10 あんぬい・いぬ
曇った空から、しとしとと雨が降り続けていた。
「わうー……」
もふもふのたれた耳を持つ女の子は、さっきからずっと窓の外を見ている。
「瀬名、雨の日はあんぬいです」
あんぬい? ああ、アンニュイか……。
瀬名は洋犬なのに、なんで横文字が苦手なのだろう。
いや、アウストラロピテクスがアフリカにいたからって、人間がみんなアフリカの言葉を話せるわけではないが。
単純に子どもだからかと思ったが、時折かなりの語彙を見せるし。
「雨の日はお散歩に行けないですから」
確かにいぬだった頃は、瀬名が風邪を引いたら大変だから、散歩に行かなかったのだ。
もふもふの毛並みも少ししょんぼりしているように見える。単に湿気のせいかもしれないが。
「人間になったから、雨の日も散歩に行けるよ」
俺は、前から用意していたレインコートと長靴を出す。
「わう……!」
瀬名は目を輝かせた。
* *
「わうー」
水たまりでびちゃびちゃ水しぶきを立てながら、瀬名はるんるんで歩く。
「雨の日のお散歩、楽しいです」
あんまりはしゃいで、転ばないといいが。俺は、つないだ手に少し力を込める。
水色のレインコートはぶかぶかで、瀬名の小さな頭がすっぽり収まっている。
長靴は黄色く、彼女の足のサイズに合わせたのに、大きく見える。
「ばしゃばしゃ楽しいです」
瀬名は突然駆け出した。俺の手を引いて。
「う、うわ、瀬名、走るなって!」
こっちは傘だし、ふつうのスニーカーなんだから。
「わう」
瀬名はぴたっと大人しくなる。ちょっと困惑するくらいの聞き分けの良さだ。
「先輩、これからは雨の日も毎日お散歩してくれますか?」
「ああ」
よほど悪天候のときは別だが。台風の日に散歩に行ったら、この小さな生きものは飛ばされていきそうだ。
「わうー、うれしいです。瀬名、雨の日が好きになりました」
* *
家に帰っても、まだ雨はやまなかった。
「わう……瀬名はお昼寝の時間なのでおやすみします」
瀬名はそう言って、ブランケットにくるまる。いぬの巻き寿司だ、と思った。
このブランケットは、瀬名が俺の家にやってきた頃――もちろんいぬだった頃だ――寝床用に買ったものだ。
いぬの足跡マークがぺたぺたついた柄になっている。人間になった今でも、落ち着くのか洗って使っている。
瀬名の頭は、俺の枕に乗っていた。
彼女は、昼寝するとき俺の枕を使っているらしい。前に、何も知らないときに枕を見たら、白い毛がいっぱいついていて肝を冷やしたものだが。
「そんなにその枕が気に入ったのなら、俺と瀬名の枕を交換しようか?」
「わう! この枕は先輩の匂いがするからいいんです。交換したら意味ないです」
「そうか……」
瀬名は、俺の匂いのするものが好きらしい。落ち着くというのだ。
まぁ、いぬだからな。
わうわうな女の子の昼寝を邪魔しても悪いので、俺は読みさしの本を開く。
図書館本特有の匂いが広がって、一気に文学的な世界に頭が持っていかれる。
雨粒が窓や地面を叩く音が、騒々しくも静かに響く。
それに混じって、かすかに少女の寝息が聞こえる。
そして、ぺらり、と紙がこすれ、ページがめくられる音。
俺も雨の日は嫌いじゃないな、と思った。
* *
昼寝を終えた瀬名は、また元気いっぱいになって俺にくっついてくる。
テレビでは動物番組が流れる時間になっていた。
「我が家のあほの子がかわいい」というコーナー。
視聴者から寄せられた、ペットのあほな様子を収めた映像を見て、和むという内容になっている。
今回は、いぬが予防接種に連れて行かれて、まだ注射を打たれていないのに、さももう打たれたかのように暴れている映像が流された。
「あはは、かわいいなぁ」
そう言うと、俺のひざの上に座り、俺を背もたれ代わりにしていた瀬名は「む……」と険しい顔をする。
「先輩はあほいぬの方が好きですか?」
「んー、かしこいいぬも好きだけど、ちょっと抜けてるところがあってもかわいいと思うよ。瀬名だってたまにそうだし」
「わう! 瀬名、あほいぬじゃないです!」
瀬名はしっぽをぶんぶん振って抗議する。
「瀬名はとってもお利口ないぬです!」
「あはは、そうだな」
頭を撫でると、うれしそうにする。
「注射も怖がらないしな」
「わう! 注射、怖くないです!」
「お利口さんだなぁ」
「わふふー」
まぁ、前に予防接種に連れて行ったとき、いくらかぷるぷる震えていたような気がするが。終わった後得意げにしていたので、本人的にはお利口に乗り切ったのだろう。
「じゃあ、今度また予防接種に行こうか」
「わ、わう……」
目の前の女の子は、眉が急に八の字になる。
「あはは、冗談だよ」
「わう! 先輩意地悪です!」
そもそも、人間の姿になったのなら、もういぬの予防接種は必要ないだろう。
そういえば、瀬名はいぬの耳と人間の耳両方あるが、普段音はどっちで聞いているのだろう。両方とも聞こえていたら、なんだか変な感じになりそうだ。
「瀬名って、音はどっちの耳で聞いてるんだ?」
「わう?」
瀬名はむずかしそうな顔をしている。
「よくわからないです」
「そうか……」
試しに、人間の耳の方に息を吹きかけてみる。
「わうっ」
びっくりしている。当然だが、人間の耳の方も感覚はあるようだ。
「わうー、くすぐったいです」
瀬名はむずがゆそうにしている。
なんだか面白くなってきて、俺は更に息を吹きかける。
「ひゃっ、ダメですっ」
彼女は逃れようとするが、後ろからぎゅっとされているのでできない。ただ、呼気でくすぐられている。
「わう、先輩ったら。瀬名はおもちゃじゃないです」
「あはは、ごめんごめん」
* *
「瀬名、耳かきするからおいで」
「わう!」
黒髪の少女は、とことこと寄ってきていぬ耳を向けてくる。
「あはは、今日はそっちじゃないよ」
人間の耳の方だ。
俺が自分のひざをぽんぽんと叩いて示すと、彼女はそこに恐る恐る小さな頭を乗せた。
瀬名の耳に、木でできた耳かきをそっと入れる。
「あのひんやりするやつは入れないんですか?」
「ああ、人間の耳にはいらないんだ」
確かに、いぬの耳にはいつも洗浄液を入れていたが。
にしても、洗浄液は使う前に軽く温めていたけど、それでもまだひんやりしていたらしい。今度からはもっと温めるか。
マルチーズの女の子は、おとなしくじっとしている。
「わう。なんだかくすぐったいです」
瀬名は耳かきも嫌がらないし、本当にいい子だ。
両耳の掃除は、スムーズに済んだ。
「瀬名、もう終わったよ」
「もうちょっとこうしていたいです」
俺の脚は骨ばっていてあまり枕には向かないと思うが。そういえば、いぬだった頃はよくひざの上で丸くなっていた。慣れていて落ち着くのだろう。
軽く彼女の頭を撫でると、うれしそうにする。
「わう……」
やがて、すやすやと寝息を立て始めた。
ブランケットを手繰り寄せて、彼女に掛ける。暖かくなってきたとはいえ、夜はまだ肌寒いからな。
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