17〈mof〉 いぬの夢とめざめ
「わうー」
今日も先輩は大学です。瀬名はバイトもないので、お留守番です。
ちょっと寂しいですが、仕方のないことです。番犬として、しっかり先輩の留守を預からなくてはいけません。
もしも大学がなければ、先輩は瀬名とずっと一緒にいてくれるでしょうか?
瀬名はぶんぶん首を横に振ります。そんなよこしまなことは考えてはいけません。先輩は大学で真面目に勉強しているのです。
ぼーっとテレビドラマを見ていると、結婚式のシーンが映りました。
「わう……!」
お嫁さんになるのが夢の瀬名には、他人事ではありません。食い入るように見つめます。
白いチャペルに白いウエディングドレス。お嫁さんは、とってもきれいです。
「わふふ……」
瀬名もいつか、こんなお嫁さんになれるでしょうか。
あたたかい祝福の中、お嫁さんとお婿さんは誓いの言葉を口にします。
病めるときも、健やかなるときも、喜びのときも、 悲しみのときも、富めるときも、貧しいときも、 死がふたりを分かつまで。
素敵です。瀬名も、先輩とこんなふうになりたいです。この気持ちは、死でさえも分かつことはできません。何度生まれ変わっても、瀬名は先輩のお嫁さんになりたいです。
新婦と新郎は口と口をくっつけました。
「わう……!?」
あれは、瀬名が先輩とたまにするものです。
思わず見入ってしまいます。
口と口をくっつけるのが特別だという意味が、瀬名にもなんとなくわかってきました。
* *
夕方になり、先輩が帰ってきました。瀬名は急いで駆け寄ります。
「先輩っ」
「ただいま」
「おかえりなさい! 先輩、口をくっつけてもいいですか?」
「え? どうしたんだ? 急に」
「くっつけたいです」
「うーん、仕方ないな……いいよ」
先輩は、くっつけやすいように少しかがみます。
「わうー」
瀬名は、先輩の口に口をくっつけます。なんだかいつもよりどきどきします。
かすかにくちびるに触れる先輩の吐息や体温、やわらかい感触――そのどれもが愛おしく思えます。お嫁さんになるとき、こんな気持ちなのでしょうか。
瀬名は先輩の背中に腕を回します。ずっとこうしていたいです。
「せ、瀬名……」
突然先輩が顔を離しました。
「わう? 先輩、どうしたんですか?」
「……いや、なんでもないよ。それより、今日もお土産買ってきたんだ」
「お菓子ですか!?」
「ああ、そうだよ」
「わーい!」
お土産、うれしいです。
* *
お菓子を食べたりテレビを見ていると、また口と口をくっつけたくなってきました。
「先輩、口をくっつけてもいいですか?」
「さ、さっきもしたじゃないか」
「またしたいです」
「で、でもなぁ……」
「わう……ダメですか?」
瀬名が瞳をじっと見つめると、先輩はたじろいだように慌てます。
「わ、わかった……いいよ」
「わう!」
こんな素敵なことがあるなら、もっともっとしたいです。
* *
「瀬名、話がある」
「なんですか?」
先輩が正座するので、瀬名も正座します。大事な話のようです。
「最近瀬名はやたら口をくっつけてくるようになったけど……これからは、なしにしよう」
「わう!?」
瀬名は耳を疑いました。
「どうしてですか! 先輩、瀬名と口をくっつけるのがいやになったんですか!?」
「そ、そういうわけじゃないけど――でも瀬名の情操教育的によくないと思うんだ」
「なんですか情操って! 詭弁です! 禁止された方が瀬名の情操がぴんちです!」
先輩は困った顔をします。
あんまり見たくない顔でしたが、かといって黙っているわけにもいきませんでした。
「口と口をくっつけるのはキスって言ってな、その……瀬名は知らないかもしれないけど、特別な意味を持ってるんだ」
「瀬名、知ってます! お嫁さんとお婿さんがするものでしょう?」
「知ってたのか……」
「わふふ、だから、瀬名、もっと先輩とキスしたいです。とってもどきどきします」
そう言うと、先輩は余計に慌て始めます。
「せっ、瀬名はまだ子どもじゃないか。そういうのは早いよ」
「わう! 瀬名は十七歳です! 結婚できる歳です! 何が早いというんですか!」
「うーん、その十六歳っていうのもなぁ……」
「瀬名はちゃんと十七歳です! 結局のところ瀬名とキスしたくないだけなんじゃないですか!?」
「そういうことじゃないけど……やっぱり瀬名がもっと大きくなるまで、やらない方がいいんじゃないかと思うんだ」
先輩の言葉は、要領を得ません。
瀬名はもう結婚できる歳なのに、「まだ早い」とか「大きくなってから」とか、意味不明です。
きっと瀬名とキスするのが嫌なのです。
だから、わけが分からない理由を並べ立てているのです。
「わう! もう先輩なんて知りません! きらいです!」
* *
「わう」
洗面所に籠城して、瀬名はむくれます。
どうして先輩はあんなことを言うのでしょう? 瀬名はただ、先輩のお嫁さんになりたいだけなのに。
三角座りして、背中をドアに預けながら、考えます。
もしかして、先輩は瀬名をお嫁さんにしたくないのでしょうか? だからあんないじわるを言うのでしょうか。
「わう……」
瀬名はいらないいぬなのでしょうか。先輩のお嫁さんになれないのでしょうか。
だったら――こんな気持ちになるくらいなら、キスなんてするんじゃなかった。
先輩のこときらいって言っちゃいましたし……。瀬名は先輩が大好きなのに。
* *
瀬名は、とぼとぼ飼い主のところに戻ります。
「先輩、さっきはごめんなさい……瀬名、先輩の言う通りにします」
「……急にどうしたんだ?」
「瀬名は先輩のいぬです。先輩に見捨てられたくないです。だから、先輩の言うこと全部を聞いて、いい子にしてます」
「瀬名……」
先輩は喜んでくれるかと思ったのに、そうではありませんでした。なぜか悲しい顔をしています。
「あのな、俺の言うことをなんでも聞くのがいい子ってわけじゃないんだ。もし納得がいかないときは言って欲しいし、一緒に話し合っていきたい。別に、意見が違うからって瀬名を見捨てたりしないよ。瀬名は俺の大事な――家族なんだから」
「……家族?」
ペットは家族、というのはときどき聞く言葉です。
「瀬名は先輩の言うことを聞くのが好きです。先輩に喜んでほしいし、先輩になでなでされたいですから」
「そう思ってくれるのはありがたいけど……俺、もうちょっと瀬名の気持ちを尊重すべきだったよ」
ぎゅっと、先輩は瀬名を抱きしめてきました。
彼の体温――ぽかぽかが伝わってきます。
「あのな、俺は――これまで、あんまり瀬名のことを恋愛対象として見ないようにしてきたんだ」
ゆっくりと穏やかに話し始める先輩。
「瀬名は十六歳だけど、俺から見れば、まだまだ人間社会のことを勉強中な女の子なんだ。成長中の子に、大事なことを教える前に恋愛対象として色々やるのは良くないっていう考え方が、人間にはあるんだよ」
確かに、瀬名は人間のことを熟知しているとは言えません。
「だから俺も、瀬名と恋愛とかそういうことをするのは、瀬名がもっと色んなことを勉強してからにしようと思ってたんだ。瀬名が立派な大人としての判断力を手に入れるまでは、な。瀬名のことが大切だから」
「わう……」
瀬名のことが、大切……。
先輩は、瀬名とキスしたくないわけではなかったのです。
ただ、大切に思うがゆえの行動だったのです。
「でも、それで瀬名を悲しませちゃ世話ないよな。ごめん。瀬名は、俺のお嫁さんになりたいって真剣に思ってるんだから」
大好きな人の大きな手が、そっと瀬名の頭をなでなでします。
それだけで、とっても落ち着きます。
「じゃあ、その、先輩……キスしてもいいですか?」
「ああ」
「わうー!」
そっと先輩とキスをします。やっぱりそれは、とってもぽかぽかする幸せな瞬間でした。
「瀬名は先輩のふぃあんせです。未来のお嫁さんです。口をくっつけてもいいです」
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