06 日記
彼女は民俗学に興味があるわけではなかった。
そもそも学問全体に興味がなかった。大学は名前と場所で選んだし、学科もそこまで熟考して選んだわけではない。大学というのは別に学問だけをやるところではない。菜々子はこのごくごく当たり前のことを理解していた。
そのような彼女が市野井ゼミという分野的にも担当者の人格的にも面倒くさそうなゼミにいるのにはさしたる理由はなかった。
楽そうなゼミの抽選にも漏れ、比較的おもしろそうなゼミの面接にも落ち、このゼミに入るしかなかった。ただそれだけである。
「虫送りというのは
市野井は矢車に学生を試すように質問を投げかけている。
矢車は民俗学の専門家ではないかもしれないが、隣接分野の一人前の研究者ではある。この程度の質問に答えられないということはないだろう。
しかし、どのように答えても矢車はいびられる可能性が高い。
万が一にも間違えば、市野井は喜々としていびるに違いない。しっかりと答えても不機嫌になって難癖をつける箇所を探すか、嫌味を言うだけだろう。
それは行きの車の中で菜々子が目撃し、自らも体験したことであった。
「虫送りというのは、稲作をおこなううえで害虫となる虫を集めて、ムラの外に送り出す神事です。類感呪術の原理にもとづいた神事ですが、
矢車は無難に答えることを選んだようだ。
菜々子にはよくわからなかったが、さすがに間違い等はなかったようだ。
市野井は矢車の答えに「ふん」と鼻を鳴らす。
「これぐらいもわからんバカだったら、歩いて帰ってもらうところだった」
〈はっ? バカなんじゃないの? 自分で運転手兼雑用係として連れてきておいて〉
大学教授という世間には知的だと思われる職業、50代という年齢、これらを悪い意味でまったく感じさせない幼稚な男に菜々子は心底あきれている。
あきれたという言葉よりふさわしい言葉がないだろうかと真剣に考えるくらいにあきれている。かといって、それで矢車に肩入れするかというとそうでもない。
矢車は特別に魅力的というわけではなかった。
背が高くて、教員としては若く、親切である。
でも、それだけだ。
矢車より背が高い男は山ほどいるだろう。
それに彼は別に美男子というわけではないと菜々子は思っている。
高学歴かもしれないが、任期付きの彼と付き合ったって、
そもそも教員を異性として見る学生などほとんどいない。
素敵な男の子は同年代にもいるし、年上ならば外でいくらでも出会えるだろう。
〈そんなので惚れるのは後東さんみたいなマジメちゃんだけだ〉
菜々子は後東をちらりと見る。
あの人が矢車を見る時の顔はこちらが恥ずかしくて見ていられない。
〈帰りは六井さんが増えるし、あたし、矢車さんの車に乗せてもらおう〉
後部座席で寝ていれば、後東の恋路の邪魔をすることもないだろう。
市野井もお気に入りの六井が車に乗っていれば、菜々子がいなくても気にもしないだろう。
「……そう、『虫迎え』だ。どのような神事かはわからないが、記録に残す価値がある。君みたいな哲学者もどきで理論派気取りのちり紙にも劣る論文よりずっと価値のあるものだよ」
絡み続ける市野井に、矢車は微笑みを絶やさぬままで、撮影機材の入ったバッグを用意し始める。
「虫迎えは夕方だ。それまで少し休憩しよう。矢車くんは機材とバッテリーのチェックをしておけ。カメラは全部使うからな」
市野井はそう言い捨てると、奥座敷に入って横になった。
菜々子も休憩したかったが、自分たちが寝室として普段使っているのは奥座敷と今いる次の間だ。
奥座敷に市野井が入っていってしまった以上、そちらには行きたくない。
しかし、次の間には皆がいて、寝られる雰囲気でもない。
「疲れている方は休んでください。私は縁側のほうで機材のチェックとかしますからね」
矢車はそのように言ってくれたが、奥座敷に誰も行かない以上、休むのは男女問わず次の間だ。
後東は矢車の手伝いをするだろうし、他は男ばかりだ。
彼らの前で昼寝をするのはどうも嫌だ。
菜々子はしょうがないので、仏間でぼーっとする。
ムラザケーの
香炉から線香の煙と香りがたちのぼっている。
先程、矢車(とそれにくっついていた後東)があげたものだろう。
民俗学者でありながら、市野井はこのような常識的な気遣いができない男だ。
菜々子は線香をあげ、おりんを鳴らす。
ちーんという音の中で手をあわせた菜々子は遺影の人々に向かって心の中で語りかける。
〈お世話になります。ていうか、あんなのを世話させちゃってごめんなさい。あんまり騒がずに帰りますから許してください〉
手を合わせ終えた菜々子は仏壇のそばに小さなノートを見つけた。
仏壇の影になっていたのか、先に線香もあげた矢車たちも気が付かなかったようだ。
あるいは気が付いたが、手にとって開くのをやめたのだろうか。
その可能性もあるだろう。
ノートの中身は日記だったからだ。
菜々子は手にとって反射的に開いてしまったが、日記だとわかってすぐに閉じるつもりであった。
彼女が閉じなかった、いや閉じることができなかったのは、開いたところに自分たちの名前が載っていたからだ。
もちろん、自分のことが書かれていたからと言って他人の日記を読み進めるのは褒められた行為ではない。
しかし、自分の父と変わらない年代の男が自分たちを異性として品評している記録には嫌悪感をいだかせながらも、それを閉じさせない魔力があった。
菜々子は日記のページを繰る。
最初のうちは吾郎は六井に恋い焦がれていたようだ。
といっても、そもそもその頃は六井以外に若い女性はいなかった。
限界集落に久々にやってきた若い女性、それだけでも魅力的であろうに、彼女は民俗学者の卵だけあって人の話に耳を傾けることに尽力していたようだ。
彼女の態度は調査の方法としては問題ないものだろう。
問題はこの聞き手がそれなりに愛らしい若い女性であったことだ。
「彼女は俺の話を目を輝かせながら聞いてくれる。もしかしたら、俺に気があるのかもしれない」
吾郎はこのように記していた。
もちろん勘違いのはずだ。
六井は慣れていない男を勘違いさせやすいタイプなのだろうと菜々子は思う。
媚びるような態度を取るというわけではないし、男女どちらを相手にしても態度が変わらない。
にこにこしながら話しかけ、相手の話をしっかりと聞く。
ただそれだけなのだが、彼女は相手の話をほんとうに面白そうに聞くのだ。
それがどうも女性と話す経験を少ない男を惹きつけるらしい。
〈でも、それで六井さんを責めるのはかわいそうかも〉
菜々子は思う。
六井は自分がレポートで悩んでいる時に相談したときも、しっかりと聞いてくれた。
菜々子が思いつきで口走ったことについてもにこにこしながら聞き、面白いと感じたところをたくさんあげてくれた。かといって、押し付けがましい態度をとるわけでもないし、先輩面をするわけでもない。
彼女の本質は社交的な善人なのだ。
彼女がいかに聞き上手の善人であったとしても好きでもない男に言い寄られるのは困るのだろう。日記には口説こうとするとガードが硬くなることを悩んでいる様子が書かれていた。最初のうちこそ、「恥ずかしがっているだけ」、「
そのあとに目をつけたのが、後東と菜々子だったようだ。
ただ、こちらに関してはどちらも最初から避けがちであったため、容姿に関しての品評や妄想で埋め尽くされていた。
そして、どのようにすれば相手を口説けるのか、そのシミュレーション、いや妄想がなされていた。
「顔普通、胸普通、愛想なし」の菜々子は「顔地味だが磨けば光るかも、胸大きい、礼儀正しい」後東がだめだったときのキープ用らしかった。
「金をちらつかせれば股を開く」
吾郎が女性に縁がなかったのが本当によく分かる一文が、菜々子「攻略メモ」と題された部分には記されていた。
このいやらしい日記はすぐさま焚き火にでもくべてやりたい代物であったが、それでも菜々子はいまだに閉じることができなかった。日記の日付が最近に近づくにつれて、日記の文章は奇妙にそして過激なものへとなっていったからだ。
「このままでは見限られる」
「大祭は俺が死んだ後におこなわれるべきだ」
「誰でも良いから強引に」
「絵里も後東もだめなら、小柄な三田でもどこかに誘い出して」
このような物騒な文句が並び始める。
吾郎が自分を犯そうとしていたことを知り、菜々子は恐怖と嫌悪感で吐きそうになった。
菜々子が無事なのはただの幸運でしかない。
〈ここにはもう来られない〉
〈もう帰りたい〉
しかし、来年も引き続きここで調査実習となったら、どうすれば良いのだろう。
市野井に相談したところで、何も変わらないだろう。あの男ならば「良い経験だ」とか「減るものでもないだろう」くらいは言いかねない。
矢車に相談して、彼経由で別の教授に知らせて、他ゼミに移籍できるようにしてもらうとかできないだろうか。
そのようなことを考えながら、菜々子はページを繰る。
吾郎の日記に自分たちの名前が出てくるのは先程のところが最後であとはよくわからないことの羅列だった。
「まだできる」
「俺はやれる」
「見捨てないでくれ」
「逃げられない」
「大祭は嫌だ」
「ありえない」
「見限られる」
「神様」
最後は次のようななぐり書きで終わっていた。
「いやだいやだおれはおれのもの」
菜々子はあたりを見回し、ノートを自分のカバンにしまった。
幸いなことに菜々子のことを見ているものはいなかった。
〈後東さんの邪魔をして悪いけど……機材の準備を手伝おう〉
吾郎がいなくても一人でいるのは怖い。
日暮れまではまだ時間がある。
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