07 虫迎え
横では三田が自分にぴったりとくっつくように寝ている。
アラームは16時にかけた。ほんの少しの間の仮眠だ。
部屋の中はまだ明るいが、もうすぐ日も暮れるだろう。
「三田さん、起きよ」
佳波は軽くゆすって三田を起こそうとする。
三田が佳波のタオルケットも我がものとし、器用にくるまり直したところで佳波は後輩を起こすことをいったんあきらめた。
ふすまをあけると、縁側で矢車が灰皿を置いてタバコを吸っているのが見えた。
新納と与田はまだ寝ているようだった。
佳波はポケットのタバコを確認すると、まだ寝ている2人を起こさないように静かにしかし素早く矢車のそばに駆け寄る。
隣に座ってタバコを取り出すと、矢車がすっとライターを差し出してくれた。
彼のタバコに顔を寄せて火をもらいたかった。
佳波はそう思いながらも、自分のものではない男に近づける瞬間を楽しむ。
「吾郎さんは喫煙者だからこういうとき助かるね」
矢車は吾郎の家の灰皿に灰を落とすとタバコをくわえて空をあおぐ。
彼の言葉に佳波はだまってうなずくと煙を吐き出す。
空は夕暮れの準備に忙しい。
「あんまり吸っていると六井先輩にばれちゃいますよ」
佳波は少し意地悪なことを言ってみる。
矢車はふぅーっと煙を吐き出してから、苦笑する。
「本当だ。多分、夜も眠くなって吸っちゃっうんだろうね。それを当然のように目撃されちゃって、後で絵里さんに怒られてしまうんだよ、僕は」
そう言いながら頭をかく矢車、この年上の男の仕草が佳波には可愛らしいものに思える
彼は六井の前で言い訳をするだろう。じゃれあいのようなお説教を経て、2人は
幸せな彼らの様子をじっと見ていたい。佳波は再び煙をゆっくりと吐き出しながら、そのようなことを考える。。
「さて、これを吸い終わったら、市野井先生を起こして、撮影に向かおうか。
そう言うと、矢車はタバコを灰皿でもみ消した。
「わたし、先生を起こしてきますから、矢車さんは新納くんたちを起こしてあげてください」
どうしてなのかわからないが、市野井は矢車のことを
佳波の理想の恋人たちの片割れであるこの男を市野井の八つ当たりにさらすのはかわいそうだ。
そう考えた佳波は立ち上がって、矢車に笑いかける。
矢車がほっとした顔で「ありがとう」と答えてくれたのが佳波には嬉しかった。
奥座敷のふすまの前で「先生」と呼びかける。
返事がない。
少し待って「先生、入ってよろしいですか?」と再度呼びかける。
うめき声のような返事が聞こえてきて、しばらくするとふすまが開く。
市野井が不機嫌そうな顔で出てきた。
その不機嫌そうな顔もふすまの少し手前で正座して微笑む佳波の顔を見て和らぐ。
胸元を覗き込むような市野井の視線。
自分のことを性的なまなざしで見つめるいやらしい視線。
人はふとした拍子に隠しているものが表に出てくる。
それは市野井に限ったことではないだろう。
佳波は嫌悪感を表情に出さないように気をつける。
「先生、そろそろ夕方です。虫迎えがあるから準備しませんと」
市野井は佳波の言葉ににっこりと笑ってうなずく。
ただの笑顔であるが、視線の動きがそれを台無しにしている。
「イッポンマツのヨシコさんがおっしゃってましたが、虫迎えの行列は巫女役の六井先輩も混ざるんだそうですね。先輩、スタイルがいいから綺麗でしょうね」
佳波は自分の胸元にまとわりつく市野井の視線をそらすために、佳波は話題をかえる。
六井には少し悪い気もするが、これくらいは許してほしい。佳波は心のなかで六井に言い訳をする。
案の定、六井のことを想像したらしい市野井の視線は佳波の胸元から天井へと向く。
鼻の下を伸ばすというのは、このような表情を浮かべている男に使うのだろう。
〈矢車さんが嫌われている原因の1つはこれなのよね〉
市野井はお気に入りの六井が矢車によく助言を求めることや彼に懐いていることを嫌っているのだ。
だとしたら、2人が付き合っていることを知ったらどうなるのだろう。
六井ののろけ方を見る限り、彼女は佳波以外にも話しているだろうし、学内では距離を置いているといっても、外で2人で歩いているところも誰かに目撃されることだって十分にあるだろう。
実際、佳波も学科の学生が2人の仲について噂していることを聞いたことがある。
〈やっぱり先輩たちには少し注意するように言っておかなきゃ〉
天井を向きながら、鼻の下を伸ばしていた市野井の視線が自分の胸元に戻る前に佳波は立ち上がる。
市野井はふんと鼻をならすと、のっそりと立ち上がった。
◆◆◆
日没間もない
厚着をして、靴底や服に使い捨てカイロを貼り付けていても、じっとしているのはなかなかしんどい。
佳波はムラザケーの敷地の脇に据え置いた三脚の前で
「冷えますよね?」
横にいる三田菜々子も小刻みに足踏みをしながら佳波に同意を求めてくる。
「夜の神事は屋内でおこなわれるから、ちょっとの辛抱だよ」
まぁ、屋内といっても戸は開け放しているだろうし、寒いだろうけどねと佳波はつけくわえることを忘れない。
用意したビデオカメラは2台、屋外で移動するものを撮影するときは、1台を三脚で固定し、もう1台は手で構える。
撮影のコツはカメラを動かしすぎないというものだ。
動きのある対象を追うときも急にカメラを動かしすぎると、再生したときに見づらいものとなってしまう。
だから、ゆっくりと追う。
三脚を使えば、それほど難しいことではないが、手で構えているとなかなかしんどい。
だからなのか、三脚で撮影するほうは佳波と三田という女子学生、もう1台のカメラは矢車と新納、与田という男性組が担当することになった。
市野井は当然のように当番には入っていない。
「そろそろです」
矢車の声がする。
集落の外にぼんやりと光を放つ炎が見える。
真っ白な
藁とは言え自分たちの身の丈とさほど変わらないものを掲げるのは結構体力がいることだろうに、この集落の老人たちは元気だ。
佳波は三脚の上のビデオカメラを行列に向けながら、元気な老人たちと藁人形をクローズアップする。
藁人形も紙細工で作られた斎服のようなものを着せられている。これまた紙で作られた顔は結構写実的な描写であり、〈絵の得意な人もいるのかしら〉などと佳波は思ってしまう。
(妙にリアルですよね)
カメラに声が入らないように三田が耳打ちしてくる。
(同感。ちょっと怖いよね)
佳波も三田に耳打ちをする。
白装束の老人たちに囲まれて歩んでくるのは
(あ、先輩ですよ! うわ、かわいい!)
三田が再び耳打ちしてくる。
六井は「美しい」というよりも「かわいい」という言葉が似合う女性であった。
だから、普段ならば三田の感想には違和感を持ったりしないが、今は違った。
今歩く先輩に「かわいい」という表現は合わない。
斎服の老人たちに囲まれて伏し目がちで歩む六井絵里の姿は美しかった。
彼女は色白というわけではない。
誰が見ても色白な佳波と並ぶと黒く見える程度に日焼けをしていた六井であったが、それを感じさせないように透き通る肌をしていた。
彼女が羽織っている千早に薄青色で記されたカニのような紋に似た青白さであった。
六井は佳波にも恋人である矢車にも目を向けず行列の中、歩み進む。
青白い頬を寒気にさらし、伏し目がちながらも、その目は熱っぽく潤んで、どこを見ているのかがよくわからない。
その姿は巫女といういよりも
神をその身に宿したかのような六井はしずしずと歩み去り、神社の中へと消えていく。
「絵里さん、借りといてすまねーんだけど、彼女が籠もっている場所は撮らせてあげられねーんだ」
学内では横暴な狂王として振る舞う市野井であったが、調査地との関係維持を第一に考える現役の民俗学者でもある。ここは文句も言わずににこやかに引いた。彼はこまやかな気遣いはできないが、相手の発言の意図を理解できないわけではない。
「もちろん、このあとの
老人の発言に市野井がにこやかに「もちろんです」と答えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます