第15話/愛しいかけら



 内心穏やかならぬ慎也と違い、砂緒の心は実に弾んでいた。

 スパゲッティだってとても美味しく感じる、今ならおかわり出来そうなぐらいで。

 この後の事を思うと、期待に胸が膨らむのだ。


(キス、……してくれるよね、するの、灰海くん……ううん、慎也くんは、喜んでして、くれる?)


 彼に選択権を与えたように見えて、キスは彼女にとって決定事項。

 もし断られても、是と言わせる自信がある、腕力に訴えて勝てる確信がある。

 おとぎ話のような、少女マンガのような劇的な何かは無いと分かっていても。


(何かが変わるって気がするのっ)


 どうしてこんなに己は落ち着いているのだろうか、緊張感が麻痺してしまったのか。

 違う、と砂緒は口元を綻ばせた。

 この部屋で二人っきりでいるのが、彼が頭を悩ませている光景が、不思議と自然に思える。


(きっと、私がこの部屋にいたのは……)


 夏の一ヶ月の間の、その半分にも満たなかったかもしれない。

 でもそれは、記憶を喪っていた自分にとって人生の半分であると。

 彼女はそっと己の唇を指先で触った、それが慎也には艶やかに誘いに見える。


(明らかに期待してるっていうかさァ!! キスしないって言ったら泣くよねこれッ!! でも俺としては断った方が……いやでもそうなのか? どうなの?? 分かんない、全然分かんないよ!?)


(ふふっ、困ってる困ってる……、嗚呼、男の子ってこんなに可愛い存在だったっけ?)


(これは浮気になるの? 今の砂緒とキスして……俺は前の砂緒を裏切ることにならない……よね?? どーすりゃいいんだよおおおおおおおおおおおっ!!)


(えへへぇ、もうちょっと見てたいなっ)


 空の皿を前に苦悶する彼に、彼女はにんまりと笑う。


「まだ決まらない? ゆーっくり考えていいからねっ」


「あ、ああっ、サンキュー……」


「その代わり……、えいっ」


「ッ!? す、砂緒!?」


「決まるまで、慎也くんの手は人質になりましたーっ」


「…………まぁ、いいけどさぁ」


 元々、一人で使うために買ったちゃぶ台は狭く。

 少し手を延ばせば、相手に触れられる距離しかない。

 砂緒は空の皿の上で、慎也の右手を両手で包み込む。


「へーえ、男の子の手って結構ごつごつしてるんだね」


「…………ねぇちょっと? 集中出来ないんだけど? 指を触るの止めて貰っていい??」


「だーめっ、……ふーん、やっぱり私のよりおっきい、これで恋人を触れてたの?」


「だから……」


 この状況で何を考えられようか、本当に夏の記憶が戻っていないのか疑問が首を傾げる。

 どう見ても、あの頃の寂しがり屋で構ってちゃんな彼女でしかない。

 ずくん、と慎也の心に突き刺さるそれは、痛みなのか疼きなのか。


(ズルいよ砂緒……、どうして君は俺と恋してた記憶がないのに繋ぎとめるようなコトを……ッ)


 このまま、ぐいと彼女の手を引き寄せて口づけしてみたい。

 そうしたらまた、きゃっと態とらしい声を出してくすぐったそうに笑ってくれるだろうか。

 でも、できない、そうした途端にこの幸せな瞬間が逃げてしまいそうな気がして……踏み出せなくて。


「すんすん、男の子の手の匂い……初めてかも」


(何度も俺のを堪能してたって言わない方がいいよねぇ……)


「にぎにぎ、にぎにぎ、案外と癖になりそうな堅さよね……歯ごたえよさそうっ」


(そーいえば、甘噛みするの好きだったよなぁ)


 夏の思い出が刺激されてしまう、目の前の居るのがあの頃の砂緒だと勘違いしそうになる。

 今の彼女と前の彼女が重なって、どちらも同じ存在だと慎也に突きつけた。

 だからこそ、辛い、好きと言ってはいけないのだから。


(――――嗚呼、夏の時の私は――)


 傷ついた目をして少し俯く彼を前に、砂緒は瞳を輝かし背筋をゾクゾクさせた。

 悩んでくれている、想ってくれている、彼は彼女のことだけを考えてくれている。


(私は、わるいこなんだね)


 日記には無くした指輪を拾ってくれた、と記してあった。

 落とし物を拾うなんて誰でも出来る、人として平均的な優しさ、どこまでも平凡な優しさ。

 そんな事で惚れたのかと、最初は己が信じられなくて呪いそうになったが。


(このヒトは……、きっと私が望むときに側にいてくれる)


 辛いとき、困っているとき、悲しいとき、怒ってるとき、嬉しいとき。

 どんな時でも必要な時に側に居てくれる、そんな予感がある。

 ――それを人は、一目惚れと呼ぶのだろう。


(きっと天国のパパとママが引き合わせてくれたんだっ、運命の男の子は側にいるよって教えてくれた……)


 同じ教室に居て視界に入っても、有象無象のその他である筈だった。

 でも、だからこそ――狡いと思う。

 どうして自分は忘れてしまったのか、どうして何も言ってくれないのか。


(今なら何となく分かる、分かるけど……)


 言って欲しい、もっと態度で、行動で表して欲しい。

 好きだって、愛されてるという実感が欲しい。


(ズルいよ私……、気持ちだけ残していくなんて)


 じら、と心に黒い染みが浮かんだ気がした。

 嗚呼と心から何かが溢れ出そう、このままだと悪い考えに支配されてしまいそうな予感がする。

 もし、もし、もし、彼しか答えを知らないイフの問いが飛び出そうになって。

 ――――外はいつの間にか、酷い土砂降りの雨。


「ね、聞こえてる? 私、帰れなくなっちゃった」


「…………傘を貸すよ」


「傘でもびしょ濡れになちゃうかも、泊めてくれちゃったりする?」


「それは――」


「――恋人に悪いからって答えはダーメっ」


 悪戯が成功した幼い子供のような無邪気な笑みに、慎也は強い既視感を覚えてクラクラした。

 これはアレだ、あの日、初めての夜を彼女と過ごした日、結ばれた日、あの瞬間に砂緒が見せた表情と同じで。

 逃げられない、脳髄が痺れるような目眩がする。


(――本当に? 逃げられないのか?)


「ここには私たちの他に誰もいないよ、誰も見てない、だから――恋人同士のキス、しちゃう?」


(キスして、それで……どうなる? 今の砂緒は恋人じゃないのに? でも同じ砂緒なのに?)


「私の恋人だった人は日記の中にしか居なくて、慎也くんの恋人は今どこに居るの? ね、……私たちがキスしちゃいけない理由って?」


 蠱惑的であまやかな声が慎也の耳朶に響き、脳を犯す。

 底なし沼に肩まで浸かっていたのに、抜け出せなくなるまで気づかなかった手遅れ感。

 流されては駄目だという焦燥感が言葉にならず、しかして強い衝動として警鐘を鳴らして五月蠅い。


「――――ごめんッ、ちょっと夜の散歩して頭冷やしてくる!!」


「………………えっ、えええええええ!?」


 瞬間、砂緒の手を振り払った彼は勢いよく立ち上がり走り出した。

 外が豪雨という認識は微かにあったが役に立たず、傘を手に取る時間すら惜しい。

 辛うじて履いたサンダルは走りにくくて、雨が直接当たって冷たかった。


「に、逃がさないっ!! 待って、待ってって言ってる――――ッ!!」


 数秒間は思考停止していた砂緒であったが、すぐに後を追いかけた。

 もどかしい気持ちで靴を履き、外に出れば少し遠くに慎也の姿が。

 フィジカルでは勝っているのだ、追いつけない筈がないと全力で走り出す。


「うおおおおおおおおおお、なんで追ってくるんだよおおおおおおおおおおおおおおおッ!!」


「慎也くんが逃げるからでしょ!! このヘタレ!! 女の子に恥をかかせといてっ!! 絶対に逃がさないからっ!!」


「ええいッ、地の利は我にあり!! 逃げ切っ……って、そこどっかの家の壁!? パルクール出来るとか聞いてないよ!!」


「あははっ、後もうすぐで追いついちゃうよっ!!」


 豪雨の中で開始される鬼ごっこ、どちらも正気を保っていない。

 部屋で待っていれば慎也は帰ってくるのに、逃げ切った所で住所はバレてるし同じクラスだから襲撃されるのは目に見えてるのに。

 激しい雨音と外灯の光だけが支配する街を、二人は失踪する。


(クソっ、もうすぐ大通りで交差点!! 赤だったら詰みだよねぇ!! ――って、今カスった!? 俺のTシャツ捕まれたよ一瞬!!)


(惜しいっ!! 後ちょっとだったのに、焦らすなぁ慎也くんっ、嗚呼――なんかスッゴく楽しい!!)


 気づけば、指輪を拾った大通りの交差点が目の前に。

 そこを過ぎればコンビニや弁当屋などがある、ならば捕まらない限りまだ逃げられるかもしれない。

 慎也が希望を胸に、青の横断歩道を渡ると見せかけて。


(ここで歩道橋!! 追ってくるならこのまま進むッ、反対側から来るならスピードを緩めて――)


「きゃっ!?」


「――ッ!? 大丈夫かい砂緒!!」


「あいたたた…………」


 後ろからずるっ、べたーんと盛大に転倒する音が。

 慎也は思わず引き返して、躊躇い無く右手を差し出す。


「ほら、立てる?」


「ううっ、……ありが――――はぇ?」


「どうしたの砂緒? 胸を強く打った!? 病院に行こう!」


「そうじゃなくて、今……ああっ、やっぱりぃ!! 私の指輪っ、ドコに行ったのぉ!! 無い、ネックレスも落としちゃったっ!?」


 砂緒の悲痛な声が、激しい雨音の中で交差点に響きわたった。


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