15 フライ・ミ・トゥ・ザ・ムーン

 三田菜々子みたななこは木の根元で震えていた。

 その原因が寒さなのか、恐怖なのか、それとも痛みのせいなのか、もはや菜々子自身にもよくわからなくなっていた。


 菜々子は冷たい土をすくい、それを放る。

 爪が汚れただろうが、今となってはどうでもいい。


 腕にかすり傷があった。

 かすり傷といってもやや大きいが、とりあえず血はとまっていたし、新納に比べれば、はるかにましだ。


 〈死ぬこと以外はかすり傷〉

 大学でお調子者の同級生が着ていたTシャツに書かれていた文言を思い出す。

 〈本当にむかつく文句〉

 同級生に罪はないかもしれない。しかし、今の菜々子にとって彼は親の仇にも等しい存在となっている。


 たとえかすり傷であっても、それを負ったまま身動きできずに震えている。

 あのTシャツを着ていた男を、あのTシャツを作った誰かを、あの文言を考え出した誰かを菜々子は呪う。

 

 〈みんな、今の私みたいになればいいんだ〉

 寒くて痛くて、そのうえ空腹。

 月明かりくらいしかない夜に1人。

 「死ぬこと以外はかすり傷」というTシャツを着たままじわじわと苦しめば良いのだ。


 〈どうしたら良いの?〉

 矢車は無事ではないだろう。

 後東と与田は逃げ切れなかったはずだ。

 菜々子はあのときを思い出す。


 助けてくれようとした新納にいのは死んだ。

 火花が飛び散ったようだった。あるいは花火だったかもしれない。

 鮮やかに花開く赤。

 はじけた肉片や骨片が菜々子に飛び散り、生暖かい血が彼女の服を濡らし、すぐに冷えていった。

 菜々子の頬と肩口は新納に当たらなかった弾がかすり、体を熱くした。

 痛いというよりもただただ熱かった。

 

 熱さに飛び上がった菜々子はそのまま山の斜面を転がり落ちた。

 こちらのほうではさしたる傷も追わずに声から遠ざかるようにした。


 ありがたいことに気がついたときには血は止まっていた。

 新納が我が身をもって防いでくれたおかげで菜々子は無事である。

 

 菜々子はポケットに手をつっこむと、丸いものを探り当てる。

 彼女は血と泥まみれになった手で新納の眼球を取り出して見つめる。


 彼がその頭を派手に弾けさせた時に菜々子のところに飛んできたものだ。

 どういうわけかこれを菜々子は握りしめながら逃げた。

 彼が生きていれば、これを返さなくてはならないが、多分返す必要はないだろう。

 通常だったら気味が悪いその代物が今の菜々子の心の支えとなっていた。


 菜々子は新納の眼球に話しかける。


 「ねぇ、新納先輩。先輩、私のこと、ちょっと良いって思ったでしょ?」

 菜々子は眼球にむかって気のある男の前で見せる笑い方をしてみる。

 光を失った眼球は当然何も反応しない。

 それでも菜々子は続ける。

 

 「知ってました? 私、普通に彼氏いるんですよ。そういうの、ちゃんと確認しないとダメなんですよ」

 菜々子の彼氏というのはバイト先の先輩である。

 なんとなく良いと思っていたら、相手から声をかけられてなんとなくつきあい始めた。

 それなりにアクティヴでそれなりにやさしい。

 ささいなことでケンカし、なんとなく仲直りし、体をかさねて、そして眠る。

 大学生らしいと菜々子が感じる交際だった。


 やっくんという愛称でよぶ彼氏とは就職を機に少しずつ疎遠そえんになっていくのだろう。

 やっくんは真面目な学生でもなければ、頭が良いわけでもない。流されるように就職し、2年くらいで離職するだろう。忙しくなった彼は前のようにやさしくなくなり、菜々子は少しずつ距離を置いてしまうに違いない。


 菜々子は就職先で別の出会いをするだろう。

 どうであれ、新納は菜々子の相手とはならない。


 〈本当に……〉

 菜々子は苦笑すると、眼球にように声をだす。

 「その行動からして、いかにも童貞っぽいですから」

 菜々子は眼球に優しくくちづけをする。

 キスの後に唇を舐めると、少しだけ鉄の味がした。


 「でもね、最後の最後の先輩は少しだけ格好良かったんです」

 いわゆる吊り橋効果というやつなのだろう。

 限界集落で突然薬を盛られて、気がつくと監禁されている。

 一緒にいたはずの教授は姿を消している。

 先に調査に入っていたはずの大学院生も何をしているかわからない。

 外と連絡をとることもかなわない。

 恐怖心による興奮状態が目の前にいる異性への興奮状態に変換されることは容易に考えられることだ。

 もちろん、菜々子だけではなく、新納も同じような理由で菜々子に好意をもったともいえる。


 〈でも……〉


 それでも菜々子が新納に少しかれたのは事実だった。

 

 蔵での新納との会話も新鮮だった。

 なんとなく流行を追い、それなりに恥ずかしくない格好をして、押さえるところは押さえている彼氏と新納はまったく異なるタイプだった。

 

 新納の服は母親がスーパーで買ってきたであろうことがありありとわかるものだ。

 彼の髪型も子供の頃から変わっていないだろう。

 彼は子供の頃から通っている床屋に行って「いつもみたく」と言うだけに違いない。それに寝癖が多少あっても気にしないのだろう。


 そのうえ素材も磨けば光るとかいう類ではない。

 身ぎれいにしてようやく中の下くらいになるような見てくれの痩せぎすの陰気な男。


 その痩せぎすの男が愛するものは、かび臭い民俗学。

 いくら熱く語っても決して女性受けしなさそうな話題なのに、それをいきいきと語る彼は少しだけ格好良かった。


 「だから、帰ったら、先輩の彼女にはなれなくても、先輩が彼女作るお手伝いはできたらなって思ってたんです」

 菜々子は眼球に向かってつぶやく。


 似合う服を一緒に選び、美容院で髪を切らせてさっぱりとさせる。

 民俗学だけでは話がもたないだろうから、今の流行のお店みたいなのをいくつか一緒に見て回って話の引き出しを増やさせる。

 アドバイス料として夕飯ぐらいはおごってもらう。


 〈でも、それって……〉


 「なんだかデートみたいですよね。言っておきますけど、私、彼氏いますからね。だから、デートでなくて訓練、お手伝い、ブートキャンプです」

 眼球がきらりと光ったのは新納の魂が反応したからではない。

 菜々子の目から新納の目に落ちた涙、それに月の光が反射しただけだ。


 菜々子はふぅーっと白い息を吐く。

 新納をポケットにしまう。


 〈少しだけ休んで。それからまた歩きはじめよう〉


 どこからか、荒い息遣いのようなものが聞こえる。

 菜々子はポケットから新納を取り出して問いかける。


 「先輩、聞こえました? 野犬でもいるのかな?」

 眼球は当然答えない。

 しかし、菜々子は眼球のきらめき具合から新納の声を感じられるようになっていた。


 「ですよね。村のおかしな人たちも怖いけど、野犬も怖いですよね。先輩なんて、一口で丸呑みされちゃいますもんね」

 菜々子は立ち上がる。


 彼女は歩き始める。

 どこへ進めば良いのかはわからない。

 それでも下っていけばなんとかなるだろう。

 新納はそのように言っている。


 荒い息遣いはどんどん近づいてくる。

 月の光の下にあらわれたのは、大型犬よりもなお大きい黒い獣だった。

 獣は菜々子の近くに来ると二足で立ち上がった。

 胸元に白いVの字が見える。


 大きく黒い獣が月に向かって吠える。

 菜々子は逃げようとする。


 クマに追いかけられる若い女性、童謡に悪夢を目一杯織り交ぜたような光景はすぐに終わりをむかえる。

 童謡と違ってお嬢さんは逃してもらえないのだ。

 菜々子の足に噛みついて転がした獣は、前足ですくい上げるように払った。


 菜々子は明るく輝く月めがけて飛んでいく。

 彼女は月にまではたどり着かず、木の枝にぶつかり地面に落ちた。


 ポケットから彼女の話し相手がぽろりと落ちる。


 痙攣する彼女を口でひきずりながら、獣はもと来た道を戻っていく。

 彼女の涙で少しだけ潤いを取り戻した眼球は土に還っていくだろう。

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