8〈mof〉 いぬの一日・上
タイトルに〈mof〉がついてる話は、瀬名視点となります。
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扉絵(https://kakuyomu.jp/users/allnight_ACC/news/16817330650499490718)
これは、今より昔、瀬名がまだいぬの姿だった頃の話です。
* *
たれた小さな耳。ふわふわのしっぽ。
マルチーズの瀬名は、頭からしっぽの先まで全部真っ白ないぬです。
今日も、もふもふな身体で大好きな先輩にくっつこうと寄っていきます。
しかし、いつも優しく受け入れてくれるはずの先輩は、なんだか様子が違いました。
近づいてきた小さないぬを、冷たくはねのけます。
「おまえは悪いもふもふだ!」
「きゅん!?」
「いけないもふもふめ……あっちにいくんだ!」
「きゅーん!」
こんなことを言われる覚えはありません。
悲しくて、瀬名はおよおよと泣きます。
「甘ったれたもふもふめ! 泣けば済むと思ってるのか!」
「きゃいーん!」
「鳴くな! これだから悪いもふもふはダメなんだ」
「くーん、きゅーん……」
見捨てないで、と悲しく鳴きますが、先輩は遠ざかっていきます。
小さないぬのすすり泣く声だけが、辺りに響きました。
* *
「くーん?」
瀬名はぱちんと目を開きます。
横で、先輩がのんきにぐーぐー寝ています。
どうやら夢を見ていたようでした。
それもそのはず。いつもやさしくもふもふしてくれる先輩が、悪いもふもふだなんて言うわけないのです。
すっかり元気を取り戻した瀬名は、いつも通りぽよんと先輩の胸の上に乗っかります。
「うぐ……」
先輩は少し苦しそうな顔をしました。しかし、いぬにはそんなこと関係ありません。そのまま、先輩の顔を前足でちょんちょんし始めます。
「わうん! わうん!」
「う……瀬名……」
手荒なモーニングコールに、たまらず先輩は目を覚ましました。
「朝から元気いっぱいだな……」
「わん!」
先輩を早く起こすとその分構ってくれる時間が増えることに気付いた瀬名は、すっかり朝早くに飼い主を叩き起こす習慣になってしまいました。いけないいぬです。
先輩は大きなあくびをしながら、えさ入れにドッグフードを入れます。
いぬ用ミルクも、注いでくれます。
腹ぺこになっていた瀬名は、がっついてごはんを食べ始めました。
「瀬名、口の周りがミルクでべとべとだぞ」
先輩はそう言って、ティッシュで口元を拭いてくれます。
「きゅー」
いっぱい気にかけてもらえてうれしいです。
* *
先輩がお出かけする時間がやってきます。
「いい子でお留守番してるんだぞ」
「わうん!」
瀬名の元気な返事を聞いて、先輩は笑顔を見せてから、扉の向こうに消えていきました。
「わう……」
先輩がいなくなってしまうと、部屋の中ががらんとしてさみしくなります。ひょっとしたら先輩が戻ってきたりしないかと玄関ドアを見上げてみますが、うんともすんとも言いません。仕方がないので、とぼとぼ部屋の中に帰っていきます。
部屋には、いぬ用のおもちゃが色々あります。だけど、先輩がいないとどれも楽しくありません。
開いたクローゼットの隙間から、先輩のまくらの端をくわえて引っ張り出して、窓の
先輩のまくらの上で丸くなります。先輩の匂いがして、とても落ち着きます。
先輩の匂いは、おひさまに匂いがあったらこんな匂いなんだろうなという匂いです。それはふかふかのお布団の匂いとはまた違います。
窓からも、おひさまが差し込んでいました。
ひなたぼっこは、先輩になでなでされているときみたいにぽかぽかするので、好きです。
ぽかぽかのおひさまに当たっていると、だんだんねむくなってきます。
「きゅーん……」
瀬名は、あっという間にうとうとし始めてしまいました。
* *
かつて瀬名がいたのは、大きな白い家でした。
壁も床も、天井も真っ白。置かれている家具も全部真っ白。もちろん飼い犬――瀬名も真っ白でした。
毎日食べるドッグフードは、高級で、一番いいものでした。毎日飲む水も、高級で、超軟水の一番いいミネラルウォーター。
瀬名はえらいドッグトレーナーにしつけられ、お手もおすわりも、その他の芸も全部覚えました。
最初の内はいぬの大会に出場させられ、ディスクをキャッチしたり、芸をしたりして、賞を取りました。賞を取るとたくさん褒められるので、瀬名も頑張ったのです。
だけど、一年も経つとだんだん飼い主が飽きてきたのか、放っておかれることが増えてきました。マルチーズはそこまで運動しなくても構わないのをいいことに、散歩に連れていかれることも減ってきました。
「くーん……」
ひとり寂しく鳴いても、誰も構ってくれません。お手伝いさんが用意してくれる一番いいドッグフードも、一番いいミネラルウォーターも、むなしいだけです。本当は、もっと違うものがほしいのです。
白い家の中をとぼとぼ歩いても、何も楽しくありません。家は広いけど、たくさんある階段は瀬名の小さな身体では登れないし、行けるところなんて限られています。
その日も、瀬名は散歩代わりに家の中をうろうろしていました。
すると、飼い主たちの姿が見えます。
瀬名が思いきり甘えたら、また最初の頃のようにかわいがってくれるでしょうか? なでなでして、構ってくれるでしょうか?
勢いよく駆け寄ろうとしますが、聞こえてきた言葉は小さないぬの足を止めました。
「あのいぬは――もう――」
その、声色。
話す内容。
瀬名にも、なんとなく不穏さが伝わってきました。
「――保健所に連れて行って――処分――――」
「!」
処分?
瀬名が?
瀬名も、知り合いのいぬから保健所がどんなところであるかは聞いていました。
そこに行ったいぬが、どうなるのかも。
「きゅーん!」
まだ二年くらいしか生きていないのに、捨てられるのはいやです。こんなさびしくて悲しい気持ちのまま、死にたくはありません。生を受けたからには、もっと飼い主に遊んでほしいし、構ってほしいのです。
意を決した瀬名は、開いた窓の隙間から庭に出ると、全力で駆け出しました。行く宛なんてありません。でも、こうするしかなかったのです。
走って走って走った瀬名は、いつしか見たこともない小さな公園にたどり着きました。もう元の家に帰る道はわかりません。
「きゅーん……」
道を歩いていると、明かりの灯った民家や建物が無数にあります。しかし、そのどこにも瀬名の居場所はありません。瀬名が帰る場所はありません。
瀬名はただのイエイヌです。野良で生きていくことなんてできるのでしょうか? いくら芸ができたって、ごはんを見つける術もわからないのです。それに、野良犬になったって下手に人目に触れれば保健所に連れていかれるでしょう。こそこそ生きていくしかなくなってしまったのです。
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