23〈mof〉 いぬと、さようなら・下
「……タロウ、お散歩に行きましょう」
そう声を掛けて、タロウを連れ出しました。
散歩中に、逃げ出したことにするのがいいでしょうか。いいえ、それだとわたしの過失が大きすぎますし、先輩に疑われる可能性もあります。
そうだ、散歩中に飼い主に出会ったことにしましょう。そのまま引き渡したことにすればいいのです。より信憑性を上げるために、後日飼い主を騙って、先輩の家にお礼の品を贈りましょう。差出人の住所はどうとでもごまかせます。
わたしは、コンビニで使い捨てカメラを買うと、少し遠くの公園まで行ってタロウを遊ばせます。そして、頃合いを見て楽しそうにしている姿を撮影しました。
これは、「飼い主のもとに帰って楽しそうにしているタロウ」の写真です。これを「飼い主」が先輩の家に送れば、きっと先輩は安心します。
「きゃうーん!」
タロウは広い公園の中を楽しそうに駆け回っています。わたしにもしっぽを振ってきます。
そんな姿を見ていると、今すぐ消し去りたくなってきます。この卑小な存在は、どうせ先輩にもそんなふうに媚を売っているのです。
そうやってわたしから先輩を奪っていくのです。
この世で一番大切で、かけがえのない存在を。
やっと見つけられた幸福を。
ほんの気まぐれで。
次にやって来たのは――保健所。
ただ無闇に野に放って、また先輩のところに戻ってきたりしたら厄介です。ここで始末するのが一番手っ取り早いのです。
それに。
このいぬは、わたしから先輩を奪おうとしたから。
こうなるのは仕方がないことなのです。
タロウが不穏な気配を感じたのか怯えて歩かなくなってしまったので、無理やり抱き上げます。子犬は暴れますが、小さいし押さえつけるのは容易です。
わたしもいぬですから、いぬのことはよくわかっています。どんな掴まれ方をしたら動きにくいのか。逃げ出しにくいか。全部わかります。
だって、こうしないと先輩に見てもらえなくなってしまうから。
先輩のひざの上に乗れるのは、ひとりだけです。
先輩の一番も、ひとりだけなのです。
こうしないと、瀬名の方が保健所送りになりかねません。
わたしの腕の中で、タロウがぶるぶる震えています。
「くーん……くーん……」
別に、保健所に連れて行かれただけで死ぬとは限りません。ほかの優しい人のところに行ける可能性もあります。
わたしが必要としているたった唯一のものを、この存在は奪おうとするのです。
決して看過することなどできません。
こうしないと先輩とずっと一緒にいられないから。
邪魔なものは全部消さないと。全部、全部、全部。
明日も明後日も、どれほど時間が経っても、永遠に先輩と一緒にいるために。
「……先輩」
大切な人。
この世で一番。
特別な人。
誰にも渡さない。
誰にも邪魔させない。
わたしだけの、先輩。
瀬名は、保健所の前で足を止めました。
* *
「瀬名、ただいま」
先輩が家に帰ってきた声。
いつもはうれしくてたまらないはずの声なのに、瀬名の胸に突き刺さるようでした。
「瀬名?」
いつもはすぐ出迎えに来る瀬名がやって来ないので、先輩は不思議そうな顔でリビングに入って来ます。
「わう……っ」
先輩の顔を見た瞬間、急に目が熱くなって、涙がこぼれます。
「せ、瀬名!? どうしたんだ!?」
慌てた彼は、優しく頭を撫でてくれます。瀬名にはそんな資格ないのに。
瀬名は、全部話しました。
タロウが来て、すごく苦しかったこと。
先輩に捨てられるんじゃないかって、不安で、いてもたってもいられなくて。
だから、タロウを保健所に連れて行ったこと。
でも、瀬名にはできませんでした。
タロウを抱えたまま、家に戻ってきました。
保健所がこわい気持ちは、嫌というほど分かるから。
そんなところにタロウを置いていくなんて、できませんでした。
タロウはお出かけで疲れたのか、寝床にぐてーんとひっくり返って、いびきをかいています。
「……辛い思いをさせちゃったな」
瀬名の話を聞いた先輩は、優しくぎゅっとしてくれました。
「瀬名、先輩に捨てられたくないです……っ」
その胸に顔をうずめて、泣きじゃくります。
「先輩と、ずっとずっと一緒にいたいです。先輩と離れたくないです。先輩がいないと生きていけないです」
よく知った大きな手が、頭をなでなでしてくれます。
瀬名が泣き止むまで、ずっと。
「俺が瀬名を捨てたりするはずないよ」
「わう……」
「……でも、瀬名がしようとしたのは、いけないことだよ。すごくいけないことだ」
それは、至極道理な言葉でした。
「もしも、はぐれた瀬名を拾った誰かが保健所に連れて行ったら、俺はその人を絶対に許せないよ。瀬名は、それと同じことをやったんだ」
「わう……ごめんなさい」
「タロウにも、ちゃんと謝ろうな」
「はい……」
小さな柴犬は、いつの間にか起きていました。
何事かと、きょとんとこちらを見ています。
「タロウ、ごめんなさい……っ」
瀬名は、タロウに頭を下げました。
「わおん!」
まだ小さい柴犬は、一鳴きしました。大して気にしていない様子です。
むしろ、公園でいっぱい遊べて満足そうでした。
「ちゃんと謝れてえらいな」
「わう……」
えらくないです。あんなにひどいことをしようとしていたのですから。
「瀬名、先輩と一緒にいる資格ないです……」
「そんなに気に病むことないよ。確かにやろうとしたことはよくないけど、ちゃんと途中で思いとどまれて、正直に話してくれたじゃないか」
「……先輩、瀬名とずっと一緒にいてくれますか?」
「ああ、もちろん」
よかった、とそう思っている自分に気づいて、嫌な気持ちになりました。
なんだかとても苦しいです。先輩が大好きな気持ちが。この身に収まらないほどに膨れ上がっています。
先輩は、優しい声で言います。
「瀬名だって、ほかの優しい飼い主に拾われていたら、きっとその人になついて、俺のことは眼中になかったよ」
「え……?」
もし、ほかの人に拾われていたら?
瀬名は、その人のことを好きになっていたのでしょうか?
「ち、違います。瀬名にとって先輩は特別です。先輩が先輩じゃなかったら、瀬名はこんなに先輩といてぽかぽかしません。こんなに先輩とずっと一緒にいたいなんて思いません。先輩が先輩だから、瀬名は先輩のお嫁さんになりたいです」
そう言うと、先輩は笑って、瀬名の頭を撫でてくれます。
「俺もそんな瀬名のことが大好きだよ。瀬名が瀬名だから、好きなんだ」
「わう……」
* *
その後、無事タロウの飼い主から連絡が来ました。
家から抜け出して迷子になっていたタロウをずっと探していたそうです。
タロウは、無事飼い主のところに帰れたのです。
「……タロウと飼い主さん、とっても幸せそうでした」
飼い主さんのもとに送り届けた帰り。
瀬名は、先輩と家までの道を歩きます。
久々に飼い主と再会した柴犬は、半泣きでじゃれついていました。
飼い主は、「もう抜け出すんじゃないぞ」と優しく撫でていました。
普段、どれだけ大切にされているか、痛いほど伝わってきます。
タロウがいなくなっていたら、きっと飼い主とその家族はすごく悲しんでいたことでしょう。
永遠に見つからない愛犬に、胸を痛め続けていたことでしょう。
「わう……」
瀬名は、やっぱりあんなことをしなくてよかったです。
でも、先輩に見捨てられると思うと、怖くて怖くて、自分を抑えられなくて、身体が勝手に動いてしまいます。
先輩は、いつまでも瀬名の頭を撫でてくれました。
ざわざわは、消えてなくなっていました。
ですが、これだけはわかります。
あのざわざわは、元から瀬名の内側にあったものなのです。普段は眠っているだけで、なくなることはありません。
先輩とつないでいる手。これがあるなら、ざわざわは収まります。
先輩がちゃんと瀬名を見ていてくれるのなら、何も問題はありません。
瀬名はもう
そう、先輩が見ていてくれる限りは。
「瀬名、今日のごはんはハンバーグだよ」
「わーい!」
瀬名は、大好きな人と一緒にうきうきで家に帰ります。こんな日常が永遠に続くことを信じて。
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