#8:人でなくなるために

 その日の夜、いつも通り夜半の鍛錬を終えた俺はシャワーで汗を流して、一休みしていた。ビル建設の作業員が使っていた詰め所は元来人が長居することを前提にしていない。そのせいか蚊が出始めるこの季節は、部屋の中に蚊が入り込むことが多い。気密性にやや欠けるところがあるのだろう。

 仕方ないので、俺は蚊取り線香に火をつけた。人間ではない俺でも風流くらいは解するもので、夏は蚊取り線香と相場が決まっている。しかし養護施設にいたころは小さい子どももいて危険だということで、火を使わない電気式のものを使っていた。夏の夜を蚊取り線香の匂いとともに過ごすのは、養護施設を出たら是非やってみたいことのひとつだった。そういう念願がかなったという意味では、夜雷のやつに感謝のひとつくらいはしてもバチは当たらないだろう。

 そんなことを思っていると、スマホが着信を告げた。

「…………ん?」

 最初はメールかLINEかのいずれかと思っていたが、コール音が長い。それで電話だとようやく思い至る。俺のスマホに電話をしてくるやつはまずいないから、電話という発想が埒外だった。

 スマホを手に取る。俺の連絡先を知っているのは夜雷ともうひとりだが、電話を掛けてきたのはもうひとりの方だ。

「なんだ」

『夜分遅くにごめんなさいね』

 スマホ越しの声は、朱里のものだった。

『今、どうしてるかなと思って』

「用がないなら切るぞ」

『つれないのね』

 本当になんで電話してきたんだこいつは。

『用ならあるの。今日のミス研の事件について報告。あのあと、わたしと藍子さんで大空くんを問い詰めてみたの。そしたら彼、案外素直に認めたわ』

「そうか」

 俺の推理は正解だったのか。正直なところ間違っていても気にはしなかったがな。

『実行犯も分かった。あなたが口にしていた、同じ美術部の溝彫くんだったわ』

「興味ないな。用件はそれだけか?」

『もうひとつ』

「………………なんだ?」

『あなたの口癖の件』

 口癖?

『ええ、ほら、俺は人間じゃないってやつ。朱央から聞いたわ。あなた、昔はそんなこと言ってなかったそうじゃない』

 くすくすと、朱里は笑う。耳元で笑われているようで妙にくすぐったい。

「なにかおかしいか」

『少し、ね。あなたみたいな人にも自分を人間だと思っていた時期があると思うと』

「馬鹿にしてるならいよいよ切るぞ」

 そう言いつつ切るタイミングが見当たらない。というか電話っていつ切ればいいんだ? いかんせん電話を取る経験自体少ないからな。

『そうじゃなくて。聞かせてくれない? あなたがいつから自分を人間じゃないと気づいたのか』

「………………聞いてどうする」

『興味があるの。あなたにも、あなたの経験したことにも』

「まるで口説き文句だな」

『そのつもりよ?』

 さいで。

「俺を口説くならまずは自分が人間を辞めることだ、朝霧朱里。俺は人間に惚れないし、人間に恋慕こいしない」

『あら、でも――――』

 思い切って電話を切った。

 …………しかしタイミングが悪かったな。でも、の後は何を言うつもりだったのか、さすがに少し気になるぞ。…………まあいいか。

 それにしても、俺が人間じゃないと気づいたのがいつから、ね………………。

 別に愉快な話でもないからな、誰に喋ることでもない。調べれば分かることではあるのだが、夜雷のような大人ならともかく、高校生風情に調べられることでもないしな。

 だが、そうだな…………。

 窓から外を見る。雲が厚く覆った空は、星明かりひとつだって届かない。今にも雨が降りそうな空模様。

 そういえばこんな空の日だったか。

 俺が、自分を人間ではないと気づいたのは。

「簡単なことなんだ、朝山朱里」

 彼女への答えは、自分にだけ聞こえるように呟く。

「人間にはできない偉業ことを成し遂げたとき、そいつは自分が人間じゃないと気づくんだ」

 例えば。

「そう、それこそ、クラスメイトを全員殺してみせたときとかな」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る