7 いぬは後輩?


「わうー」

 瀬名は、バイト先のエプロンを、洗濯機に入れてごうんごうんと洗濯している。今日は休みだった。


 自分で干して、アイロンがけまでする。

 瀬名は無邪気だが几帳面だ。物は出しっぱなしにせずきちんと定位置に戻すし、言われたことはきちんと守る。お菓子の誘惑に負けたりしない限りは。


 バイトを問題なくこなせているのも、その真面目さゆえだろう。働いているときの瀬名は、いつもの甘えん坊でわうわうな生きものとは、まるで違って見える。

 大きくなったら、しっかり者のいいお嫁さんになるかもしれない。


「お休みの日は先輩とずっと一緒です」

 洗濯を終えた瀬名は、すりすり甘えてくる。


「瀬名、バイト頑張っててえらいな」

「わふふー、先輩のためですから」


 最初はどうなることかと思ったが、まさかここまでつつがなく働けているとは。

 店長も優しそうな人だったし、ひとまず安心できそうだ。


 瀬名も、外の世界に出ていこうとしているのだと思うと、感慨深い。


「瀬名、バイト先や外であったことはなんでも話すんだぞ」

「わう!」

 わうわうな女の子は、うれしそうにしている。


「そういえば……」

 瀬名は急に自分用の引き出しをごそごそし始める。


「瀬名、先輩をメロメロにする秘訣をてれびで知りました」

 俺の顔の前に、糸で吊り下げた五円玉を掲げる彼女。


「ん?」

 これは……。


 案の定、瀬名はその五円玉をゆらゆら横に揺らし始めた。


 催眠術。

 しかも五円玉振り子法という古典的な。


「先輩は瀬名にメロメロになる……瀬名を今すぐお嫁さんにしたくなる……」

 真剣極まりない顔で、五円玉を右へ左へ揺らしている。


「先輩は瀬名のことしか見えなくなる……瀬名の声しか聞こえなくなる……瀬名のことしか考えられなくなる……」

 呪いを掛けられていた。


 うーん、一体どうしたものか。五円玉を糸でぶら下げるだけで人の意識を操られるのなら、世の中もっと混沌としているだろう。


 しかし、効果はないと真っ向から否定するのは、なんだかかわいそうな気もする。


「うっ、あ、頭が痛い……っ」

 俺は、突然痛みに悶え苦しむかのように頭を抱える。もちろん演技だ。


「わう!?」

 瀬名は目を丸くする。

 俺の大根芝居にも、本気で動揺してくれているようで、心配そうに覗き込んでくる。


「せ、先輩……?」

「瀬名、催眠術はな……素人がやるとこうなるんだ。脳に作用する危険な術だからな。もうやっちゃダメだぞ」


「わ、わう……ごめんなさい……」

 本気で怯えていて、なんだか申し訳なくなってきた。




 * *




 折角の休日なので、散歩も兼ねて瀬名と一緒に出かける。

 甘いものを食べたり、本屋に行ったり、画用紙を買ったり、街を満喫する。


 これで、少しは瀬名のバイトの疲れを癒せるといいのだが。


「あっ、せんぱーい!」

 遠くから、よく通る声が聞こえてくる。

 ぱたぱたと駆け寄ってきたのは、大学の後輩だ。


 わずかに猫目っぽい少女は、俺の横に立っている女の子に目を留める。


「先輩? その子は?」

「ああ、親戚の姪っ子だよ」

 まさか飼い犬だとは言えない。


 瀬名は俺の後ろに隠れた。バイトで接客をしているが、外にいるとまだ知らない人がこわいらしい。


「まぁ人見知りちゃん! とってもかわいいですね」

 そりゃそうだろう。瀬名はとってもかわいいのだ。

 心の中でそう思うが、声には出さない。


 軽く数言挨拶を交わして、別れる。

「先輩、また明日!」

「ああ、またな」


 後輩が見えなくなってから、俺の背中に隠れていた瀬名が出てくる。

 なぜだか、じとーっとした目をこちらに向けてきた。


「先輩、まさかよそでも後輩を作っていたんですか?」

 え、そりゃまぁ作ってるけど。


 後輩を何だと思ってるんだ? そもそも瀬名は後輩の定義に当てはまらないだろう。年下ではあるだろうが。


「あのな、瀬名。学校の下級生はみんな後輩になるんだよ。だから、言ってしまえば俺の後輩はもう小学生のときから合計で千人以上はいることになる」


「せ、千人……!?」

 瀬名が目を白黒させる。


「先輩ふしだらです! サイテーです!」

 な、なんだ……? 一体後輩を何だと思ってるんだ?


 しょうがないので、俺は瀬名に「先輩」と「後輩」の意味をこんこんと説明した。

「わう……」

 やっぱりむずしそうな顔をしている。


「だからな、先輩はふしだらじゃないんだぞ」

「それはわかりました。でも――先輩は先輩じゃない……? わう?」


 まずい。瀬名が、目の前にいるこの男はなんなんだという疑問を抱いてしまう。それはそれで気まずい。


 少しの間目を回していた瀬名だったが、やがて答えに辿り着いたらしい。

「先輩は先輩です」


 瀬名が俺のことを先輩だと思っているのなら、別に先輩呼びのままでいいだろう。今更実情に即した呼び方にして、「飼い主」だの「おやつをくれる人」だのと呼ばれても困るし。


「『先輩』は、なんだか特別な言葉です。先輩を初めて見たとき、この人が瀬名の『先輩』だって思いました」


 赤く染まった自らの頬に、手を当てる瀬名。

「『先輩』はぽかぽかな響きを持っています。先輩だけが、瀬名の『先輩』です」


 よくわからないが、瀬名にとって「先輩」は特別らしい。


「先輩、さっき瀬名のことを姪っ子って言ってました」

「ああ。まさか瀬名を飼い犬って言うわけにはいかないだろ? だから、姪っ子ってことにしたんだ」


 実際、暮らしているとそんな感じというか――

「瀬名は、姪っ子っていうか――妹みたいなもんだな」

「わう? 妹?」

 歳が離れたかわいい妹。まさにこれだ。


「先輩、おにいちゃんです?」

 わうわうな女の子はじっとこちらを見つめている。


「妹はお嫁さんになれますか?」

「う、うーん……」

 なれないが……まぁなれないって言うのはかわいそうだし、そもそも瀬名は妹じゃないしな。


「瀬名はお嫁さんになれるよ」

「わう!」

 うれしそうにしている。


 後輩……後輩か。

 やっぱり瀬名は後輩って感じじゃないな、と思った。

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