#3:人間じゃないなら

 だいじょうぶ。

 その言葉が、心の中でぐわんぐわんと響き続ける。

 だいじょうぶ。だいじょうぶ。だいじょうぶ。

 六年前も、まだ俺が自分を人間だと思っていたころにも、同じことがあった。あのときは何もできなかった。いや、何かをしたにはしたのだが、それは何の成果も残さず、ただ俺が人間ではないことが証明されただけだった。

 今は、どうだ?

 人間じゃないと確信し、そのつもりで生きていた六年間を通り過ぎて、今の俺は、何ができる?

 あるいは、何もできないのか。

「…………………………」

 あの後、すぐに学校は休校扱いとなり生徒たちは締め出された。おそらく捜査主体である生徒会警察の連中と、囚われた朱央だけが残っているだろう。

 俺は自分の自宅である建設中のビルに戻り、二階の、トレーニング器具を置いたフロアに向かった。制服を着替えるのももどかしく、その辺にぶらさげたサンドバッグを叩く。ガシャン、ガシャンとサンドバッグを吊るす鎖が音を立てて揺れた。

 叩く、叩く。ただ黙々と叩いた。時折キックを織り交ぜて、ひたすら。外で降る雨の音が気にならなくなるまで延々と。

 俺は人間じゃない。人間ではない。下等で下劣な人間より高位の存在だ。にもかかわらず、俺はなぜかこんなところで、人間が八つ当たりするみたいにサンドバッグを叩いている。

 どうしてこんな気晴らしみたいなことをしているんだ。俺が気を晴らさなければならない何かがあるというのか。

 朱央を気にしているのか。紅助に引っ張られていったのが気に食わないなら、今すぐ助けに行けばいい。たぶん生徒会警察は警備を固めているだろうけど、そんな障子紙よりも脆い守りは一突きで崩せる。囚われのお姫様を助けることが英雄譚になるのは人間だからで、俺からすればガキのおつかいレベルだ。

 あるいは、別に俺の知ったことじゃないと無視すればいい。人間のごたごたなど俺には関係ない。朱央が連れていかれようが、明らかな冤罪にかけられようがどうでもいいと開き直ればいい。

 しかし俺は、そのどちらもできていない。どちらとも決めかねてこんなところでくすぶっている。

「面倒だな…………」

 動きかねているのはひとえに、朱央が人間で、朝霧家の娘だからだ。俺は人間じゃないから人間の勝手なしがらみなどどうでもいいが、朱央は違う。だから動きかねる。どう動くのが朱央にとって一番いいのか、人ならざる俺にはいまいちピンと来ない。

 六年前は、動けなかった。結局動いたのはすべてが終わった後で、それは何の成果も生み出さなかった。今は、どうだ。結局、六年前と同じか? 人間と思い込んでいた六年前と、人間じゃないと思っている六年後が同じなら、俺はとどのつまり人間の枠を超えなかったということになる。

「…………………………ん?」

 サンドバッグを叩くのを辞めたタイミングで、ぴちゃり、とフロアに足音が響いた。雨に濡れた靴の音だ。

 誰かが、こちらに近づいてくる。しかし誰だ? 夜雷なら今ごろ理事の仕事に追われているだろう。まさかマユミたちということもないだろうし……。それ以外で俺の住居を知っている人間などいたか?

 やがて、階段を上りフロアにそいつが姿を現す。

「七未人さん………………」

「……お前か」

 俺の元に来たのは、藍子だった。どうやらここまで傘も差さずに来たようで全身ずぶ濡れになっている。ふと外を見ると、雨の勢いはさっきよりも増していて、夜のような暗がりに雨粒が地面を叩く音がむなしく反響している。

「……………………」

 しばらく、藍子はその場に立ったままだった。髪先からぽたぽた落ちる雫も気にする様子がない。体がわずかに震えていたが、どうも寒さのせいではないらしい。

 叩くのを止めたサンドバッグがまだ、ギリギリと揺れている。

「あの」

 ようやく、口を開く。

「言っておくが」

 俺は機先を制しておく。

「俺は犯人じゃないぞ」

「それは……分かってます」

「そうか。てっきり俺をまた犯人扱いする気かと思ったぞ」

「七未人さんが犯人でないのは明らかです。あの凶器の火縄銃が発射されたとき、わたしたちは一緒にいたんですから」

「…………そうだな」

 俺たちが昨日、階段で出くわしたときに聞いた破裂音。あれが間違いなく火縄銃の発砲音だったのだろう。

「でもその気になれば何かトリックを弄することくらいできるだろ。なにせ俺は人間じゃない。それくらいできると思わないのか?」

「それも、考えました。でも……七未人さんは委員長を殺す動機がありません。それに、殺せば動機の面から真っ先に疑われるのは朱央さんです。それに気づかないはずがない。そしてあなたは、朱央さんがそういう目に合うのを良しとしない人です」

「どうかな。だったらなんで俺はこんなところにいるんだろうな」

「……………………」

 いまいち、何が言いたいのか分からない。俺が犯人じゃないと思っているのなら、なぜここに来た?

「まさか事件の解決を手伝え、とでも頼みに来たのか?」

「一応、そのつもりでした」

 でした?

「わたしは今、すごく混乱しています。感情的にもなっています。だからこれから言うことは支離滅裂で、整合性はどこにもありません。矛盾することを言います。それでも、ここに来ました」

 水滴だらけの眼鏡を外して、じっと藍子がこっちを見る。その目は赤く腫れていて、さっきまで泣いていたのは明らかだった。ひょっとしたら今も泣いているのかもしれない。頭から顔まで濡れていて、涙なのか雨なのか分からなくなっている。

「わたしにとって、委員長はとても大切な存在でした。水仙坂で今まで過ごしてきたほとんどの時間すべてが、あの人と一緒だったと言っても過言じゃないくらいに、いつも一緒にいて、いつも導いてくれた。だから風紀委員会の副委員長に選んでもらえたとき、『疑似殺人授業』の捜査指揮を一任されたとき、とても嬉しくて、あの人の期待に応えようと誓ったことを覚えています」

 だがその結果は、まあ、俺が口にするまでもないか。俺が来るまでに発生した四件の『疑似殺人授業』はいずれも未解決に終わり、俺が来てからは俺が解決しているわけだし。

「結局、その期待にはあまり応えられませんでした。わたしは根っから、優秀とは程遠い人間なんです。過去の事件データを見て傾向を研究しました。委員会内で情報交換がスムーズに行くよう調整もしましたし、生徒会警察からも情報を得られるよう根回しもしました。それでも結果は出ませんでした」

「人間の努力なんてそんなもんだ。結果が出る方が珍しい」

「そうかもしれません。朝霧委員長も同じようなことを言っていました。気にすることはない、いつか必ずその努力は実を結ぶからと。いつか…………会長はそのいつかに努力が結実するならそれで構わないと思っているようでした。でもわたしは、いつかなんて待っていられない。会長がまだ水仙坂ここにいる今のうちに、成果が欲しかった。それも今では、叶わぬ夢ですけど……」

「……………………」

「だからわたしは、せめて委員長の仇を討ちたいんです。でも、頭が上手く働かなくて……。委員長が死んだって事実で頭がいっぱいになって、それ以外のことが考えられないんです。分かるのは、委員長に懐いていた朱央さんがあんなことをするはずがないってことくらいで」

 それで、ここに来たのか。

「きっと、七未人さんなら解決できると思います。今までだって二つの事件を解決してきました。あれはあくまで『疑似殺人授業』内でのお遊びみたいなものでしたけど、きっと人間じゃないとうそぶくあなたなら、実際の殺人事件だってまるで当たり前のように解決できるでしょう」

 できるできない、可能不可能の話をするならば、藍子の言うとおりだ。俺はこの事件を解決できる。

「でも」

 と、藍子は言葉を翻す。

「七未人さんなら解決できると分かっていても、あなたにそれをお願いしようとは思えないんです。いえ、わたしの個人的な感傷プライドの問題ではなく、もっと切実な問題として……」

「どういうことだ?」

「この事件がただの殺人事件ではないからです。ただの殺人事件なら、わたしは個人としての尊厳も、風紀委員会としての体面も気にせずあなたに解決を頼んだでしょう。それが一番、学校を守ることに繋がるから。でも、これは普通の殺人事件じゃない。殺害されたのは朝霧委員長で、容疑者はその妹なんですから」

「……………………」

「分かりますよね? ことは『学内自治法』で起きた殺人事件という枠を超えて、朝霧家の問題でもあるんです。朝霧家の家督争い、後継者争いの域に達してしまっている。委員長が殺されるということはそういうことなんです。背後に後継者の問題が蠢いているのは間違いない」

「だろうな」

「それに、朝霧家の後継者争いはひいては水仙坂学園全体の問題に繋がります」

「と、いうと…………」

「水仙坂学園の根幹を抱えているのは理事長の提唱する『疑似殺人授業』です。そしてその教育プログラムの基礎こそが、現文科省大臣朝霧紅太郎が中心となって進めた『学内自治法』なんです。水仙坂の今は、朝霧家が作ったとすら言えます。その朝霧家の後継者が、次の家長が誰で、誰が朝霧紅太郎の後を継ぐかという問題は、水仙坂にとっても大きな意味を持ちます」

 これはただの殺人事件じゃない。朝霧朱里が殺される理由などどう見積もっても朝霧家内部の家督争いしか考えられず、そして家督争いはただの政治家一家のお家騒動という枠を超え、水仙坂学園にすら波及する。

「たった一人がどうこうできる規模の事件じゃないんです。表面上はただの殺人事件ですけど、その裏には思惑が蠢いている。だから、七未人さんにどうにかしてほしいなんて頼めないんです」

 いや、むしろと藍子は強調する。

「あなたが何を考えているか分かりませんが、関わるべきではありません。一人の人間が近づけば吹き飛ばされるような世界なんです」

「…………生憎俺は人間じゃないんでね」

 自分の鞄はどこに置いていたっけか。下校してからすぐここに来たから荷物もあるはずだ。少し探すと、ベンチプレスマシーンの横に置いてあるのを見つけた。

「しかし今の話はけっこう貴重だったぜ。なるほどな。俺は朝霧家単体の話として事件を見ていたが、水仙坂全体を巻き込む発想はなかったな」

 夜雷から理事長が警察を止めたという話を聞いていたのに、そこが盲点になるとはな。

「おかげで動き方が分かった」

「………………え?」

 驚いたようにこっちを見る藍子を無視して、俺は鞄からスマホを取り出す。連絡帳に記載された相手など限られているから、電話するのは当然あいつだ。

「ところで藍子、お前は自分が思っているよりはもうちょっとだけ優秀な人間だぞ。そこは自覚してやらないと、死んだ朱里も浮かばれない」

「ど、どういうことですか?」

「この事件が朝霧家の後継者争いに絡んでいると気づいていたんだろ? なら動機論ホワイダニットの観点から犯人を絞り込むのはそう難しい話じゃない。ちょっと踏ん切りをつければすぐに犯人は分かる」

 スマホを耳に当ててコール。早く出ないかな。

『もっしんぐ。おや、君かあ』

 ようやく電話に出たか。相手はもちろん夜雷だ。

「本題から入るぞ。実際の殺人事件が起きたとき、水仙坂ではどういう処理をするという決定になっている?」

『うーん、それが難しくってねえ。明確には決まってないんだよ。なんだかんだ言って、まさか自分たちの学校で殺人事件が起きるとか本気で思ってないし』

「だろうな。じゃあ聞くが、全校生徒の前で俺が推理を開示できる場を整えることはできるか?」

『やってできなくもない。聞いた話だと、捜査を終えた生徒会警察は全校集会を開いて、そこで朱央ちゃんが犯人だと糾弾するつもりみたいだし』

「その全校集会を待つ気はない。そもそも連中の土俵じゃ、こっちの話を取り合ってもらえるかも怪しいからな」

『だろうねー。つまり生徒会警察とガチンコできる場を整えろって話ね。じゃあ理事会が主導になって裁判でも開くのが一番だと思うけど、それには大きな問題がある』

「分かってる。朝霧は自分の甥っ子可愛さに裁判の開催を了承しない。生徒会警察の捜査を待ってから全校集会を開けばそれで十分と思うだろうからな。昼雨と夕雲も反旗を翻すつもりがない。お前ひとりじゃ理事会は動かない、だろ?」

『そうそう』

「なら、昼雨と夕雲が動きたくなるような状態になればいいんだな?」

『ほーう?』

「俺の推理が正しければ、昼雨と夕雲は動きたくなるはずだ」

 それから、俺は自分の推理を夜雷に話した。

『ふんふん。いいよ。それなら動くかも。動かないかもしれないけど』

「動かすのがお前の仕事だろ。こっちは頼まれたとおり探偵役を買って出ているんだからな」

 まあ現状では確度の高い推測の域を出ないからな。動かないかもしれないという懸念は残る。だがこれだけのものを与えて動かないほど昼雨と夕雲が腰抜けなら、そもそも理事会を動かすという作戦自体を取りやめた方がいい。

「じゃあ俺は今から朱央を回収してくるから、それまでに何とかしろ」

『えー? 別に朱央ちゃんを助ける必要はないんじゃない?』

「あいつが犯人じゃないと確信している以上、不当な扱いに甘んじる理由もないからな」

『そういうことにしておく』

 電話を切る。さて、これで動きは決まったな。

「ま、待ってください!」

 慌てたように藍子が俺を制する。

「なんだ?」

「なんだも何もありません! その、さっきの話……。まさか、今の段階で犯人が分かってたんですか?」

「ああ」

「…………………………っ」

 やれやれと言わんばかりに藍子は頭を抱えた。どうした?

「いや、その……確かに七未人さんなら事件を解決できるだろうと思っていましたけど、それにしても……。いつから分かってたんですか?」

「最初からだ」

「最初から…………」

 ため息をつかれてしまった。

「それ、人間技じゃないですよ」

「人間じゃないからな、実際」

「………………前から思っていたんですが」

 藍子が眼鏡をかけ直す。

「その口癖、やっぱりどうかと思います。朱央さんから聞きましたけど、昔はそんなこと言っていなかったんですよね」

「ああ」

 というか朱央のやつ、藍子にまでそんなこと話していたのか。

「何か、きっかけがあったんですか? 七未人さんがそんなことを言うようになった、きっかけが」

 ちらりと、藍子は目を逸らす。

「美術部の事件のとき」

 そして、じっとこちらに視線を送った。

「わたしは聞きました。布張さんが誰かを殺そうとしていると分かっていたにも関わらず、七未人さんはそれを見過ごしたのかと。『疑似殺人授業』では実際の殺人を行うわけではありませんが、そのときのあなたは『疑似殺人授業』を知らず、布張さんが本当に殺人を行おうとしているように見えたはずなのに、それを見逃したと」

「そうだな」

「ただ『俺は人間じゃない』とうそぶくだけなら大言壮語です。ただの冗談です。でも、あなたは本当に、人間の命なんてどうでもいいと思っている。わたしたちが虫けらを踏みにじるのと同じような感覚で、あなたは人間の命を扱っている。そうなってしまったきっかけが、何かあるんですか?

「一応な」

 話すと長くなるんだがな……。まあいいか。「俺は人間じゃない」と言うたびに藍子に突っかかられても面倒だし。彼女にはその辺を説明しておいた方がいいかもしれない。

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