9〈mof〉 いぬの一日・下


「わう……わう……っ」

 尖った牙で、ビニール袋を裂きます。中には、まだまだ食べられるものがたくさん入っていました。


 野良でも、おなかはすきます。瀬名は躊躇いなく、かぶりつきます。

 捨てられたゴミの残飯を漁る日々。白い毛は、すっかりべとべと汚れてしまいました。


 気の休まる寝床はなく、まだ寒さが残る街の中を放浪します。


「うわっ、小汚いいぬだ! 残飯なんて漁ってるよ! 保健所に連絡しないと」

 突然、後ろから人間の声がしました。見つかってしまったのです。


「わうーんっ」

 瀬名は慌てて逃げ出します。この公園はもう住処として使えないでしょう。野良犬が住み着いていると知られれば、明日にでも保健所の人がやってきます。


 草の茂みを、木々の隙間を駆け抜けて、どうにか追っ手から離れようとします。


 ここまで逃げれば追いかけられないだろう、とほっと一息ついたのも束の間。

 曇った空が、一瞬きらっと光りました。


「わう?」

 少しして、耳をつんざく轟音。地の底まで響くような恐ろしい音。


「わう!?」

 瀬名は総毛立ちます。雷です。


 元々大きい音が苦手なのに、この寄る辺ない状態ではどこにも逃げられません。

 また、空が光りました。そして、先程よりも大きな爆音。近いです。


「わう!? きゃうん!?」

 すっかり恐慌をきたした瀬名は、四方八方を駆け回ります。


 雨まで降ってきましたが、そんなことは意識の外です。吠えて、走って、狼狽します。


 雷は収まって、瀬名は雨を避けるために木陰に隠れます。

 身体中すっかりびしょ濡れになってしまいました。夜の風が冷たいです。


「きゅーん……」

 寒いです。

 やわらかいタオルであたたかく包んでくれる人はいません。


 さっき人間に言われた「小汚いいぬ」という言葉を、思い出します。

 ずぶ濡れになって、泥で汚れて、もっと「小汚いいぬ」になったことでしょう。


 なんだかとってもみじめです。瀬名は何のために生きているのでしょうか?

 誰にも必要とされず、誰にも顧みられず、こんな日陰で生き延びて。


 いっそガス室送りになった方がマシだったのかもしれません。その方がすぐ苦しみが終わるからです。




 * *




 身を潜められそうな場所を移り住んで行く毎日。人の気配を感じてびくびくするしかない毎日。

 暗くなると、人間は減るし見つかりにくくなるので、いくらか安心します。


「ん? 猫か?」

 人の声が聞こえました。


 人畜無害そうな、人間の若い男です。

 瞳は、晴れたときの空の色をしています。


 そして、髪の色は。

 焦がしたキャラメルの色で。


「迷子になったのか?」

 人に見つかっては大変です。保健所に連れて行かれます。


「わうんっ」

 瀬名はまた逃げ出しました。




 * *




「わう……」

 歩いたり、動き回る元気はもうありませんでした。一日のほとんどをうずくまって過ごすばかり。


 ですが、今日はただ元気がないのとはどこか違いました。


 身体がヘンです。なんだかうまく動かせなくて、吐きそうで、ふらふらします。何か悪いものを食べてしまったのでしょうか。


 水場に向かおうと足を動かそうとしても、うまく力が入りません。


「くーん……」

 とうとう歩けなくなって、ぐったりへたり込んでしまいます。

 瀬名はここで死んでしまうのでしょうか?


 今まで、頑張って生きてきました。

 あの白い家から抜け出して、人目を忍んで、残飯を漁って。


 これも全部、誰かにもう一度撫でてほしかったからです。撫でて、抱きしめてほしかったのです。


 だけど、それはもう叶いません。

 誰もこんな小汚いいぬを愛してはくれません。

 こんな死にかけのいぬを助けてはくれません。

 瀬名はこのまま街のゴミのひとつとなって、カラスにでもついばまれて朽ちていくのです。


「きゅー……」

 視界がかすんでいきます。


 瀬名は、何のために生まれてきたのでしょう?

 一体、何のために――


「お、おい!? 大丈夫か!?」


 人の声がします。

 かすんだ視界に映ったのは、あの空色の瞳の――




 * *




 目が覚めると、外はもう日が暮れようとしていました。

 夕方は、先輩が帰ってくる時間です。


「わうん!」

 途端瀬名は元気が出てきます。玄関に駆けて行っておすわりをして、先輩の帰りを待ちます。


 しばらくそうしていると、扉の方からごそごそと音が聞こえてきます。パブロフ的に、瀬名のしっぽがぴんと反応しました。


 ドアが開き、大好きな人の姿が現れます。

 お天気なときの空と同じ色をした、瞳。


「瀬名、ただいま」

 彼がつけてくれた名前を呼んで、先輩は白いマルチーズを抱き上げます。

「わいーん!」


 飼い主の大きな手が、瀬名の小さな身体を撫でます。

 ひなたぼっこよりずっとぽかぽかします。先輩はきっとおひさまなのだと瀬名は思いました。


「散歩に行こうか」

 首輪が着けられます。

 自然、瀬名の小さな胸も高鳴ります。


 それは、飼われている証。

 必要とされている証。


 瀬名と先輩をつなぐ、絆なのです。




 * *




 散歩をしてから家に帰ると、洗面器に入れられます。

 今日はお風呂の日でした。


 瀬名は別に水が嫌いないぬではありません。それに、先輩に洗われるのなら安心です。先輩の大きな手で身体中なでなでしてもらえます。


 いぬ用のシャンプーで、泡だらけにされます。白いもふもふはあっという間に白いあわあわに包まれました。


「わうん!」

 なんだかいい気分です。


 ぬるいお湯で泡を洗い流され、すぐにふかふかのタオルに包まれます。

「わうんっ」

 ぶるぶると水滴を飛ばします。


 瀬名のもふもふは、こうして保たれているのです。




 * *




 お風呂が終わると、瀬名のえさ皿にドッグフードが入れられます。

 待望のごはんタイムです。


 おなかがぺこぺこになっていた瀬名は、早速えさ皿に顔を突っ込みます。


「よしよし、いっぱい食べて大きくなるんだぞ」

 それは、よく聞く言葉でした。


「わうん!」

 瀬名も、大きくなりたいです。チベタン・マスティフよりもっと大きないぬになって、背中に先輩を乗せて走りたいです。きっと、素敵です。


 とはいえそんなに大きくなると、先輩に抱っこしてもらえなくなるでしょう。悩ましいです。小さいと、小さいなりのいいことがあるのです。


 ごはんが終わると、瀬名は先輩にすりすりします。先輩にもっといっぱい構ってほしいです。


「瀬名はもふもふでかわいいなぁ」

 そう言って、飼い犬を抱っこします。


 先輩にかわいがってもらえるのなら、明日も明後日も、もふもふでいようと思う瀬名でした。


 構ってもらうたびに、抱っこされるたびに、なでなでされるたびに、瀬名の毛並みにつやが増していきます。もふもふにはなでなでが必要なのです。


「瀬名は世界で一番かわいくてお利口さんないぬだよ」


 なんだか言いすぎな気もしましたが、悪い気はしません。この広い世界の中で、自分の飼い主くらいは自分のことを一番だと思っていてほしいのです。それだけで、この上なく幸福なのでした。


「わうん!」

 先輩は世界で一番素敵な飼い主だと、瀬名も答えます。

 あの公園で見つけてくれて、助けてくれて、こうしていつもかわいがってくれて。


 伝わっているかどうかはわからないけど。

 先輩は特別で、かけがえのない大事な存在です。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る