第8話/振り向けば隣に



(私、なにやってんだろうね……)


 砂緒が暫定ストーカーである灰海慎也のアパートに居座って、早くも数時間が経過した。

 二人の間に会話はなく、居心地が悪そうにしながらも背を向け寝そべってマンガを読む彼を、彼女はぼやっと見つめて。

 不思議とそれが嫌ではないのが、とても癪に障る、焦燥感すらわき起こる。


(こんなコトしてて、例のクソ男を本当に見つけられるの?)


 スマホの日記には、名前が消された幸せな思い出ばかり。

 電話番号は名前が消されダーリンとだけ、ラインだって同じだ。

 残された会話履歴には、他愛のない雑談や待ち合わせの話。


(送ったら……返事くれるのかな)


 そうするのが一番てっとり早いのは確かだ、しかし無視される可能性があるし。

 仮に相手が会話に応じたとして、どんな顔で会えばいいのだ。

 分かってる、本当は誰も悪くない事なんて。


(ううん、――私が悪いの)


 忘れてしまったから、大切な思い出を何もかも忘れてしまったから。

 日記に書いてあったではないか、もし忘れてしまったとしても相手の男を嫌いと言いたくないから、と。

 その男はきっと、今も約束を守っているのだ。


(だから、私の前に表れない、連絡だって来ない)


 でも、どうして。


(なんで、……側にいてくれないの?)


 きっと記憶を喪った自分もそう思ってた筈だ、辛いことを忘れてしまった自分なら。

 男嫌いになる前の自分なら、だってそうだ、両親が居て幸せだった頃の砂緒は、甘えたがりで、寂しがり屋で、我が儘お姫様で。

 なら、何があっても側に居てくれと頼んだ筈。


「――――うそつき」


 ぽつりと砂緒は呟いた、慎也が頁をめくる音でかき消されてしまいそうな程に小さく。

 けれど届いてしまった、届いてしまったから少しだけ彼の手が震える。

 彼女からは後ろ姿しか見えなかったから、それに気づかない。


(一回だけ、うん、一回だけなら……いいよね?)


 送る理由なんて山ほどある、別れるにせよ会話は必要だ。

 もし本当に悪い男だったなら、対処する為にも人となりを知っておかなければならない。

 それに。


(男の子の家に居るんだもん、浮気者って言われたら……うん、きっつい)


 今の砂緒は例の男と恋人関係ではない、でも彼からしてみれば違うだろう。

 ならば、今の状況はどう言い繕っても浮気だ、彼女が彼の立場でもそう思う。

 一回だけ、そう一回だけ送ってみて反応を待ってみようと彼女は考えて。


(『会いたい』…………うん、変じゃないよね、それとも詳しく説明した方が……で、でも、それで面倒な女って思われてもイヤだし、これぐらいシンプルな方がいいよね、…………ホントに?)


 一回のメッセージの為に、砂緒は消しては書き、消しては書きを繰り返す。

 大きく丸い目は細められ、眉間には皺が寄る。

 七十%あった充電が半分ほどになった時、ようやく納得がいって。


(『会いたい』……よし送信っ、やっぱりシンプルが一番っ! 反応してくれるかな、なんて返してくるんだろう、それとも……やっぱり無視されちゃうかな)


(…………どーすりゃいいんだよコレ)


 慎也はスマホがマナーモードのままでよかった、と胸をなで下ろした。

 目の前で充電中のスマホ、その画面には砂緒から送られたメッセージが通知されている。

 会いたい、短い文面に彼の心はざわめいて。


(まだかな……既読がつかない、無視されちゃった?)


(今スマホを手に取るのはリスクが高いよね、でも……『会おう』って『すぐ側にいるんだ』とかさ、送れないよ……送りたいよ、砂緒――)


 強く目を閉じて、慎也は我慢した。

 今ここで我慢しなければ、どうして約束が守れるのだ。

 けれど、完全に無視するにしても、既読無視するにしても、砂緒が傷つくのは明白で。


(俺がしたいコトって、本当にそうなのか?)


 約束は守りたい、でもそれは今の彼女を蔑ろにしていい訳じゃない。

 正直、今の彼女と前の彼女は別人だという印象が強い。

 どうしても比べてしまう、前に戻らないかとすら思ってしまう。

 ――――でも。


(同じ砂緒なんだ、どっちも同じ君なんだよ……)


 ふとした瞬間、慎也が好きな彼女が消えてない事に気づいてしまう。

 座るときの動作、視線の動かし方、慌てたときに手をわきわきさせる仕草、他にも沢山ある。

 当たり前だ、同一人物なのだから。


(どうして、……なんで忘れちゃったんだよ、俺を好きにならせといてさ、酷いよ砂緒……)


(無視、されちゃったかな、当たり前か、うん、全然なんとも思ってないんだから)


(俺は……どうすればいいんだろう、何がしたいんだろう)


(はぁ、気が抜けちゃった。――――にしても、コイツの恋人って本当にいるみたいね)


 小さなため息に慎也がビクっと肩を震わせる一方で、脱力感をおぼえながら砂緒は改めて部屋の中を観察した。

 部屋の隅にある洗濯がまだの衣類、歯ぬけの本棚に床に散らばったマンガ。


(ザ・男の子って感じよね、テレビにゲーム繋ぎっぱなしだし……勉強してるの?)


 窓際にある机には、教科書や参考書が並んでいるが。

 とても使っているようには見えない、これなら成績が良くも悪くも普通なのは納得しかない。

 そんな中、どうしても女物の小物が目立つ。


(アロマにハンドクリーム……そういえば台所にピンクの歯ブラシとかあったよね、――あ、もしかしてあのカラーボックスって)


 小綺麗で真新しい収納、隣のそれは男物の衣服がハミ出してるような有様だが。

 唯一そこだけが清潔で、何なら上に女物の香水や口紅などの化粧品が置かれている。

 その時だった、砂緒はとある事に気づいて。


(そういえば……男の部屋って汗臭いって話だったけど、全然そんな感じじゃないよね?)


 果たしてそれが何を意味するのか、今の彼女には理解できなかった。

 己の匂いに対する許容範囲が思ったより広かったのかもしれない、もしくは夏休み中に慎也の恋人が清潔さを保っていたか。


(…………今日は寝ないで見張る予定だし、掃除くらいしてあげても?)


 掃除道具の場所は分かる、説明こそなく、ぱっと見には分からない所に隠されているが。

 砂緒は確かにそれを発見していた、何ならこの部屋で掃除をする自分を思い描くことができる。

 ――それが、夏休みの時の記憶だとは気づかずに。


「あー、九院さん? そろそろ晩ご飯の支度をしようと思ってるけど……食べる?」


「いいの? 勝手に押し掛けた身分だしウーバーとか使おうって思ってたけど」


「カレーの作り置きがあるんだ、米は炊けばいいだけだし、冷凍エビもあるからアボカドサラダぐらいなら作れるよ」


「ホント!? やった嬉しーっ、エビのアボカドサラダ好きなの!!」


「ははっ、お気に召したようで嬉しいな」


 そう言って慎也は立ち上がると、四歩先の台所に行って二つあるエプロンの片方を手に。

 砂緒は部屋に居る光景は、彼にとってあまりに自然になっていた光景で気づかなかった。

 エビのアボカドサラダは、彼女の好物だった事を。


「奇遇よね、彼女さんの趣味? 灰海くんって、わざわざサラダを作るような感じに見えないけど」


「ッ!? そ、そう? まぁアタリだよ、彼女が好きでさ、買い置きしてくれてたんだ」


「同棲一歩手前って感じじゃん、もしかしてカレーも?」


「それは一蓮の、ああ同じクラスの都築一蓮? ……名前覚えてる? 幼馴染みでさ、アイツ料理が得意でよく作ってくれるんだ」


「へぇ、初耳だあ、貴方って友達居たのね?」


「それは流石に酷くない?? 君こそボッチ状態だよね??」


 軽口を叩き合いながら料理を待つ時間は、砂緒にとって心地よくて。

 気づけばウトウトと瞼が重く、慎也が二人分のカレーをよそってサラダも取り分けた時には座布団を枕に彼女はすやすやモード。


「起きて、ご飯できたよ。制服が皺になるから起きてよ九院さん」


「んー、後もうちょっと……脱がして……」


「ちょっと砂緒ッ!? それは不味いと思うんだけど?? 早く起きてったら、カレー冷めちゃうからっ」


「キス……してくれたら起きる……ぐぅ……」


「自分が何を言ってるか分かってる??」


 寝ぼけた砂緒は、慎也がよく知ってる彼女そのもので。

 こういった場合、よく頬にキスして起こしてた。

 彼女は途端、ほにゃと幸せそうに笑い、おこしてー、と手を延ばして。

 だからつい、――彼は覆い被さって顔を近づけて。


(キス、――だ、ダメだっ、危なッ!? マジでキスする所だったよ今!?)


(ふぇっ!? い、今キスされそうになったの!? なんでどうし……う、ううん、そうよね、こんな美少女が可愛くおねだりしちゃったんだもん、魔が差してもおかしくないわよね、だってコイツはストーカーだし)


(き、気づかれてないよね?? そーっと、そーっと離れて……台所で飲み物、うん、ペットボトルのお茶があった筈)


(…………行った? キスしないの? そ、そう、するわけないじゃないっ、ちょっと明かりが遮られたから、私が勘違いしちゃっただけ、それだけっ!)


 数秒後、ううーんと態とらしい伸びと共に砂緒は起き上がり。

 慎也も何事もなかったかの様に、ちゃぶ台へと飲み物を運ぶ。

 だが視線は合わず、二人はお互いの顔が赤くなっている事に気づかないで無言。

 ――その後、就寝時間になるまで会話はなかった。


(…………何か変な気分だな、砂緒がこの部屋にいるのに一緒に寝てないなんて)


 いざ消灯という時になって、彼女は眠たげな声で起きて見張ってると告げたが。

 睡魔には勝てなかったのか、何もしないから布団を使って欲しいという頼みを素直に聞いてくれて。


(前に砂緒が置いていったパジャマを出したけど……記憶、戻ってないよね多分)


 お揃いの物を一緒に買ったので、今の彼女には見覚えがない筈だ。

 何も覚えてない筈なのに、あの頃のように彼女は隣に慎也が寝るスペースを開けていて。


(体が覚えてるって、俺にもまだ希望があるってさ、……フられてないって、そういう事だよね?)


 ぐっすりと眠った彼女は時折、隣の誰かに抱きつく素振りを見せる。

 それを見たくないのに、見てしまう。

 彼女の温もりの隣で、寝たいと体が動きそうになる。


(――――ダメだ、ダメだよ砂緒……俺はもう耐えられない、君が、こんなにも近くにいるのに)


 何も言わずに側にいて、確かに以前の砂緒はそう告げた。

 だが、何もするな、とは言われていない。


(ただ側に居て、気づいてくれなんて都合のいい話に過ぎないよ。何も言わずに側にいるんならさ)


 出来ることがある筈だ、砂緒の記憶を取り戻す方法が。

 きっかけを作る事が出来る筈だ、例え記憶が戻らなくても。


(――――もう一度、君に好きになってもらう)


 だから、朝になって彼女に言う言葉は一つだけだ。

 慎也は密かに決意を固め、そして、朝が来た。


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