第1章 いぬ・立志篇

1 いぬの女の子


 とりあえず敷布団をクローゼットに仕舞って、カーテンを開けるが、俺はまだ現実を受け止めきれていなかった。


挿絵(https://kakuyomu.jp/users/allnight_ACC/news/16817330650229422615


 突然現れた少女。その正体は、俺がかわいがっている飼い犬なのだという。


 彼女は、行儀よく正座してこちらを見つめている。こういうところも、よくおすわりをして見上げてくる瀬名らしい。


 いぬが人間になるなんて信じられないが、目の前の少女の仕草は俺のペットをとても想起させるものだった。

 確かに、瀬名が人間の姿になったらこんな感じだろう、としっくりくる。


 こうして見てみると、本当に顔立ちが整っている。

 大きくて丸い瞳。小さく結ばれた薄いくちびる。一点のくすみもない白い肌。つやのある黒髪。細い手足に、小さな肩。全ての均整が取れていて、綺麗だ。しかし、そのあどけない表情や、年相応の丸みを帯びた頬からは愛らしさも溢れている。


 元々美人ないぬだったが、人間になるとより一層際立つ。幼さが残っているからかわいらしいが、どちらかと言えば綺麗、美しいと形容すべき少女だった。こんなに整った顔立ちの子は初めて見た。


 あの小さないぬが、こんな女の子に……。


「じゃあ、散歩に行こうか」

「わう」

 瀬名は、もふもふのしっぽをぶんぶん振っている。表情が希薄な子だが、うれしそうだ。


 いぬ耳はベースボールキャップを被らせて隠す。しかし、しっぽはどうすれば……どういう理屈だか分からないが服から飛び出してるもんな……。


「わう?」

 瀬名は自分の頭の上に乗っている帽子をきょとんと見つめている。


「これ邪魔です」

 頭の上に何か乗ってるのに慣れないのだろう。


「でも、外に出るときはいぬ耳やしっぽを隠さないと、周りに変に思われるからなぁ……」

 ないとは思うが、いぬ人間として変に噂になったり、変なマニアに目をつけられたら大変だ。


「だったら、外に出るときは引っ込めます」

「引っ込める?」


 突然、瀬名のたれ耳がきゅぽんと引っ込む。

「おお!?」

 いぬ耳は影も形もない。丸い頭があるだけだ。


 しっぽの方もきゅぽんと引っ込んだ。

「ど、どうなってるんだ……?」

 消えたしっぽの辺りを見つめる。腰のラインは綺麗な曲線を描いており、もふもふのしっぽが隠れているようには見えない。


「わう……あんまり見つめないでください」

「あ、ご、ごめん」

 とはいえ、これで帽子を被ったりせずとも、出かけられる。


 小さな足に俺のクロックスを履かせる。やっぱりぶかぶかだった。

 サンダルくらいならそこらの店でも売ってるだろうし、散歩の途中で買うか。


 瀬名を連れて外に出ようとすると、彼女は立ち止まってじっとこちらを見つめる。

「先輩、首輪はつけないんですか?」

「え!? つけないよ、そりゃ」


「いつも散歩のときはつけてるじゃないですか」

「人間はつけなくてもいいんだよ」


「わう」

 瀬名はわかったようなわからないような顔をしている。




 * *




 季節的にまだノースリーブでは寒いだろうと、俺のパーカーを羽織らせて――ぶかぶかだったが――普段の散歩コースを一緒に歩く。

 今日は晴れていて、絶好の散歩日和だった。


 突然走りだしたり、立ち止まったり。瀬名の様子はいつもの散歩と変わらない。

 はぐれると困るので、リード代わりに手をつなぐ。すると、大人しくなった。


 道中店に寄って、サンダルを買う。脱げにくいように、ストラップつきでぺたんこの白いものにした。小柄な瀬名は足も小さかった。


「お散歩楽しかったです」

 家に着くなり、いぬ耳としっぽがきゅぽんと出て来る。引っ込めているよりはそのままの方がしっくりくるらしい。


 散歩の後はごはんだ。

 まさかドッグフードを食べさせるわけにもいかないので、朝食をふたり分作る。

 スクランブルエッグとソーセージ。マーマレードを塗ったトースト。


「人間のごはんです」

 彼女はぱちくりと皿を見ている。


 スプーンやフォークの方がよかっただろうかと思ったが、瀬名は器用に箸を使っている。人間としての歩き方が自然にわかるのと同じように、他の動作もわかるのだろう。


 無表情でもぐもぐトーストを頬張っている。

「おいしいか?」

「甘くておいしいです」


 いぬの口に合うかと思ったが、味覚も人間になっているらしい。

 あっという間に全てたいらげていた。


 さて、これからどうやって暮らしていこう。

 散歩や食事はなんとかなったが、人の生活はそれだけでは済まない。


 用意するものがたくさんある。ちゃんとした靴もそうだし、瀬名専用の食器も、服も、身の回りの色んなものも。


 そうやって思索を巡らせていると、瀬名は俺のひざの上に乗ってくる。


「せ、瀬名!?」

「わう?」

 あどけない表情で、きょとんとこちらを見つめている。


「先輩のひざに乗りたいです」

 確かに、いぬの姿だった頃よく乗ってきた。


 しかし人間の女の子となると、事情が変わってくる。もふもふの生きものとは重みが随分違うし、何より顔が近い。

 大きくて澄んだ瞳が、間近に迫る。


 見た目は人間なのに、仕草がいぬだというのは不思議極まりなかった。

 とはいえ、俺があまりよそよそしい態度を取るのも、瀬名に悪い。


 恐る恐る、彼女の頭を撫でてみる。

「わう」

 大人しく撫でられている。表情は変わらないが、ふわふわなしっぽをぶんぶん振っている辺り、喜んでいるらしい。


「わうー」

 すりすり頭をこすりつけて来る。いぬだ。


 人間の姿になったからといって、スキンシップをやめたりしたら不憫だ。

 俺は、しばらく瀬名をなでなでした。


 黒い髪は艷やかで指通りがよく、マルチーズのやわらかでふわふわとした毛とは感触が違った。これはこれで、嫌いな感触ではなかった。


 撫でられるとうれしそうにしっぽをぶんぶん振るところは、いぬの姿だった頃と同じだ。こんなに喜ばれると、もっともっと撫でたくなる。

 さすがに、いぬにやるようにわしゃわしゃ撫でることはできないが。




 * *




 瀬名と一緒に暮らすための物を揃えたり、色々準備している内に、夜になった。

 これで、どうにか夜は越せそうだと思っていると……。


「先輩、お風呂に入れてください」

「え!?」

「人間は毎日お風呂に入るものでしょう?」

 いぬ耳の女の子は、屈託のない瞳をこちらに向けている。


「そ、それは……ちょっと」

「どうしてですか? 今まではいつもお風呂に入れて、身体を洗ってくれたじゃないですか」

 確かに、これまでは俺が瀬名を洗っていた。だが、今はもう事情が変わった。


「だって、瀬名は女の子じゃないか」

 そう言うと、彼女はむっとする。

「それは、これまでだって同じです」


 そうか、いぬの姿の頃でも、瀬名が女の子だったことには変わりない。

「ご、ごめん……」


 瀬名は、いきなりワンピースを脱ぎ始める。

「本当は、こんな服もいらないくらいです」

「う、うわあああああっ」

 俺は慌てて自分の目を両手で覆う。


「ま、待てって! 待ってくれ!」

「わう?」

 突然焦り始めた人間を見て、瀬名は不思議そうな声を出す。


「と、とにかくっ、服は着てくれ!」

「わう……わかりました」

 幸い瀬名は素直で、いそいそと服を着直す。


 び、びっくりした……まさかいきなり脱ぎ出すなんて。いぬの行動を予測しようなんて、土台無理な話らしい。


「せ、瀬名、人間は人前では服を脱がないものなんだ。間違っても外で脱いだりするなよ?」

「わう。わかってます。瀬名は先輩のいぬですから、先輩以外の前では脱がないです」

「お、俺の前でも脱ぐなよ……」

 本当にわかっているかどうか心配なところだった。


 というか、一瞬ちらっと見えた感じ、下着を着けていないようだったんだが……。

 そもそもワンピースを着ていること自体奇跡なのかもしれない。


「じゃ、じゃあ、頭は俺が洗うから、ほかは自分で洗ってくれるか? 人間は、自分の身体は自分で洗うものなんだ」

「わう」

 瀬名はうなずく。少し不満げだが、納得してくれたらしい。


 にしても、どうやって身体の洗い方を教えればいいんだ……?




 * *




 なんとかお風呂が終わった。瀬名は飲み込みがいいので、少し入浴の方法を教えただけで、会得してくれた。


 瀬名は見ていてとても危なっかしい。人間の姿でいぬの行動をすることが、どんな意味を持っているのかわかっていないのだ。


 もちろん、人間の姿になったのだから完全に人間になれとは言わない。瀬名はいぬなのだから。

 でも、ある程度は人間の常識を教えないとな……。


「わう……」

 お風呂に入って温まったのか、眠たげにしている瀬名。


「じゃあそろそろ寝ようか」

「わう」


 布団を敷いて入ると、彼女は当然のように俺の布団の中に潜り込んでくる。

「お、おい、待ってくれ! ちゃんと瀬名の分の布団も用意しただろ?」


「人間になったんだし、もう一緒に寝ていいです」

 そう言って、当たり前のようにくっついてくる。


 小さいいぬは、押しつぶしたりしたら大変なので一緒に寝られないが、人間になったからといって一緒に寝ていいわけではない。


「あ、あのな、人間は簡単に異性と一緒に寝ちゃダメなんだよ」

「どうしてですか?」


「そういうのは本当に大事な人にとっておくものなんだ」

「先輩は本当に大事な人です」

「…………」

 こんなに屈託なく好意を向けて来る女の子に、俺は一体どうすればいいんだ?


「先輩にくっついて寝たいです」

 瀬名は一切躊躇なく、またすりすりくっついてくる。


 ま、まずい……さすがにこんなふうにされると理性が……。女の子のいい匂いがするし、なんかあたってるし……。


「瀬名、さすがにこんなにくっつくのは……っ」

「先輩、真っ赤になってどうしたんですか?」

 わうわうな女の子は、こちらの顔を覗き込んでくる。


「もしかして生殖行為を想像してるんですか?」

「げほっげほっげほっ」


「生殖行為がしたいのなら、別にしてもいいです。瀬名はもう人間なんですし、先輩は瀬名の飼い主なんですから」

「い、いや、そんなこと言われても……」


 確かに瀬名はめちゃくちゃかわいいし、有体に言うならメリハリのあるスタイルだし、くっつかれるとどきどきする。

 とはいえ、昨日までかわいいペットだった存在をそんな目で見るのは抵抗があった。

 それに、もっと自分を大事にしてほしかった。


「せ、瀬名はまだ知らないと思うけど、人間は順序とか段階とかプロセスを重視するんだ。そういうことは、そういうのがわかってからするものなんだよ」

「わう。人間ってなんだか面倒です」


 瀬名は少しむくれるが、気を取り直したように枕に頭を乗せる。結局俺から離れる気はないらしい。


「すー……すー……」

 もう寝ている。早い。


 ね、眠れない……。


 ぶっちゃけまだそんなに眠気もないし、何より女の子にくっつかれた状態でリラックスなんてできそうになかった。


 子どもだからか、その高めの体温が伝わってくる。

「わうー……」


 あんまり意識するのも瀬名に悪い気がする。彼女は純粋になついてくれてるのに。


 気持ちよさそうにすやすや眠っている表情は、いぬの頃とそっくりだった。

 そう、姿は変わっても、瀬名は瀬名だ。

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