第24話/すてぃるすてぃるすてらー



「――――おなか、すいた」


 暗闇の中で砂緒はぽつりと力なく呟いた、失意の中玄関でぐでっと倒れたまま何時間たったのか。

 のろのろと立ち上がると、台所まで重い足を進める。

 今、とても酷い顔をしているだろう。


「しんやくぅぅぅぅぅぅぅぅん、なんでぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ~~~~~~~っ」


 こんなに悲しいのに、お腹が空くなんて。

 とても空腹なのに、食欲なんてない。

 彼女はぜぇぜぇと呼吸を乱しながら台所に行くと、覚束ない手つきでガラスのコップに水道水を注いだ。


「んくっ、んくっ、んくっ、――――あ゛ぁ゛……」


 ただの水がとても美味しくて、それは不快でしかなかった。

 生理現象すら今の砂緒には、鬱陶しいものでしかなくて。


「だめ、だめ、だめ、もう……だめなの、記憶がないから、慎也くんを思い出せない私なんか――」


 分かってる、こんなものはただの失恋だって。

 けれど彼女には、世界の全てが崩壊してしまったのと等しく。


「――生きてる価値って、あるの?」


 男なんて、今でもそう思ってる。

 なんて矛盾なんだろう、でも愛する人の側にいる幸せを知ってしまったから。

 全てを思い出せなくても、体が覚えてしまっているから。


「みんな……死んじゃえばいいのに」


 どうして世界は存在しているんだろう、砂緒は今、無性に暴れたい気分だった。

 何もかも壊してしまいたい、幸せになれないなら、世界なんて滅んでしまえばいいのに。


「――――ほろ、ぶ」


 それは天啓のように彼女の脳に降りてきた、なんて素晴らしい考えなんだろう。


「私を愛してくれないなら、貴方のことを思い出せない私なんて」


 輝きを喪った瞳が爛々と光り、倦怠感に満ちていた体が力を取り戻す。

 必要なものは何か、台所を見渡した彼女の目に乾燥機の中に置いたままだった包丁が飛び込む。


「いっしょに、しんじゃおう」


 彼女はそれを手に取ると、ふらふらとした足取りで玄関に向かう。

 靴を履くのも忘れ、扉を開けて。

 ――その頃、慎也といえば。


「ん、…………あー、もうこんな時間か、腹減ったなぁ、コンビニ行くか」


 己の生命の危機に気づくはずがなく、自室にてむくりと起き出した。

 あの後、帰宅し泥のように眠って。

 そうしたら今だ、窓の外を見れば日が落ちて暗くなっている。


「何をするにしろ考えるにせよ、まずは腹ごしらえだ」


 頭は冴えている、空腹により明晰さがいっそう上がっていて。

 スマホで電子マネーがチャージされてるのを確認しながら家を出る、歩く、歩く、歩く、夜の街を歩く。

 ――腹立たしさが収まらない。


「なにをやってるんだろうね俺はさ」


 答える者は誰もいない、苛立ちが込められた言葉が夜闇のアスファルトの上に落ちて溶けた。

 今宵の街灯がやけに明るく感じる気がして、彼は明かりを避けて進む。

 一歩一歩踏み出す度に、砂緒の泣き顔が思い出されて臓腑がずっしりと重く重く重く。


(俺は――)


 灰海慎也は普通である、その認識で生きてきた。

 誰かに自慢できる取り柄なんてない、テストの点も得意な何かも普通でしかなくて。

 不幸な家庭に育った訳じゃない、ごくごく普通に愛されて育ってきた。


(俺は…………)


 良くも悪くも普通、趣味である深夜の散歩だって少々風変わりであるが普通の範疇。

 居てくれる時に居てくれる、なんて言われた事はあっても自覚なんてある訳がない。

 そんな灰海慎也という存在が、唯一手にした幸運。


「――――砂緒」


 彼女がどうして好きになってくれたのか、愛してくれたのか。

 話してくれた事はあっても、未だにピンとこず。

 付き合ったのだって、彼女に流されたと言える。


「でも」


 好きになってくれたから、好きになってしまったのだ。

 愛してくれたから、愛してしまったのだ。

 なんて現金な話なのだろう、なんて彼女は優しかったのだろう。


「受け身な俺を……」


 真夏の彼女に、何をしてやれたのだろうか。

 秋の始まりの彼女に、何ができたのだろうか。

 側に居たのだって、彼女に頼まれたからかもしれない。


「つくづく頭に来る、バカじゃないか俺、最低だ」


 彼女との約束、何も言わずに側にいること。

 何度も悩んだ、本当にそれでいいのか、悩んで悩んでその通りにして。

 ――本当に?


「違う、俺は真実を言う勇気がなかっただけだよ」


 本当にそれだけだろうか、それすら自分を誤魔化すウソでしかないのではないか。


「そうだ、……怖かったんだ、嫌われるのが。勇気がなかったんじゃない、ただ……怖かったんだ」


 彼女の頼みを断って、嫌われたくなかった。

 違うと、間違ってるって分かっていたのに、嫌われるのが怖くて。

 彼女の思いを尊重するフリをし、弱い自分を良しとしたのだ。


「――――ムカツク、本当にムカツク」


 愚かさに吐き気すらしそう、自分自身を殴って解決するなら今すぐ殴る勢い。


「ああ……間違ってたよ、俺は間違ってた」


 彼女を愛してるなら、慎也はそれは違うと言えばよかったのだ。

 彼女を愛してるなら、慎也は俺が恋人だと言うべきだった。

 話は全て、それからだったのに。


「――今からでも、間に合うかな」


 砂緒は泣いて去ってしまった、もう手遅れかもしれない。

 こんな不甲斐ない男のことなど愛想を尽かして、視界に入っただけで逃げていくならまだマシ、他の男に惚れてしまっている可能性だって。

 それでも、間違ってたと気づいたから。


「骨の一本や二本、殴られて折られても……俺は諦めない」


 その表情は激しい怒気を孕んで、愛する者へ好意を向ける目でも声色でもない。

 足取りは荒々しく、肩を怒らせて。


(え……、慎也、くん?)


 見てしまった、その瞬間を砂緒は目撃してしまって。

 手にした包丁を落としそうになりながら、思わず電柱の陰に隠れる。


(え、ええええええっ、ふぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!?)


 距離は遠く、何かを呟いていたようだが彼女には聞こえず。

 でも目の当たりにしてしまった、――ときめいてしまった。

 己が何をしようとしていたかなんて忘れて、九院砂緒はぽぉっと彼を見つめる。


(なんでそんな色っぽい顔してるの慎也くーーーーーん!? え、ええっ、なんでなんでぇっ、その足でドコに行くの? もしかして私に会いに!? きゃ~~っ!!)


 端から見れば、あばたもえくぼと言った所だっただろう。

 なにせ慎也は自分が認識している通りに、容姿だって特に優れている訳じゃない。

 厳めしい顔をしたって、ギャップがどうとか普通は感じないだろう。

 ――だが、ここに例外が存在する。


(ほわぁっ、慎也くんがこんな顔をするなんて……か、カッコイイっ!! え、なんでなんでどーしてっ、ムリムリムリっ、ムリだよぉっ!?)


 隠れたまま息を潜めて注視する砂緒に気づかず、慎也は横を通り過ぎる。

 彼女は思わず、ふらふらと後を追いかけて。


「コンビニで腹ごしらえって思ったけど……そうだね、今から砂緒の家にいこう、寝てても起こしてご飯作って貰おう。――――もう遠慮しないよ」


(んんんんんんんんっ!?)


 ならば少し戻って、道を変えなければと慎也が振り向いた瞬間であった。


「…………うん?」


「……………………ぁ」


 目があった、靴を履かず包丁を手にしている彼女が目の前にいた。

 冷静な状態ならば、今の砂緒の格好は危険と判断しただろう。

 だがテンションが上がっている今となっては、そんな事など微塵も思わずに。


「やっ、奇遇だね砂緒。ちょうど君の家に行こうと思ってたんだよ。お腹減ったからご飯作ってよ」


「はえっ!? え、ええっと、あわわわわっ!?」


「嫌かい? でもそれは聞けないな。あ、包丁は預かっておくよ」


「――ッ!? か、返して私の包ちょ――――んんっ!? んんんんんんんんんん~~~~~~~~~ッ??」


 砂緒は我に返ったが、既に時は遅し。

 慎也の顔がドアップになったかと思えば、キスされていて。

 しかも腰をがっつり掴まれていて逃げられない、彼女が目を白黒させている間にキスは終わり。


「じゃ、行こうか」


(どうなってるのおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!?)


 今までで一番強引な慎也の姿に、砂緒は激しく混乱したのだった。


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