持ってくれば良かったですね。
物語の中に、市場で食べ歩きをする場面があったりして、
実は少し憧れていたんです」
「行儀が悪い、と説教をされそうだが」
憧れを語るフィアシスに対し、
アルムは瞼を伏せ、表情を緩めることもなく苦笑する。
今までは、黒鉄の兜に覆われて見えていなかった。
兜の中でこんな表情を浮かべているのだろうかと想像するしかなかった。
今は、一つ言葉を交わす度に僅かに動くアルムの表情を、
間近に見ながら話すことができる。
それはフィアシスにとって、
市場に立ち並ぶ色とりどりの商品よりも、
行き交う民が話す種々雑多な声よりも、
何よりも強く心を躍らせるものだった。
「もし何か買い物をするとしたら、
アルム様は何をお買い求めになりますか?」
人混みの中をゆっくり進みながら、フィアシスがアルムに問う。
香ばしい匂いを漂わせる串焼き、
甘い匂いで誘惑する焼き菓子、
可愛らしい見た目で惹きつける飴細工。
フィアシスの目に留まる一つ一つが、
かつて読んだ物語の場面を、登場人物を想起させる。
勿論、自分が毎日口にしている料理は、
それらに勝る美食なのだろう。
だが、今この場所で、アルムと共に食すことが出来たなら、
それはきっと、どんな絶品にも勝るものになる。
もし次の機会があるならば、
その時は必ず、心ゆくまで買い食いをしてみせると、
フィアシスは後悔と雪辱を強く心に刻んだ。
「そうだな……」
小さく呟きながら、アルムが周囲を見回す。
にべもない回答が返ってくるかも知れないと思いながらの問いだったが、
アルムは誠実に答えてくれるようだ。
改めてフィアシスが思うのは、アルムの王城での振る舞いについて。
白の国に現れて以降、頑なに兜を脱がなかったアルムは、
飲食の全てを、割り当てられた自室で行っていた。
ティニアとの交戦で出征した際も、一人用の天幕の中でのみ行い、
帯同した騎士達は誰一人、アルムが飲食する姿を目にしていないらしい。
フィアシスには到底及びもつかない徹底ぶりだ。
フィアシスが見上げていたアルムの視線が、
やがて一つの方向で結ばれ、止まる。
「アロ」
視線を一点に留めたまま、アルムが短く呟いた。
決して大きな抑揚ではないが、
その声に小さな喜色が含まれていることは、フィアシスにも分かる。
「アロ……って、果物のアロですか?」
フィアシスも良く知る名前だった。
イグリオールの北部からステイルランドの南部に自生する果物で、
皮は薄緑、果肉は白、果汁が甘く美味で、
栽培が難しいらしく希少価値が高い。
だが、それがアルムの口から放たれることには違和感を禁じ得ず、
フィアシスは念を押すように聞き返すことしか出来ない。
「あぁ、アロを皮ごと生で食べるのが良い」
聞き間違いや、同じ名前の別の物ではなかったらしい。
やはり表情は大きく崩さないながらも、
アルムが自分の嗜好を語っているということは、
僅かに誇らしげに感じる声色から明らかだった。
自分は今、アルムの好物を知ったのだ。
ただそれだけの事だというのに、
フィアシスの心は、今にも踊り出さんばかりに沸き立っていた。
「アロは生だと、かなり硬くありませんか?」
出来る限り興味を抑え、興奮を隠した声で、
フィアシスはアルムに問いを投げ掛ける。
アロの実は非常に硬い。さながら石の如き硬さだ。
フィアシスも幼少の頃に興味本位で生のアロを食したことはあるが、
噛んだ食感を字に表すならゴリゴリという音を当てるだろう。
王城の食卓にも時折並びはするが、
他の果物とともに加熱したものであったり、
或いは、果汁を搾ったものが出てくる程度だ。
アロの搾汁は最高級の飲み物で、フィアシスも好んでいる。
フィアシスはまだ飲むことは出来ないが、
アロを発酵させて作った酒は、それはもう大変な美味らしい。
「流石に、丸ごと齧り付くのは難しいな。
一口大に切るのが良いだろう。
私はあの歯応えと、染み出す果汁が好きだ」
視線をフィアシスに戻すことなく、アルムが答える。
その口調には、先程よりも更に強く喜びの色が浮かんでいる。
「アルム様は、アロが好物なんですね」
「あぁ、個人的に思い入れのある食べ物だな」
感慨深げに話すアルムに、
フィアシスも自然と頬が緩むのを感じていた。
誰かが何かを好きだと語る言葉を聞くのを、
これほどまでに嬉しく感じるのは、
クレミアと互いの勧める本を語り合う時くらいかも知れない。
「そうなんですね。
私も今度、生で食べてみようと思います」
好きな相手が好きなものを共有したい。
これも、クレミアに対して思い、続けてきたことだった。
生のアロの硬さだって、
幼い自分には食べ物ではないと思えるほどだったが、
今の自分になら、食感として楽しめる範疇かも知れない。
賽の目に切られたアロや、色とりどりの果物が並ぶ食卓を、
素顔のアルムと二人で囲み、舌鼓を打つ。
そんな、つい先日までは妄想ですら行き着かなかった光景も、
きっと今なら実現できてしまうのだ。
そんな期待に胸を高鳴らせるフィアシスだったが、
「……どうやら、今日はここまでのようだ」
隣から聞こえた、冷たく尖った声が、その熱を忽ち吹き飛ばした。
「えっ……?」
「移動するぞ」
「えっ、えっ……!?」
戸惑うフィアシスを他所に、
アルムは素早くフィアシスの手首を掴むと、
踵を返し、すぐさま足早に動き出した。
後ろを行くフィアシスが人とぶつからないように、
人波の流れに乗りながら、掻き分けるように追い越していく。
「い、一体何が……!?」
衣服の上からとはいえ、アルムの手が自分に触れている。
などと、そんなことを呑気に喜んでいられる空気ではない。
あからさまなまでに態度を豹変させたアルムの動きは、
まるで何かから逃げているような様子だ。
「接触せず王城まで戻るのは無理そうだな。
人のいない道を選ぶ。巻き添えを出すわけにはいかない」
「巻き添え……!?」
冷徹で抑揚のない声で、
振り向くこともせずアルムが放った言葉に、
フィアシスは背筋に冷たいものが伝わるのを感じた。
つまり、自分達は何か良からぬものから逃げていて、
それと接触してしまうと、
周囲を巻き添えにするような何かが起きるということだ。
フィアシスの脳裏に真っ先に浮かんだのは、
あの祝宴の日、血を流して蹲ったクレミアの姿だった。
それ以上は何も問うことが出来ず、
フィアシスはただ、アルムに手を引かれるまま駆けた。
「はぁ……はぁ……」
「……」
市場を抜け、人の足がまばらになってからは、
アルムは更に速度を上げて走り続けた。
フィアシスはなんとか転ばないように足を動かし続けるのが精一杯で、
人の気配の無い裏通りでアルムが足を止める頃には、
息も絶え絶え、背を伸ばしておくのも辛いほどに疲弊していた。
空いている右手を胸に添え、息を整えながら、
そういえば紡月を使えばもっと楽に走れたではないかと、
自分の機転の利かなさを静かに嘆きつつ、
フィアシスはアルムの横顔を見上げる。
アルムは視線を正面に固定し、睨み付けているが、
フィアシスがその視線の先を追っても、何も見当たらない。
「あの……アルム様……?」
何が起きていて、何をしようとしているのか。
漸くフィアシスが問おうとしたところで、
「私から離れるな」
「えっ……」
フィアシスの手首を掴んでいた手を離し、
アルムが先程よりも更に重たく冷たい声で短く言い放った。
「こちらの動きを察知していたわけでもないだろう。
突発的な襲撃とは、あまりに軽率が過ぎるのではないか?」
声量を上げ、アルムが誰にともなく投げ掛ける。
未だフィアシスには何者の姿も見えないが、
誰かが隠れ潜んでいるのだろうという察しはついた。
そして、襲撃という言葉から、
自分達の身に危険が迫っているということも。
「まさかあの人混みで勘付くとは。
だが、逃げ道はもう少し選ぶべきだったな」
アルムが睨む先、丁字路の角から、声が返ってきた。
男の声。
少なくとも友好的な意思は無いと確信できる声色だった。
恐怖で肺が縮み、フィアシスの息が止まる。
視界が不安定に揺れ、視線が定まらない。
「前に三人、後ろに三人。
不意を突こうとしても無駄だ。姿を現せ」
「っ!?」
アルムの言葉に、思わず背後を振り返る。
走り抜けてきた道の向こうには、やはり誰の姿も無い。
「流石は王女の護衛。生半では無いようだ」
続く男の声に合わせて、前方と後方で空気が動いた。
前方の丁字路、後方の十字路の角から、
ゆったりとした動きで、複数の影が這い出してくる。
「赤の者が白の王女を襲撃とは。
第二王女の件の意趣返しのつもりか?」
姿を現したのは、いずれも赤い髪の男達。
今のフィアシス達のように髪を隠すわけでもなく、
身に纏う装束も赤の国のもの。
出で立ちを見る限りでは軍属という雰囲気でもなく、
あくまで赤の国の一市民といった風体だ。
無論、それが間者や刺客の類の者ならば、
敢えて凡俗を装っているという向きも無くはないが。
「答える義理はない」
男達が一斉に懐から得物を取り出す。
刃渡りの短い、せいぜい護身用程度の短剣。
フィアシスに嫌でもあの日のクレミアの姿を想起させる。
赤の国の者達にとって、クレミアは己の信奉する王族だ。
それを傷付けられたとあれば、憎しみを抱くのも無理はない。
たとえ、当人同士では後腐れのない結末を迎えていようとも、
恨み辛み消えるとは限らず、その向かう先が、
祝宴の主役であったフィアシスになることも理解はできる。
「怨恨で衝動的に、といった様子ではないな。
この人数で動きの統率が取れている割に、襲撃そのものは無計画。
目的を語るつもりが無いなら、捕らえて吐かせるしか無いか」
だが、どうやらアルムの見立てでは、彼らの動機は別のものであるらしい。
アルムが零したのは、恐怖や不安とは掛け離れた、
緊迫感とも程遠い、溜息混じりの声だった。
「随分と剛毅な態度だな。
王族の侍従とはいえ、丸腰でこの人数を相手取るのだぞ」
赤の男が厭らしく嗤った。
そう。アルムは今、黒の長刀を携えていない。
街に出るにあたって、
どう隠しても目立つからとミヅキの部屋に置いてきたのだ。
剣士が剣を持たず、どう戦うというのか。
フィアシスは動揺を隠し切れず、アルムの横顔を見遣った。
「襲う相手が王族だというのに、
得物の有無を語るのも間が抜けている気がするが」
フィアシスの不安を他所に、アルムが男達を嘲る。
目が覚めるような、目を覚まさせるような言葉だった。
フィアシスは白の王族。
その本領は他を圧倒する紡月力だ。
そしてアルムもまた、黒の紡月を操る。
それも、赤の王女ティニアの一撃を、巨大な害獣の突進を防ぐほどの壁だ。
「それと……
様子見を決め込むつもりか、まあ良い。
有象無象の相手は私一人で十分だ」
一度ぐるりと周囲に視線を巡らせ、小さく呟いた後、
アルムがフィアシスから離れ、一歩前に踏み出す。
その動きに男達が腰を落として臨戦態勢を取り、
銘々の得物を握る手に力を入れた。
アルムが前に出るならば、と、
フィアシスは後ろの男達を振り返るが、
「フィアシス、その場を動くな」
「えっ……?」
背後から投げかけられた言葉。自分の名を呼ぶ声。
何も特別なことなど無いはずのそれが、
フィアシスの心臓を強く脈打たせた。
そう短くない時間をアルムと過ごしてきた中で、
特に気にしてもこなかった。
だが、実際にそれが起きれば否が応でも意識する。
アルムが、自分の名前を呼んだ。
フィアシスの記憶の中で、それは初めてのことだった。
ただそれだけの事だ。
何も特別なことではない筈だ。
そもそも今は緊急事態。
それどころではないと言うのに、たったそれだけの事で、
フィアシスの心は温かな喜びに包まれ、舞い上がってしまう。
「なっ……!?」
フィアシスが思わずアルムを振り返るのと、
男の一人が驚愕の声を上げたのは、ほぼ同時だった。
そして、フィアシスの目がアルムを捉える直前、
「っ!?」
視界が黒く閉ざされた。
目は開いたまま。意識もはっきりとしている。
だというのに、目の前が真っ暗で何も見えなくなった。
「これは!?」
「馬鹿な!」
まるで何も映らない眼前から、男達の戸惑いの声が響く。
何が起こったのか、フィアシスの脳が理解するには、
暫くの時間を要した。
視界が完全に失われたわけではない。
雨天の夜闇よりなお暗いが、それでも僅かな光が透き、
辛うじて自分の手や服の白は形が分かる。
そして、その闇を作り上げているものの形もまた、
薄ぼんやりと知覚することが出来る。
黒の紡月。
直線的に作られた黒い矩形が、
自分の身体の前後左右と頭上の五面を囲んでいる。
「黒の……ぐっ!」
「まさかこいつ……!」
外の様子はまるで分からない。
ただ、男達の声の中に短い呻き声が混じっていることから、
アルムが彼らを鎮圧しているのであろうことは察せられた。
「この……!」
「っ!」
自分を囲む壁が、大きな硬い衝突音を響かせた。
フィアシスは反射的に肩を縮め、その音から後退る。
後ろの十字路の側にいた男が、
フィアシスを守る壁に得物を叩き付けたのだろうが、
黒い壁にはまるで揺らぐ気配も無い。
見守ることさえ出来ず、ただ守られている。
その状況にフィアシスが感じるのは、歯痒さだった。
アルムに勧めに従い、
過去の白の女王や王女について記された書を読み、
その生き様を知り、戦いぶりを幾らか学んだ。
だが、それらは所詮、文字を読んだだけに過ぎない。
自分には彼女達のような背景も覚悟も経験も無く、
今、襲い来る脅威を前にアルムが選択したのも、
フィアシスは戦わせず、安全な場所に隔離するという方法。
並び立つのではなく、一方的な庇護対象として扱うという判断。
無論、傍から見た時に、親衛隊というアルムの立場を考えれば、
それは当然の行動としか言いようがない。
それでも、フィアシスの心を苛む無力感は果てしなく重かった。
「がっ……!」
絞り出されるような声が、自分の傍から漏れた。
アルムの鎮圧対象が、背後の男達に移ったのだろう。
有象無象と呼んだ者達に、アルムが遅れを取る筈もない。
戦場を知る者ならば、剣に長けた者ならば、
きっと、初めから不安に思うことすらも無かった。
フィアシスは自身の恐怖すらも恥じ、表情を曇らせていく。
「……」
やがて、周囲から音が止んだ。
殺気立った気配が霧散し、空気が凪いでいくのを感じる。
未だフィアシスの周囲だけが黒く閉ざされたまま、
何も出来ず、何も分からないままだった。
「片付いた。怪我はないか」
四角い闇の向こうから問われたのと同時、
フィアシスの視界が一気に開けた。
暗所から明所へ瞬間的に移った眩しさで目が眩み、
フィアシスは思わず目を強く瞑る。
「怪我はありません。ありがとうございます。
それで……」
瞼を薄く開き、ゆっくりと視界を取り戻す。
声の方へ向いていたこともあり、
真っ先に目に入ったのはアルムの姿だったが、
その異様にフィアシスは小さく息を呑んだ。
「アルム様、血が……」
白の外套を斑に染める、鮮やかな紅。
アルムの右手から右肩にかけて、右頬にまで渡って、
まるで染料の桶を被ったかのように、
べったりと赤が広がっていた。
「返り血だ。問題は無い」
事も無げにアルムが答える。
言われずとも、アルムが怪我をしたとは思っていない。
ただ、これだけの血に染まった人の姿を見た事が無かったから、
思わず口をついて出ただけだった。
「……」
返り血、という言葉の示す惨状を、フィアシスは静かに見渡す。
周囲には、一様に身動ぎ一つせず地に伏す、六人の赤の男達。
見て取れる範囲では、その中の二人が、
地面に広がるほどの量の血を流している。
生死は、一見するだけでは判別がつかない。
「あの……治療を……」
アルムはこの男達に対して「捕らえる」と言ってのけた。
ならば、きっと生かしておく前提であるはず。
一撃のもとに絶命させようとはしていないはず。
フィアシスはその意をアルムに問うが、
「いや、無用だ」
「えっ……」
アルムの答えは否。
これだけの返り血を浴びるほどの、血溜まりが出来るほどの流血だ。
放置すれば死に至るのは想像に難くない。
だというのに、見殺しにせよと言うのだろうか。
白の王族であるフィアシスに、
目の前で死にゆく命を見捨てよと言うのだろうか。
確かに彼らは、自分に害を成そうと襲ってきた者達だ。
敵と呼んで差し支えのない存在だ。
だが、それでも、
「後は、あの者達に任せておけば良い」
アルムがいかにも不機嫌そうに続けた言葉は、
フィアシスには理解の及ばないものだった。
この場にいるのは、フィアシスとアルムと赤の男達だけ。
あの者達、とは一体何の話なのか。
アルムの視線の向かう先は、
フィアシスでもなければ、赤の男達でもない。
促されるように、フィアシスはその視線の先を辿る。
「っ!」
その先には確かに、あの者達と称すべき人影があった。
いつからそこに居たのだろうか。
確かに姿が見えていても、幻かと目を疑ってしまいそうな、
そんな希薄な気配を纏った、白い人影が五人、
先ほど赤の男達が現れた十字路に並んでいた。
フィアシスやアルムのものと似た、
それでいて全員が別々の意匠の外套を纏っており、
顔の判別は付かないが、体型から察するに、
男女が入り混じっているようだ。
「私を監視するという任を全うするのは結構だが、
王女の身の安全よりも優先すべきものとは思えないな」
一度後ろを振り返り、正面に向き直りながらアルムが吐き捨てる。
釣られるようにフィアシスが振り返った先には、更に五人。
皆が同じような出で立ちで、同じ様に朧気な雰囲気を漂わせている。
アルムの監視。
確かにフィアシスも、監視や警護がつく可能性は高いと思っていた。
無い方が不自然だとすら考えていた。
それが実際に行われていて、そして、
「貴女ならば、十分に排除できると判断したまでです」
フィアシス達が襲撃を受けたにも拘わらず、
彼女らはすぐに行動に移らず、様子見をするという判断をした。
アルムの怒りは尤もだと、フィアシスは心の中で頷く。
「私が連中と共犯である可能性も考えられる状況だろう。
軽率に過ぎる判断だ」
「貴女が敵に回れば、我々では対処のしようがありません。
貴女がフィアシス様に最も近い位置にいる時点で、完全に手遅れです。
そも、貴女にフィアシス様への害意があるならば、
今までに幾らでも機会はあった筈」
批難の言葉を浴びせるアルムに対し、
感情の籠もらない平坦な口調で監視が応じる。
それは彼女達なりのアルムへの信頼と捉えて良いのだろうか。
彼女達が誰から命じられ、いつから何をしていたのか、
フィアシスにはそれすら知る術がない。
或いは、それはアルムが親衛隊を任じられる前から始まっていて、
フィアシスの知らない何かを、彼女達が知っている可能性もある。
「まぁ、職責を果たしたと言うのなら構わないが。
この男達の始末は任せるが、構わないな?」
追及もほどほどに、アルムが傍に倒れる男を見下ろして言う。
初めから、彼女達がどう動くかは分かっていたのだろう。
その口調はあくまで呆れや諦めといったようなもので、
怒気までは感じられない。
「お任せを。
厳重に拘束し、収監いたします」
「そうか」
淡々と二人が話す中、既に他の監視の者達は動き出しており、
どこから取り出したのか、革の拘束具を男達に装着していく。
治癒の紡月も並行して施されており、
フィアシスは二重の意味で安堵し、静かに胸を撫で下ろした。
「我々は王城に戻るが、増援を待った方が良いか?」
「いえ、私がこのままお供いたします。
フィアシス様、畏れながら今しばらくご辛抱下さいませ」
「あっ、はい……」
監視の女が深々とフィアシスに向けて頭を垂れる。
アルムに向けるものとは違い、
その声と振る舞いには、抑揚は少ないながらも確かな配意が感じられる。
与えられた役割を鑑みるに、彼女達はレフィアに近い従者であり、
相応の立場にあり、十分な信頼を得ているのだろう。
彼女達の白の王族への忠誠心は疑いようもない。
フィアシスの意を問うことも無く出された結論ではあるが、
特に異を唱えるつもりもなかった。
自分の命を奪わんとする襲撃があった場所であり、
どうやら赤の男達にも死者は出ていないようだが、
何人もの血が流れてしまった場所に留まるのは、
フィアシスにとっては生きた心地のするものではない。
何より、この場に留まる限り、
アルムの声と表情は、冷淡で無情なものであり続けるだろう。
フィアシスには、それが何より心苦しかった。
つい先刻、アロについて語っていたアルム。
あの穏やかな色は、今はもう跡形もない。
今はただ早く王城に帰り、いつもの日常に戻りたい。
願わくば誰の目もない場所で、
アルムと共に穏やかな時間を過ごしたい。
きっとアルムもそれを望んでいる筈だと、そう思うばかりだった。
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