05 村境

 新納進にいのすすむはうんざりしていた。

 執拗に繰り返される狂人の八つ当たりのせいで、車内の空気は最悪だったからだ。


 「君は運転がなんて下手くそなんだ!」

 もう1台の車に多少遅れたくらいで、当たり散らす


 「僕だったら、あんなやつより遅くなるなんてありえない」

 

 〈だったらてめぇが運転しろよ〉

 進は心のなかで何度も答えてやったものだ。

 もちろん、口からは「はい」、「すみません」という言葉だけを発することに徹したうえでのことである。


 同乗の三田菜々子みたななこは涙目で「わたし、運転慣れていないので、ハンドル握りながらお話できません」と言ったきり、運転中は市野井を無視するようになった。

 停車したらしたで「お腹痛い」といって三田はトイレに走り去っていく。彼女が車に戻ってくるのは常に出発間際であった。


 さすがの市野井でも避けられていることがわかったのか、三田に当たることはなくなった。

 必然的に進が市野井のサンドバッグとなるわけである。


 進はハンドルを握りながら、夢想する。

 このハンドルに市野井の顔を叩きつけたら、どんなに気持ちが良いだろう。

 クラクションが壊れるくらいに顔を叩きつけ、そのあと、ドアから放り出したら、どれほど胸が高鳴るか。

 外で土下座させて、上から頭を踏み抜いたらいかほどスッキリするだろう。

 もし善行にメーターがあったならば、泣きながら謝る市野井を崖から蹴り落とした瞬間に一気に数字が跳ね上がるだろう。


 市野井の人間性には著しい問題があるのは学科では有名な話だった。

 彼がアカデミックハラスメントアカハラセクシャルハラスメントセクハラで訴えられないのは、呪術的な力のせいだという冗談がある。

 フィールドワーク中に死にかけの行者に出会った若き日の市野井は、これを殺して、行者が厳しい修行を通して手に入れた呪法を我が物としたのだというものだ。

 この冗談には続きがあって、行者の呪いで市野井は醜くなり、女性とは無縁の人生を送ることになったという。

 実際に彼の人生が女性とは無縁かどうかは定かではないが、少なくとも市野井は未婚である。

 口が悪く下品な話が好きな男子学生の間で語り継がれている都市伝説めいたものに「風俗に訪れる市野井」という話があるくらいだ。

 語り手の知り合いの知り合いに金に困った女子学生がいる。彼女が風俗店でアルバイトしていると、そこに割引券を握りしめた市野井がやってくるというのだ。彼はひとしきりの行為が終わった後に女子学生が出したレポートについて細かくダメ出しをしたうえで説教をはじめる。それが何度も続くが、女子学生はめげない。彼女は後に「福ではなく禍をもってくる来訪神」として市野井を分析した卒論を提出し、別の教授に絶賛されるというものだ。


 それにしても、なぜ、このようなやつのゼミに入ってしまったのだろう。進は何度も後悔をしている。

 進は高校の頃から民俗学が好きだった。

 大学入学以前から柳田國男や折口信夫を愛読していた彼であったが、ペーパーテストはさほどふるわなかった。

 第1志望の国立大に3度落ちたところで、第2志望の私大に進学した。

 見栄をはって、偏差値の高めのところにしてしまったせいで、学科としては文化研究の寄せ集め的なところに入ってしまった。

 民俗学を担当する教員は市野井の他に1人いたが、都市部の調査を専門にしていて、昔ながらの村落調査的なものをやっているのは市野井だけであった。

 市野井の著者や論文は興味深いものであった。

 講義は大変つまらなかったが、それは気にならなかった。

 ゼミの人数が少ないのは講義がつまらないせいもあったのだろうが、やはり彼の悪行が知れ渡っていたせいもあるのだろう。

 進はそのことに気がつかないようにしていたが、実際にゼミに入ってみると、我が身をもって知らされることになった。


 市野井はお気に入りの女学生だけには優しく、他には理不尽に厳しかった。

 進が2年でゼミに入った時、ゼミ生は4年の六井1人、同級生は後東1人であった。

 3年生は耐えきれなくなってゼミを変更したのだそうだ。通例ゼミの変更は認められないのだが、市野井ゼミに限っては他の教員たちも同情的に取り計らってくれるらしい。

 いなくなった3年生について、市野井は「根性なしが。あんなのじゃ、どこでもやっていけないっ!」と吐き捨てていたが、大学以外のどこでもやっていくことができないのは市野井のほうだということは彼以外の全員の共通認識であったに違いない。

 彼は暴君であり狂人であった。


 ゼミの時間は気まぐれに市野井の雑用をこなす時間にかわった。

 彼が撮りためたフィルムカメラの写真を全て電子データ化し、彼の好きなアイスクリームを買いに行く。コンビニで買ったと言って「スーパーのほうが安いのにっ! 君はバカかっ!」と怒鳴られるのだ。

 市野井はムシの居所が悪くないときは、ゼミ生を飲みに誘ったが、彼は百の位までの端数を払ってくれるだけで基本的に割り勘だった。3人で1万の勘定を請求されたときは、「君らは1人3000円で良いよ」と彼は言うのである。

 「どうして君らは勉強しないんだ」

 彼はビールのジョッキを片手に進に説教をはじめる。

 読みたい本があるのに、それを読む時間を市野井に奪われた、そして現在進行系で奪われながら説教される理不尽さ。その説教を金を払った飲み会の場でされる理不尽さ。

 進はしおらしい態度を取りながらも、心のなかで市野井を顔の形が変わるまで殴ることを夢想するのが常であった。


 進が市野井の十数回目の土下座を心に思い浮かべたあたりで、車は和仁杭おにくい村にたどり着いた。

 車を空き地に駐車させる。

 この空き地の持ち主、ムラザケーの吾郎とは話がついている。


 この村の住人は皆、神奈かんなという名字を持つ。

 昔からある集落にありがちなことで、この手の集落によくある例に漏れず、住人たちは屋号で呼び合っていた。

 村の境に家を持つ神奈吾郎の家の屋号はムラザカイ村境、この地の方言の音そのままに表記するとムラザケーとなる。

 だから彼はムラザケーの吾郎と呼ばれる。

 彼は兄弟も両親もすでに亡く、結婚もしていなかった。

 だから、ムラザケーは吾郎だけしか現存せず、彼は単にムラザケーと呼ばれることも多かった。


 ムラザケーの敷地を老婆がホウキをもって掃除していた。

 ムラザケーの吾郎の家には桜が植えてある。

 老婆は朝露でやや湿った桜の落ち葉を丁寧に隅の方に寄せていた。

 

 進は彼女の名前を覚えていない。

 先に到着していた矢車の会話から、この老婆がイッポンマツのヨシコという名であることをかろうじて思い出す。

 

 〈矢車さんはよくおぼえていたな。自分の調査地でもないのに〉

 進は不思議に思う。

 ここは院生の六井絵里が調査をはじめた場所だ。

 彼女は全然別の目的でこの地に調査に入り、幸運にも「秘祭」にたどり着いた。

 それをまとめた卒論を読んだ市野井が学生の調査実習名目で祭りの記録の手伝いの人員を駆り出し始めたのだ。

 任期付きの研究員である矢車もそこに手伝いの名目で駆り出されているだけだ。

 矢車は別に市野井のプロジェクト資金で雇われているわけではないのに、それを強引に無償で働かせるあたりが暴君にして狂人市野井らしいところだった。


 「ムラザケーの分家の当主がおっちんじまってな。分家っても私らも知らねーくらい遠い分家なんだけどな。それで通夜と葬式があって出かけてるんだ」

 イッポンマツのヨシコの言葉に市野井が不機嫌そうな表情で矢車をにらむ。


 「ご愁傷様です。私たちはムラザケーの吾郎さんの家に泊めていただこうと思っていたのですが、出直したほうが……」

 市野井ににらまれた矢車はイッポンマツのヨシコに話しかける

  

 後東や三田はムラザケーの吾郎がいないと聞いて、表情が緩んだようだった。


 ムラザケーの吾郎はゼミの女子学生全員を口説こうとしていた。

 自分の娘――といっても吾郎は独身なので、あくまで娘がいればという仮定の話だが――よりも若い女子学生をあからさまに性的な対象として見つめ続けていた。

 その視線は視姦される後東や三田でなくても露骨にわかるぐらいであった。


 当たり前だが、後藤や三田は彼を露骨に避けていた。

 この地の調査を始めた六井ですら彼のことは少し苦手なようだった。


 「絵里さんはな、今、大祭の巫女役でおこもり中なんだわ。絵里さん、いんかったら大祭もできねーし、ほんとにありがてーこったわ」

 イッポンマツのヨシコはホウキ片手に笑う。

 ところどころ歯の抜けた口があらわになる。

 ヨシコは70過ぎたところだ。

 昔ならともかく、今の老人にしては老けすぎな気もする。

 医療施設にも気軽にアクセスできない土地ゆえなのか。


 それにしても、六井絵里だ。

 彼女の名前を聞くだけで腹が立つのはどうしてだろう。

 彼女が市野井に気に入られているからだろうか。

 

 いや、そうではない。

 自分をさしおいて先に進んでいく六井に腹がたったのだ。

 

 進は自分より年下でありながら、研究者としての道を歩み始めた六井をライバル視していた。

 

 自分だってあんな調査地に出会う僥倖ぎょうこうに恵まれれば……。

 いや、そのような僥倖になど恵まれなくとも、浪人していなければ自分だって……。

 私大の学生の癖して、学会誌に論文が受理されるなんて……。


 このようなとき、進は自分も同じ大学の学生であることを頭の中から消し去り、自分が3度にわたり落ちた国立大学の学生であるかのような錯覚を覚えるのだった。

 

 「吾郎からカギはあずかってるから、いつもどおりつかってくだせー」

 イッポンマツのヨシコは再び歯のない口で笑顔をつくりながら、矢車にカギを渡す。


 矢車がムラザケーの吾郎の家のカギを開けると、市野井を除く全員が機材や荷物を運び入れ始める。


 〈吾郎はどうやってふもとの町まで行ったのだろう〉

 吾郎がいつも使っている軽トラが敷地内にある。それが不思議だった。

 進以外は気づいていないようだった。 


 「夕方にはムシムケーの行列があるからよ、皆さんも見に来なせー」

 

 「ムシムケー?」

 「虫さんをお迎えおむけーすることだよ」

 玄関で暇そうにしている市野井がヨシコにたずねているのが聞こえた。

 

 〈虫送り神事ならばわかるが、虫迎えムシムケーとはなんだろう?〉

 耳慣れない神事の名前に対する知的好奇心が新納進の頭から軽トラのことを消し去った。

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