いぬとぬいぐるみ

2章辺りの話です。

あと今回は二本立てで、途中で視点が切り替わります。

――――――――――――――――――――――――



■〈mof〉いぬ・じぇらしー



 先輩は今日も大学です。

 バイトがないので、瀬名はお留守番です。


「わうー」

 瀬名の最近のまいぶーむは、漢字の勉強をすることです。横文字はともかく漢字は読めますが、書くのには練習が要ります。


 瀬名の「瀬」は、バランスよく書くのがむずかしいです。

「さんずいと、えっと……」


 先輩が、こないだ漢字の本を買ってくれました。それに応えるためにも、頑張って勉強しなくてはなりません。漢字練習帳に、いっぱい漢字を書きます。


 この本には、どりるの他にもこらむがついています。

「わう……象形? 会意?」


 どうやら、漢字には物の形を表しているものがあるのだそうです。たとえば「木」は、そのまま生えている木を象っています。木がもう一本立って、「林」。もっと増えると、「森」。

「おもしろいです」


 「伏」という漢字。これは、人の横にいぬがいます。

「わふふー」

 まるで先輩と瀬名です。一緒です。


 床に突っ伏すいぬ。人に付き従ういぬ。

 素敵です。

 瀬名は、この漢字が好きだと思いました。


 そうやって漢字練習を続けていると、不意に鉛筆を取り落としてしまいました。


「わうっ」

 鉛筆が、床の上をころころ転がっていきます。


 慌てて追いかけますが、瀬名より鉛筆の方がすばしっこいです。すぐに見えなくなってしまいました。

 どこに行ったのでしょう。


 鉛筆が転がっていった辺りや床を探しますが、ありません。

 もしかしてどこかの隙間に入ったのでしょうか。


 瀬名は、カラーボックスを動かして、壁との隙間を見ます。


「わう?」

 本棚の後ろ、壁との間のわずかなスペースに、何か薄っぺらい本のようなものが挟まっています。


 鉛筆とは関係ありませんが、この部屋にある本は全部読みつくしてしまって退屈していた瀬名は、まだ読んでいなさそうな本を見つけて目を光らせます。

 少し本棚を動かして腕を伸ばすと、簡単に指が届きました。


 でも、いいのでしょうか? この本は明らかに隠されていたふうですよ?

 ですが瀬名はそんなことには気がつきもしません。


 触れた感触は、雑誌です。手繰り寄せると、上手く取り出すことが出来ました。

 その表紙にはかわいい柴犬の写真と、「わんだふる春夏秋冬」というタイトルが記されていました。


「む……」

 嫌な予感がして、瀬名はページをめくります。


 そこは、四季折々の風景と、かわいいいぬたちの写真がたくさん載せられていました。桜といぬ。川といぬ。紅葉といぬ。雪といぬ。大型犬から小型犬まで、色んないぬのかわいい一瞬が収められています。


「むむむ……」

 瀬名の小さな肩がぷるぷると震えます。


「いかがわしい本です! 先輩、ふしだらです……ウワキです!」

 いぬなら瀬名がいるのに。何もこんなものを買わなくても。先輩は小さなマルチーズだけでは満足できなかったのでしょうか。


「瀬名、ただいまー」

 先輩の声がします。帰ってきたようです。


挿絵(https://kakuyomu.jp/users/allnight_ACC/news/16817330660842407785


「どっ、どこからそれを」

 写真集を持った瀬名を見て、先輩はぎょっとしています。


「先輩は他のいぬの方がいいんですか? 本当は柴犬とかを飼いたかったんですか?」

 涙目で問いかけます。


「こんな写真集買わなくても、瀬名の写真ならいくらでも撮っていいです」


 もし、柴犬の方が好きだと言われたら、どうすればいいのでしょう。

 瀬名は生まれつき小さなマルチーズです。今度は、神さまに柴犬にしてもらうお願いをしなくてはならないのでしょうか。


「それは瀬名を飼う前に買った本なんだよ」

「そうなんですか?」

「ああ。元々いぬは好きだったからな。でも」

 先輩は、そこで瀬名を抱きしめました。


「こんなにかわいいいぬが家にやってくるとはな。マルチーズが一番好きだよ」

 そう言って瀬名の頭を撫でます。

「わう……」

 そんなことを言われては、瀬名としては喜ぶしかありません。

 瀬名と出会う前だったら、こんないかがわしい本を買っていてもウワキじゃないです。


「先輩、そういえば瀬名、鉛筆なくしちゃいました」

「鉛筆?」

 先輩は、瀬名を離すと少しの間辺りを見回して、カーペットの端に手を伸ばします。


「これか?」

 その手には、見覚えのある筆記用具が握られていました。


「わう! それです!」

 鉛筆も見つかったし、いいことづくめです。




■いぬとぬいぐるみ



 まさか写真集を見つけるとは……。

 いぬの超感覚的嗅覚を侮っていたらしい。


 瀬名はちゃぶ台にノートを広げて、一生懸命何かを書いている。

 漢字練習帳にたくさん書いて練習しているようだ。なんとも真面目な子である。


 そっと練習帳を覗き込むと、降伏、屈伏、圧伏、平伏――物騒な言葉が並んでいる。

「せ、瀬名? どうしたんだ?」

「瀬名、この漢字が好きです」

 彼女が指差したのは、「伏」という漢字。


「人といぬは、一緒にいるのが一番です」

「そ、そうか……」


 「伏」。人に服従するいぬの姿から生まれた漢字。

 うーん、まぁ瀬名が好きだというのなら、それでいいか。


「瀬名、そろそろ散歩に行くか?」

「わう! 行きます」


 るんるんの瀬名と手をつないで、街に繰り出す。


 この女の子に新しい服でも買おうかと思って、デパートに入る。

 売り場を回って歩いていると、瀬名は足を止めた。


 彼女の視線の先を追うと、マルチーズのぬいぐるみが置いてあった。

 真っ白な毛並みや、垂れたいぬ耳が愛らしい。


「わう」

 瀬名は、じっとふわふわのぬいぐるみを見つめている。


「ん? このぬいぐるみ、瀬名に似てるな」

 つぶらな瞳や、毛のふわふわっぷりが似ている。


「わう! 瀬名はもっと毛並みがいいです!」

「あはは、そうだな」


 そういえば、瀬名にぬいぐるみや人形をあげたことはなかった。いぬのおもちゃはいくつかあげていたが。


「これ、買おうか?」

「…………」

 彼女は考え込む。欲しいのかどうか、ぴんと来ないようだ。


 とはいえ、目を留めたということはいくらか気になったのだろう。一個くらいぬいぐるみがあっても、瀬名の情操教育的に悪くないだろうし。


「そうだなぁ、瀬名に似ててかわいいし、このぬいぐるみ、買おうか」

「はい」 

 横の女の子は、こくりとうなずいた。




 * *




「わう」

 家に帰った瀬名は、神妙な顔でマルチーズのぬいぐるみを抱っこしている。


「どうしたんだ?」

 そう訊いてみると、


「瀬名がいぬだった頃、先輩はいつもぬいぐるみみたいに瀬名をぎゅっとしてました。でも、先輩がなんでそうするのか、よく分からなかったです。瀬名もぬいぐるみをぎゅっとしたら、先輩の気持ちが分かるかと思いました」


「なるほど。分かったか?」

 俺の問いに、瀬名はむずかしそうな顔をした。分からないらしい。


 試しに、彼女をぎゅっと抱きしめてみる。

「わう!」

 もふもふなしっぽが、ぴーんと反応した。


「瀬名、抱っこ好きか?」

「大好きです」

「先輩もだよ」


「わう? 先輩もです?」

「ああ。瀬名が大好きだから、ぎゅっとすると幸せな気持ちになるよ。抱っこすると、うれしそうにしっぽを振るところもかわいいし」

 わうわうな女の子は、真っ赤になる。


「大好きで愛らしいものを抱きしめると、幸せな気持ちになるんだ。ぎゅっとされた側と、同じような気持ちだと思うよ」

「先輩も、同じ気持ち……」


 瀬名はまた神妙な顔をして、何やら考え込んだようだ。


「ぬいぐるみ、大事にするんだぞ」

「わう!」




 * *




 すっかり夜も更けた頃。


「わう……」

 瀬名は、ぬいぐるみを抱きしめたまま、子犬みたいなへにゃっとした顔で眠っている。


挿絵(https://kakuyomu.jp/users/allnight_ACC/news/16817330660842420538


 最近はバイトだのなんだのを頑張っているが、まだ小さな女の子なんだよな……。


 いぬの精神年齢は、人間で言うと三~四歳くらいだし。何より、人間になってからまだ一年くらいしか経っていないし。

 彼女の成長が著しいから、ときどき忘れそうになるが。


 俺は、ぽんぽんと彼女のブランケットを掛け直す。


「むにゃ……せんぱ……」

 瀬名はあどけない声を漏らして、もぞもぞと小さく動く。


 この子を、しっかり支えて、見守っていかないとな。

 改めて強く、そう思った。

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