17 夢みるいぬ
妙な感触で、目を覚ます。
「わう……」
隣の女の子が、寝ぼけているのか俺の耳をかぷかぷ甘噛みしていた。ぬるぬるした舌と、歯の感触が伝わってくる。
「せ、瀬名っ、噛むなって!」
「むにゃ……もう食べられないです……」
俺を餌か何かだと思ってるのか?
どうにか瀬名を揺り起こすと、彼女は目を擦りながらきょとんとこちらを見る。
「わう……なんですか?」
「瀬名が寝ながら俺のことを噛んでたんだよ。俺を噛んでもおいしくないだろ?」
「わう? 先輩は甘くておいしいですよ?」
「えっ」
そんな……本当におやつだと思っていたのか?
「た、食べるなよ」
そう言うと、彼女はむっとする。
「食べないです。瀬名を何だと思ってるんですか」
完全に俺を餌として捕食している寝言だったが……。
「先輩をなめてると、甘くて幸せです」
そう言って、俺の頬をなめ始める。
いつか、腹ぺこの瀬名にかじられそうだ。
試しにちょっと自分の手の甲をなめてみたが、甘さなんて全く感じない。きっと瀬名のいぬ的超感覚によるものだろう。
* *
夏休み中なので、当然今日も予定はない。
瀬名は、しっぽを左右に振って、朝からなんとも楽しげだ。
「わんわんわわーん」
歌まで歌っている。
「瀬名、随分ごきげんだな」
「わふふー、お休みの日は先輩とずっと一緒にいられますから」
な、なんていじらしい子だろう……。
「夏休みの間に、どこか遠出してもいいかもしれないな。瀬名はどこか行きたいところあるか?」
「先輩と一緒にいられるだけで、いいです。普段、いっぱい色んなところに連れてってもらってますから」
あまりにもいい子だ。
「そうだ、瀬名、先輩の肩たたきをします。てれびで見ました。肩たたきは感謝の証だって」
瀬名は小さな手で俺の両肩をぽんぽん叩いてくれる。
力はないに等しく、肩の凝りがほぐされることはないが、その仕草の愛らしさで癒される。
「あはは、ありがとう。感謝の気持ちが伝わってくるよ」
「わうー、瀬名、もっと先輩のお手伝いがしたいです」
こんなにお利口な子がほかにいるか? 世界お利口選手権で優勝間違いなしだ。
「じゃあ、今日は料理の仕方をちょっと教えるよ。一緒に昼食を作ろう」
留守番中におなかがすいたときなんかに、役立つだろう。
「料理、勉強したいです!」
なんとも真面目で熱心な子だ。
作るものは……チャーハンでいいか。簡単だが料理の工程のポイントは抑えている気がするし、飲み込みが早い瀬名ならすぐに覚えるだろう。
散歩ついでにチャーハンの材料を買い込み、家に帰る。
まずは瀬名に、米の炊き方を教える。いつも横で見ているからか、すぐに覚えた。これで、ひとりでいるときでも米が炊ける。
「わうー」
瀬名は、米が炊ける瞬間を今か今かと待つ。
炊飯器から煙が立ち上っただけで、大喜びだ。
炊けるまでもう少しかかるが、今の内にほかの材料を切ろう。
分厚い焼豚を、まな板の上に置く。
「じゅるり……瀬名、このまま食べたいです」
彼女の瞳が、怪しい光に輝く。つまみ食いされる前に、早く調理すべきかもしれない。
「この焼豚を、細かく刻むんだ。その方がチャーハンに馴染むからな」
お手本を見せてから、いぬの女の子に包丁を渡す。まだ刃物を扱わせるのには一抹の不安が残るが……。
「瀬名、包丁を持つときは、もう片方の手は猫の手にするんだぞ」
「わう……」
瀬名はむずかしい顔をしている。
「いぬの手じゃダメなんですか?」
その顔があまりにも深刻なので、ついつい口の端が緩んでしまう。
「あはは、もちろんいぬの手でもいいよ。ほら、手をこんなふうに丸くしてみて」
「わうー!」
* *
「おいしいです」
出来上がったチャーハンを、瀬名はぱくぱく食べている。
「先輩、瀬名が作ったちゃーはん、おいしいですか?」
「ああ、とってもおいしいよ」
「わふふー」
ぱらぱらに炒められた米は黄金色に輝き、焼豚やネギの風味が香ばしい。
俺がいくらか手伝ったとはいえ、初めての料理とは思えない出来だ。
「先輩に手料理を振る舞うなんて……ステキです」
やけに上機嫌だ。しっぽも、いつにも増して揺れている。
料理を食べ終わった後も、瀬名はうっとりしていた。
「瀬名、料理を作るのがそんなに楽しかったのか?」
「はい。瀬名、とっても先輩のお嫁さんみたいです」
「お、お嫁さん?」
「わふふ、瀬名もそろそろ、お嫁さんになる修行をしないといけません」
彼女は、夢見る乙女の表情をしている。
ど、どういうことだ?
困惑する俺をよそに、目の前の女の子はさらに言葉を継ぐ。
「瀬名が人間になったのは、先輩のお嫁さんになるためなんですから」
「え!?」
瀬名が?
人間になったのは?
俺のお嫁さんになるため?
それほど複雑な言葉ではないのに、上手く飲み込めない。
瀬名が人間になったのは、てっきり俺にくっついて寝るためなのかと。
でも、本当は、お嫁さんになるためだったのか?
挿絵(https://kakuyomu.jp/users/allnight_ACC/news/16817330650872672908)
「だって、先輩、瀬名にぷろぽーずしてきたじゃないですか」
照れているのか、彼女は赤くなる。
「ぷ、ぷろぽーず?」
あまりに素っ頓狂な言葉の響きだった。
「これです」
瀬名は自分の花の髪飾りを指さす。
「瀬名、知ってます。異性に花を贈るのは、ぷろぽーずの意でしょう?」
「ええ!?」
そ、そんなふうに思ってたのか?
「それに、この花はブルースター……お嫁さんがつける花だって、知り合いのいぬに教えてもらいました。どこからどう見てもぷろぽーずです」
それは瀬名が選んだものなんだが……まぁいいか。
「でも、いぬのままじゃ結婚できないと知ったので、いぬの神様に人間にしてもらったんです」
衝撃の連続に、思考がついていかない。
俺にプロポーズされたから、それに応えるために人間になったのか?
な、なんてことだ……知らない間にそんなことになっていたなんて。
「わふふ、先輩、早く瀬名をお嫁さんにしてくださいね?」
頬を朱色に染めて、彼女は見つめてくる。それは、いつものあどけない表情とは違っていた。
俺はどう答えればいいんだ?
いや、まずは何から……。
混乱した思考は、とりあえずシンプルな突っ込みどころに向かっていく。
「あ、え、えっと、その……瀬名、結婚は大人じゃないとできないんだよ」
「わう! 瀬名は三、四歳くらいですが、人間の年齢でいうと十六歳です! 結婚できます!」
確かに見た目はそのくらいだろう。小柄で中学生にしか見えないが。
とはいえいぬでいうと三、四歳なのも確かだ。いぬの知能は、人間の二、三歳児くらいだという話もあるし。
「で、でも、瀬名は子どもだよ……」
「今更何を言ってるんですか! 瀬名を散々もてあそんでおいて」
「お、俺が一体いつそんなことをしたんだよ!」
「瀬名を家に連れ込んで飼い始めたり、同じ布団で寝たり……手籠めにしたじゃないですか!」
「まま、待ってくれ! してないしてない!」
「いつも瀬名のしっぽをいやらしい手つきで触ってるし……」
「え!?」
あれはただ単にもふもふの感触を楽しんでいただけで、決していやらしい手つきではない!
「しっぽは、生涯添い遂げる人にしか触らせてはいけないんですよ?」
「ええ!?」
そ、そうだったのか……。
というか。
「だったらしっぽ触ってもいいか訊いたときに断ってくれよ!」
「だ、だって……」
瀬名は恥ずかしそうにしている。
「瀬名は先輩のお嫁さんになるんですから、そういうのも仕方ないかなって……」
な――なんていぬだ!
「それに、先輩は瀬名のつむじの数まで知ってるんですから。ちゃんと責任、取ってくださいね?」
いつの間にか責任を負っていたらしい。
うーん、瀬名を飼い始めたときから、彼女のことは俺が責任を持って世話して、終生を見届けようとは思っていたが。まさか結婚の話にまで波及するとは。
こんなに情熱的に迫られると、俺としても責任を取って結婚しないとなという気分になってくる。瀬名のことは……好きだし。
「そ、そういうことなら……まぁ、結婚しようか」
「わうー! うれしいです」
「俺が大学を卒業して、就職して、仕事に慣れて、まとまった貯蓄もできてから――」
「そんなのいつになるんですか! 今すぐお嫁さんにしてください!」
「う、うわ! 瀬名! 噛むなって! おい!」
「きゃうーん!」
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