15 いぬ・いん・さまー・びーち
テレビでは、県内で海開きしたというニュースが流れていた。
晴れ渡る空の下、多くの人々が海に飛び込んでいる。
「わう」
もふもふしっぽの女の子は、番組に見入っている。
もしかして、瀬名は海に行ったことがないのではないだろうか。
少なくとも、俺の家に来てから連れて行ったことはない。
電車で一時間くらいの距離だし、行ってみるのも楽しいかもしれない。
「瀬名、今度海に行ってみるか?」
「わうー! 行ってみたいです!」
「じゃあ、行こう」
彼女は、うれしそうにしっぽを振っている。
「海、楽しみです!」
* *
海に行くには、色々と準備が必要だ。
ということで、百貨店に来ている。必要なものは、大体ここで揃うだろう。
案の定、店に入ってすぐのところに、海水浴アイテムがまとめられた売り場が設けられていた。ハンガーラックにずらりと女性用の水着が並んでいる。
「てれびで、みんなこういう三角の着てました」
横の少女が、ビキニを手に取っている。
「せ、瀬名にはまだそういうのは早いよ」
「わう、そうですか」
いつも思うが、ビキニと下着の違いがわからない。これぞ、文化的に形成された価値観の歪みを見ているような気分になる。
「この水着、お菓子みたいです」
今度彼女が手に取っていたのは、かわいいワンピース型の水着だった。チョコミントをモチーフとしたデザインらしい。
これが一番似合うだろう。フリルがたっぷりで、身体のラインが出にくいし。
「じゃあ、これにしようか」
水着を買い物かごに入れ、次は浮き輪だ。
「これも、お菓子みたいでかわいいです」
「だったら買おうか」
「わう」
こんな感じで、必要なものをどんどん揃えていった。
* *
今日は、いよいよ海に行く当日。
瀬名は自分の小さな鞄に、色んなものをぎゅうぎゅう詰めている。
前もって、持ち物として伝えていたもののほかに、お気に入りのお菓子やおもちゃも入れているらしい。荷物が重くなりそうだが……まぁいいか。
チョコ菓子だけは、絶対溶けるからやめさせておいたが。
出かける前に、家で水着に着替えた。上に服を来て、海水浴場に着いたら脱ぐのだ。
「日焼けしないように、ちゃんと日焼け止めを塗っておかないとな」
前もって用意していた、SPF50+でPA++++かつスーパーウォータープルーフタイプの日焼け止めを取り出す。
瀬名はこれだけ色白なのだから、きっと紫外線に弱いだろう。日焼けして痛くなりでもしたら大変だ。
「背中には、俺が塗るよ」
「わう、くすぐったいです」
瀬名はおとなしくじっとしていた。
露出した肩や、わずかに覗いている背中に、日焼け止めを塗り広げていく。
本当に白くてなめらかな肌だ。
首元や腕にも、まんべんなく塗る。
これでひとまずは大丈夫だろう。
「瀬名も、先輩の背中に塗ります」
「あはは、ありがとう」
海ではずっとラッシュガードパーカーを着るつもりだが、厚意はありがたく受け取っておこう。
* *
皆原市内の海水浴場は、快晴の下に広がっていた。
青々とした海は透き通っており、波は遠浅で穏やか。じりじりに焦げ付くような白い砂浜。
見晴らしも水質もよく、県内でも人気のビーチだ。
平日で夏休み前という時期を選んだため、それほど混雑は著しくない。
「これが海……」
大海原を前にして、瀬名は目をきらきら輝かせている。
この表情が見られただけで、連れてきた甲斐があるというものだ。
「どこまでも続いてます」
彼女は今にも波打ち際に駆けて行きそうだったが、少し待ってもらう。
「瀬名、海に入る前に準備体操をするぞ。運動をする前は、準備体操で筋肉とかをほぐしておくと、怪我を防ぎやすくなるんだ」
「わう」
「いっちに、いっちに」
俺は、伸脚やストレッチをして、全身をあたためていく。
「わうっちに、わうっちに」
瀬名も俺の真似して準備運動をする。
「先輩、もう海に入ってもいいですか?」
「ああ」
すぐにぱたぱたと海に走っていく。はぐれないよう、俺も慌てて後を追った。
「わうっ」
水飛沫を上げて、小柄な女の子は飛び込む。
泳ぎ方は当然のように犬かきだった。ちゃぷちゃぷ水とたわむれている。
「海、おもしろいです」
「瀬名、浮き輪に乗って浮かんでも面白いぞ」
さっき膨らませた浮き輪を差し出す。
瀬名は浮き輪に乗ってぷかぷか浮かぶ。
「わうー、おひさまが近いです」
挿絵(https://kakuyomu.jp/users/allnight_ACC/news/16817330650814684292)
浮き輪がひっくり返って溺れないように、俺はそばについている。
「瀬名、このまま海の向こうに行っちゃいます」
「あはは、そうかもしれないな」
* *
瀬名はひとしきり水と遊んで飽きたのか、今度は砂浜をふらふら歩き始める。当然、俺も後を追った。
サンダル越しにも、砂の熱く焼けた感触が伝わってきた。
身体から滴り落ちた水が、白い地面を濡らしていく。
足元を、小さなカニが歩いている。
「わう。カニさんです」
瀬名はしゃがみ込むと、じーっとハサミを持った生きものを見つめている。
「……おいしそうです」
食欲に取り憑かれているらしい。
「昼だし、海の家で何か食べようか?」
「わーい!」
浜辺に急拵えで組まれた積み木のような、海の家。
注文して出てきたのは、キャベツと豚バラ肉、もやしが入った、シンプルな焼きそば。
ソースの濃い味付けは、汗をかいた身体にはやけにおいしく感じられた。添えられた紅生姜と刻み海苔の風味もいい。
「おいしいです」
瀬名も、もぐもぐ食べている。相変わらず、みるみる内になくなっていく。
「瀬名、あれも食べたいです」
「ああ、かき氷か? いいよ、折角だもんな」
「ありがとうございます」
ここのかき氷は、随分凝っている。細かく削った氷にシロップをかけただけではない。
フルーツの果肉が入ったソース、練乳、果物、アイス、その他メニューによって様々なものがトッピングされている。
いちご、メロン、レモン、マンゴー、宇治金時、レインボー、黒蜜きな粉などなど、ラインナップも豊富だ。
俺が子どもだった頃より、かき氷も随分進化しているんだな、と思った。
「瀬名、このれいんぼーっていうの、食べてみたいです」
「じゃあそれを頼もうか」
日焼け止めを塗り直している内に、かき氷が出来上がる。
出てきたかき氷は、レインボーの名に違わぬ虹色だった。ビジュアルのインパクトがすごい。
「わうー、色んな味がします」
瀬名はおいしそうに食べている。
俺が頼んだのは、宇治金時だった。
抹茶ソースにあずき、練乳はもちろん、白玉や抹茶アイスまでついている。まさしく宇治金時という名に相違なしだ。
一口食べる。
氷がきめ細やかで、ふわふわだ。ソースは抹茶の風味が豊かで、にぎやかなトッピングもあって、随分上等なスイーツである。
「かき氷」と呼ぶより、「フラッペ」と呼んだ方がしっくりくる。
「わう」
瀬名は目ざとく俺のかき氷を見つめている。その表情には、どこか獣の獰猛さが覗いていた。
「……一口食べるか?」
「わうー! ありがとうございます」
まぁ、元々彼女に分けるつもりで頼んだのだが……。
「ひんやりです」
これまたおいしそうに、瀬名は宇治金時を食べる。
「かき氷、すごいです」
* *
太陽が西の空に傾いて、青い海は橙色に照らされる。
海で泳ぐのはもちろん、砂に絵を描いたり、砂の城を作ったり、貝殻やシーグラスを拾ったり、シュノーケルで海の世界を覗いたりと、海での遊びを満喫した。
名残惜しいが、そろそろ帰る時間だ。
海の家のシャワールームに向かう。
瀬名は頭を洗うのが得意じゃないし、手伝おう。
一緒にシャワーブースに入る。
「お湯、熱くないか?」
「ぴったりです」
さすがに、シャワーブースに二人で入ると狭い。いくらか密着する感じになる。
「瀬名、目を閉じてるんだぞ」
「わう」
折角の綺麗な髪がパサパサにならないように、しっかり海水を洗い流す。
瀬名はおとなしくいい子にしていた。
「身体の方は、瀬名が洗ってくれ。着替えたら、海の家の前で待ち合わせしよう」
「わう」
そう言い残して、俺はシャワーブースを出た。
* *
沈みかかった陽光が、電車内に長い陰を作っている。
郊外から、少しずつ街の中心部に近づいていく交通機関は、まだ人の姿もまばらだった。
帰宅ラッシュまで間もないから、この閑散ぶりは長くは続かないだろうが。
「すー、すー」
サマーワンピースに着替えた瀬名は、遊び疲れたのか、こちらの肩に寄りかかって眠っている。
俺も、さすがに疲労感でいっぱいだった。
大学に入ってから、身体を動かすことはめっきりなくなったし、明日は筋肉痛だろう。
最寄り駅が近づいたら彼女を起こそう。
* *
すっかり混雑した電車は、そろそろ最寄り駅に着く。
わうわうな女の子はまだ眠りこけていた。
もっと寝かせておいてあげたいが、家に帰ってふかふかの布団で眠った方がいいだろう。
その小さな肩を揺らす。
「瀬名、そろそろ家だぞ」
「……わう?」
大きくて丸い瞳は、半分くらい閉じられたままだった。それでも、なんとか立ち上がって、歩き出す。
「わうー……」
まだ半分夢の中らしい。今にも眠ってしまいそうだ。
俺が手を引いているから、辛うじてついてきているが。
「瀬名、家までおぶってあげるから」
最寄り駅を出たところで、そう言う。
リュックを身体の前面に移動させ、わうわうな女の子を背負った。
いくら小柄とはいえ、人間はそれなりに重みがある。
そのじっとりとした体温も、じかに感じる。
あんなに小さなマルチーズだった女の子が、ずいぶん大きくなったものだ。
「瀬名……また、海に行きたいです……」
「ああ、また行こう」
「わう……」
背中越しに、俺の耳に彼女の息がかかる。
「来年も、再来年も……ずっとずっと、先輩と……」
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