4 いぬとの出会い・上
これは、今より一年くらい前の話。
* *
「ふわあ……遅くなったな」
ささやかな街灯が照らす住宅街を、俺は足早に歩く。
大学の宴会に参加していたら、気づけば深夜と言っていい時間になっていた。
街から人影は消え、民家の大半は明かりが消えている。
一人暮らしなのだから、門限も親の小言も存在しない。
でも、明日は一限があるんだよな……。
歩く速度を上げると、視界の隅を小さな白い影が横切った。
「ん?」
そこは、小さな公園だった。
三方を建物に囲まれて、遊具もそれほどない公園。当然こんな時間に遊んでいる人間がいるはずなどない。
だが、動く影があった。
風で飛ばされたビニール袋かとも思ったが、それともまた違う気がする。
好奇心に駆られた俺は、公園に足を踏み入れた。
「猫か?」
影の主は、木陰にいた。
小さないぬだった。
頭からしっぽの先まで白く、耳はたれている。これは、確かマルチーズだ。
野良猫を見ることはたまにあるが、野良犬は珍しい。しかも、野良にしては随分毛並みがいいいぬだった。いや、もさもさになってこそいるが、それでも気品がある。ひょっとして迷子犬だろうか。
「迷子になったのか?」
とりあえず保護しようと近づいたものの、
「わうんっ」
子犬はあっという間に駆けていって、見えなくなってしまった。
* *
あれから半月ほど経ったが、なんとなく頭の片隅にあの野良犬のことが残っていた。
珍しいから、だろうか。
ネットで近所の迷子犬の情報を調べたり、あの公園の近くを通りがかることが増えた。
かといって、あのいぬの姿がどこかにあるわけでもないが。
その日も、俺は公園の横を通った。視線は、自然とそちらに向く。
「ん?」
白くて丸っこい物体が、落ちている。
よく見ると、子犬が地面にべったりと倒れ込んでいる。
「な……っ、大丈夫か!?」
「きゅーん……」
小さいマルチーズは、明らかに具合が悪そうにしている。しかも、並々ならぬ様子だ。
慌てて抱え上げると、この生きものは嫌に軽かった。小さいからというのもあるだろうが、それだけでは説明できない軽さだ。
「すぐに病院に連れて行くからな。もうちょっとの辛抱だぞ」
「きゅ……」
* *
医者に診てもらって、幸運にもマルチーズは回復した。
医者曰く、玉ねぎか何かを拾い食いしたらしい。
元々弱っていたこともあって、早急に処置をしていなかったら、危なかったという。
「治ってよかったな」
そう声を掛けても、マルチーズはうんともすんとも言わないが。
野生に戻すわけにもいかない。また玉ねぎを拾い食いしないとも限らないし。
ということで、俺の家に連れて帰った。
アパートの管理人に聞いたら、あまり吠えないなら飼ってもいいとのことだった。
飼う……どうだろう。医者も「恐らく血統書つきで、どこかの飼い犬だろう」と言っていた。
首輪は着けていなかったし、飼い主の手がかりはないが、迷子犬なら張り紙を出さないといけない。
* *
知人のいぬの面倒を見たりしたことはあったが、いぬを飼うのは初めてだ。
いぬの関節をフローリングで痛めないように、カーペットを敷く。狭い1Kの部屋なので、そこそこのサイズのカーペット一枚でほとんどカバーできた。
随分長いこと洗ってないのか、いぬの毛はもさもさになっていた。
お風呂に入れる。水に慣れているのか、特に嫌がることなくスムーズに終わった。
「美人さんないぬだなぁ」
綺麗に洗ったら、それがよくわかる。
本当に小さくてかわいいいぬだ。白い毛並みはふわふわで、瞳は黒くてつぶら。よくできたぬいぐるみにしか見えないのに、ぽてぽてと歩くから一層愛らしい。
無駄吠えはせず、ちょこんと大人しくおすわりしている。お利口さんだ。
しかし、こちらを警戒している。さわったりしたら噛まれそうだ。
いぬ用のおもちゃを見せても、つーんとそっぽを向いている。しかし、そんな仕草も妙に愛らしく見えた。
ぱしゃりと写真を撮る。相変わらずおすわりしていたので、手早く済ませられた。
友人知人に共有して情報を集めたり、SNSや張り紙に載せて迷子犬として広めよう。
「早く飼い主のところに帰れるといいな」
これだけ利口で美人ないぬだ。さぞかわいがられていたことだろう。
「…………」
子犬は、うんともすんとも言わずにぽてぽてと去っていく。
撮った写真を友人に送ったり、迷子犬のチラシを作る合間に、ちらりといぬを横目で窺う。
いぬ用のおもちゃにかぷかぷかじりついていた。俺が見ている内は、与えられたおもちゃで遊んだりしない、ということなのだろう。なんとも気位の高いいぬだ。
しかしよくしつけられているようで、世話自体はとても楽だった。
元々野生のいぬではないだろう。飼い主とはぐれてしまったのか、それとも――捨てられたのか。
獣医は、随分人間に怯えているし、飼われていた家で何かあったのかもしれないと言った。
こんなにかわいくてかしこいいぬを、捨てるなんてことがあり得るのだろうか。
* *
マルチーズと暮らすようになって、しばらく経った。
最初の頃はこちらを警戒していたいぬも、俺のところに寄ってくるようになったり、差し出したおやつを食べたりと、少しずつコミュニケーションを取ってくれるようになった。
「わうーん」
つぶらな瞳でこちらを見上げている。
これまで、ずっと撫でるのは控えていたが、なんとなくもういいのではないかという気がした。
試しに触れてみても、子犬は一切拒まない。
「くーん」
ふわふわの毛並み。白いもふもふはなめらかでやわらかい感触だった。
マルチーズは、最古の愛玩犬と呼ばれるほど、昔から貴族の抱き犬としてかわいがられていた。
抱っこしても大人しくしているし、何より、ほおずりしたくなるほど触り心地がいい。こんなに魅惑のもふもふが存在しているのかと、感動するほどだ。
* *
張り紙への飼い主からの反応は、ついぞなかった。明らかに飼い主ではないのに、かわいいいぬ目当てで騙る不届き者はいたが。そんなのは少しやり取りすれば馬脚を現す。
だが、落胆はなかった。俺はどこかで予測していたのかもしれない。
一度拾ったいぬだ。ちゃんと最後まで面倒を見ないといけない。一緒に暮らしてきて愛着も湧いたことだし。
「そういえば、まだ名前をつけてなかったな」
元の名前があるだろうに勝手に名前をつけるのが忍びなくて、ずっと名無しのいぬのままだった。しかし、一緒に暮らしていくのだから、あった方がいい。
名前……うーん、名前か。
「真っ白だからシロ……違うな。小さいからチビ……」
どれもしっくりこない。
目の前のふわふわな生きものも、微妙そうな顔をしている。
えっと……。
不意に、頭の中にひとつの単語が思い浮かぶ。
「瀬名」
そう呼ぶと、白いマルチーズは「わうん!」と鳴いた。たまたまタイミングが合っただけかもしれないが。
よし、この子は瀬名だ。
「瀬名は、今日からうちの子だよ」
「わん!」
ようやく、この生きものと心が通じ合った気がする。
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