第17話/ギフト
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛…………」
今、砂緒はとてつもなく家に帰りたい気分だった。
羞恥心という言葉は、この状況に相応しすぎる。
彼女はワイシャツの前を開けたまま、見事な失意体前屈を見せて。
(指輪……なくしてないじゃん!! 転んだ拍子にチェーンが切れて落ちただけで、指輪は服の中にあったんじゃんかああああああああああああ!!)
気が動転していたとはいえ、ない、これはない。
さっきまでの悲壮な気持ちとか、絶望的な感情はいったい何だったのか。
砂緒は指輪を両手で握りしめ、のたのたと体を起こしヘタっと力なく座る。
「どんな顔して慎也くんの顔みればいいの……」
彼は砂緒の為に、実は落ちていなかった指輪を豪雨の中で一緒に探してくれていたのだ。
しかも、危ういところを助けられてしまった。
その上、あんな台詞まで。
「一生かかってでも俺が見つけるからって、……う゛う゛う゛う゛う゛う゛う゛っ、今更ながらドッキドキしてきたぁっ」
耳まで赤くなってる気がする、よくよく考えれば直前まで彼の温もりが欲しくて風呂場に突撃しようとしていた訳で。
そりゃあもう、恥、という言葉しか出てこない。
でも。
「見つかって、よかったぁ」
安堵のあまり、目尻に涙まで浮かんでくる。
この指輪こそが砂緒の心の支えだったのだ、いつか愛する人と一緒に持つのが夢で。
気がつけば、そんな夢は忘れていて。
「カッコ良かったな……」
人心地すれば、胸に甘い高まりだけがあった。
ずぶ濡れになるのも厭わず、一生懸命に探してくれていた彼の姿が鮮明に映し出される。
これでもし、彼が本当に恋人であったなら。
「素敵って、思っちゃうよ」
指輪は今、砂緒の手の中に一つしかない。
残りの一つ、父の指輪はどこにあるのか。
「…………大切に持ってくれてると嬉しいなっ」
同じように肌身離さず持っていて欲しい、その姿がみたい。
確信が欲しい、彼がそうであるという確信が。
こっそり脱衣所に行けば、確かめられるだろうか。
「それとも直接聞けば……ううん、それはダメ」
灰海慎也は今まで一言も、砂緒の恋人であると名乗らなかった。
指輪を持っているはずなのに、隠し通そうとしている。
理由がある筈だ、言わない理由が。
「…………――――ぁ」
その時、砂緒の目にはちゃぶ台に置かれたスマホが目に入った。
青いカバーの、ポケットに入ったままだったから雨で濡れてしまった慎也のスマホが。
きっと、風呂場に行く前に置いていったのだろう。
「濡れたままだったら、壊れちゃうよね」
それは誰に対しての言い訳であったか、彼女は後ろめたい気持ちと期待に胸を膨らませ。
彼のスマホを、先ほどまで使っていたタオルで愛おしそうに拭く。
(――私のに残ってなくても、もしかしたらこの中に……)
勝手に他人のスマホを見てはいけない、例えそれが恋人の物であっても。
理性はそう訴える、けれど見れば分かるのだ、灰海慎也が恋人であるかどうかが。
とくん、とくん、切ない疼きが衝動となって砂緒に襲いかかる。
(もし、慎也くんが恋人じゃなかったら……でも、もし……)
ごくりと唾を嚥下する音が部屋に大きく響いた気がした、シャワーの音は続いている。
今しかない、でも見てしまうのが怖い。
安心したい、けれど違っていたら、そう思うと胸の奥がきゅうと締め付けられて、痛い、痛くて、ちっとも耐えられそうになかった。
「ごめんね」
震える指で、スマホを操作する。
幸か不幸かロックはかかっていない、息が荒くなる、深呼吸ができない、どうやって息をするのかすら分からなくなって。
焦燥感に突き動かされるがままに、連絡先を確認する。
「違う、違う、違う…………あった、マイハニー、この名前の番号は私のと同じ、同じっ」
歓喜に見開かれた目は、興奮のあまりに充血している気がする。
もっと、もっと証拠が欲しい、確たる証拠がある筈だ。
砂緒は写真のフォルダを開き、嗚呼、と涙した。
「やっぱり慎也くんが……私の恋人だったんだね」
そこには二人で撮った写真で溢れていた、砂緒が覚えていない幸せそうな笑顔の自分の姿がこんなにも沢山。
両親に連れて行って貰った遊園地で、二人がキスしている自撮りがあった。
かつて父が母にプロポーズした近郊の低山の頂上で、一緒にピースをしている写真があった。
他にも商店街やプール、一番多いのはこの部屋での些細な日常。
「――――どうして私は覚えてないの?」
嬉しくて、辛い、写真の中の自分はこんなにも幸せそうにしているのに、慎也は己に愛おしそうな笑顔を向けているのに。
何一つ、今の砂緒は思い出せない。
まるで最初から無かったかのように、思い出せないのだ。
「ははっ、そうだよね、だから、だから慎也くんは何も言わなかったんだよね、何も思い出せない癖に私は何を期待してたんだろう」
やはり見てはいけなかったのだ、こんな気持ちになるなら見るんじゃなかったと彼女は俯いて。
「――――私は、この部屋に居ていいのかな」
言葉にしてしまうと、次々と不安が襲いかかってくる。
夏の記憶のない自分など邪魔ではないのか、なんで優しい言葉をかけてくれるのか、どうして慎也は今も砂緒に恋をしているような行動をするのか。
分からない、シャワーの音は続いている、聞きたい、彼の声が聞きたいと、愛してるという言葉が聞きたくて。
「――――何してるんだろうね、電話なんてかけても出ないのに」
気がつくと砂緒は己のスマホの、ダーリンという連絡先に電話をかけていた。
ちゃぶ台に置き直した彼のスマホがブルブル震え、ディスプレイにはハニーという表示が浮かぶ。
泣きそうな顔で彼女は通話を終了し、立ち上がった。
「これ全部、私のなんだね」
この部屋に存在する女物の全てが、慎也と愛し合っていた時の砂緒が買ったもの。
きっと、二人で選んで買ったもの。
その時の自分は、彼は、どんな顔をして買っていたのだろう。
「なんで、なんでなんでなんでなんでなんで――――」
叫びたい、何もかも壊してしまいたい、手に届く所に幸せがあったのに、どうやって手に取ればいいのか分からない。
そもそも今の砂緒に、その幸せを手にする資格があるのだろうか。
「――――――………………ああ、でも、嘘、ついちゃえば」
記憶が戻ったと、そう言えば彼は笑顔で抱きしめてくれる。
それはダメだと心が叫ぶ。
無理矢理迫れば、きっと彼は断らない。
それはダメだと心が叫ぶ。
「ああ、ああああ、だめ、だめ、だめだめだめだめだめだめだめだめだめ」
砂緒は生乾きの髪をかきむしながら、血走った目で笑顔を浮かべた。
苦しい、苦しくてどうにかなってしまいそう、否、もうどうにかなってしまっている。
恋に落ちるという言葉があるが、そんなのは恋に狂ってしまった言い訳でしかない。
「――――――ぎぎっ、づぁッ、いたいっ、痛いよ、痛いよ慎也くん――――」
がんがんと脳内を直接殴打されてる様な痛みが、砂緒に膝をつかせた。
助けを求めて手を伸ばしたその先に、いつのまにか落としてしまった指輪があって。
掴む、なくさないように掌の中にしっかりと捕まえた瞬間。
『信じちゃったね、ウソ。どうする? このまま女の子に恥をかかせちゃう? それとも――受け入れてくれる?』
「わた、わたし――」
『好きです、慎也くん……付き合ってくださいっ』
「これっ」
『――――愛してるよ、慎也くんっ!!』
「私の、記憶……――ッ!!」
重なっていく、映像が、感情が、パズルのピースが繋がるように埋まっていく。
でも。
「……………………あ、あれ? これで終わり?? う、うそッ、こういう時って全部思い出すんじゃないの!?」
砂緒は慌ててた、思い出した記憶はごく一部だけ。
恐らくは結ばれるその直前の会話や、告白したその時など。
色んな記憶が、様々な瞬間がある筈なのに、思い出せたのは片手の指に満たなく、しかもそれぞれが数秒で。
(これじゃあ、思い出せたって言えないじゃんっ!?)
「――――ごめん、遅くなった。君もお風呂使ってよ」
「ッ!? し、ししししししし慎也くんんんんんんんんんん!?」
「……うん? どーしたの??」
風呂場から出てきた彼が見たのは、中途半端に着崩したまま床に座る砂緒の姿だった。
彼女は妙に顔を赤くして、祈るように両手を組んでいる。
意味は分からないが、もしかして既に風邪を引いてしまったのかと慎也は彼女の前にしゃがみ込んだのであった。
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