22〈mof〉 いぬと、さようなら・上
いつものように、散歩のついでにスーパーにお買い物に行きます。
「瀬名は今日のごはん何がいい?」
「わう! クッキーが食べたいです」
「あはは、クッキーはごはんじゃないぞ。でも、おやつに買って帰ろうか」
「わーい!」
手をつないで、スーパーへの道を歩きます。
「ん?」
道端に、途方に暮れたようにぽてぽて歩いているいぬがいました。
まだ小さい柴犬です。
首輪は着いていますが、飼い主らしき人は見当たりません。
瀬名とつないでいた手を、先輩は咄嗟に離しました。そして、柴犬に駆け寄ります。
「首輪がついてるな……名前は、ええと、タロウか。きっと迷子犬だ」
「わう……」
なんだか嫌な予感がします。
「ここに放置しておくわけにも行かないし、ひとまずうちに連れて帰るか。家にまだドッグフードがあったから――」
* *
タロウという名前のオスの柴犬は、先輩と瀬名の家に連れて来られました。
先輩は慌ただしく色々な用意をし始めます。
かつて瀬名を拾ったばかりのときのように、交番や自治体に連絡したり、タロウを迷い犬として呼びかけるためのポスターを作ったり、タロウと暮らすための環境を整えたり。
クローゼットの奥に仕舞い込んでいた、瀬名がいぬの姿だった頃に使っていた道具を再利用します。
先輩が瀬名のために用意してくれたえさ皿も、寝床も、全部タロウのものになっています。
瀬名の居場所がだんだんなくなっていきます。だんだん、奪われていきます。
「先輩、タロウを飼うんですか?」
「飼い主が見つからなかったらな」
「…………」
タロウを飼う?
そんなの嫌です。
先輩は瀬名だけの先輩なのに。
「タロウをあんなところに放置しておくのは、瀬名と最初に会ったとき、瀬名を放っておくのと同じことだと思ったんだ」
「わう……」
「俺は、瀬名を拾って良かったと思ってる。こんなにかわいくていい子を、あのまま野ざらしにしていたらどうなっていたのかなんて想像したくもないよ。タロウだってそうだ。きっと飼い主は心配してるよ」
飼い主は心配しているのでしょうか。
迎えに来るのでしょうか。
「瀬名、ちゃんと先輩としてお利口にできるか?」
「…………」
瀬名はうなずきます。そうしないと、先輩に見てもらえないからです。飼い主の言うことを聞かないいぬなんて、すぐに捨てられてしまいます。
「大丈夫だよ。瀬名のことが大切なのは、何も変わってない。ちょっとタロウの世話もするだけだ」
「はい……」
タロウは元々人懐っこいいぬなのか、すぐ先輩になついています。ふてぶてしく先輩のひざの上に乗ります。
「よしよし、心配しなくても大丈夫だぞ」
先輩はあたたかい眼差しをタロウに向け、優しく撫でています。
今、先輩の視界には瀬名は一切入っていません。
胸の辺りがざわざわします。とても苦しいです。寒くて、息ができなくて、苦しくて、苦しくて、苦しくて、それなのに先輩は見てくれなくて、ひとりで。
「……先輩」
小さく呟いた言葉は、当然先輩には届きません。
* *
寝る時間がやってきました。
タロウは、元々瀬名のものだった寝床に、ぐてーんと寝転がっています。
図太いいぬです。
瀬名はいつものように先輩の布団に潜り込んで、そっと先輩にくっつきます。
「……先輩」
「瀬名、おやすみ」
彼はそう言って、瀬名の頭を撫でてくれました。
先輩に撫でられるとすごくぽかぽかして、だからこそ瀬名は泣きそうになってしまいます。先輩はいつまで瀬名を撫でてくれるのでしょうか? いつまでこうして先輩にくっついていられるのでしょうか?
目を閉じると、頭の中に嫌なことばかり浮かびます。
もしも、先輩が瀬名よりもタロウの方を気に入ったら、どうなるのでしょう?
もしも、瀬名が二番目になったら、どうなるのでしょう?
いぬを何匹も飼う余裕はありません。
瀬名がばいとして貯めたお金を全部先輩にあげれば、先輩は瀬名を飼い続けてくれるでしょうか?
――タロウをあんなところに放置しておくのは、瀬名と最初に会ったとき、瀬名を放っておくのと同じことだと思ったんだ。
そうです。瀬名はタロウと同じです。
でも……だったら。
瀬名は一体なんなのでしょう?
先輩にとって、瀬名はどこにでもいるような野良犬の中の一匹でしかないのでしょうか?
きっとあの日あの公園にいたのが瀬名でなくても、先輩は家に連れて帰っていたでしょう。そして、今タロウをかわいがっているように、世話を焼いていたでしょう。
瀬名にとって先輩は特別でかけがえのない存在ですが、先輩にとっては瀬名が瀬名である必要なんてどこにもないのです。そして、瀬名を選ぶ理由も、どこにもないのです。
* *
朝になっておひさまが昇りましたが、全く眠れませんでした。
「いってきます」
「……いってらっしゃい」
先輩は今日も大学に行きます。
部屋の中には、誰もいなくなります。
ただ、タロウという邪魔者がいるだけ。
もう捨てられるのは嫌です。
いらないいぬになるのは嫌です。
もっと先輩になでなでしてもらいたいし、もっとぎゅっとしてもらいたいです。
先輩とずっとずっと一緒にいたいです。
でも、このままだと全部なくなってしまいます。
瀬名の中に、昔いた白い家の冷たい床の感触が蘇ってきます。
飽きられて、見捨てられたいぬの末路が。
誰にも顧みられることもなく、ガス室に送られます。
こんな、こんないぬさえいなければ。
そうすれば、元の先輩に――瀬名だけの先輩に戻ってくれます。
瀬名だけを見てくれます。瀬名だけをなでなでしてくれます。瀬名だけをかわいがってくれます。
瀬名は先輩を独り占めにしたいです。
先輩の瞳が、瀬名以外を映し出さなくなればいいのに。
先輩の手が、瀬名以外は触れられなくなればいいのに。
先輩の声が、瀬名以外に届かなくなってしまえばいいのに。
わたしは――わたしはただ先輩と一緒にいたいだけなのに。
あんな邪魔な存在さえいなければ、いつものように先輩はわたしを見てくれたのに。
全部全部あのいぬがいけないのです。
どうしてわたしから先輩を奪っていこうとするのでしょう?
よりにもよって、ほかでもない先輩を。
先輩とずっとずっと永遠に一緒にいられる未来を。
「……頑張らないと」
大事なものが、全てなくなってしまいます。がらがらと崩れ落ちて、元に戻らなくなってしまいます。
だから、邪魔なものは必要ないのです。
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