II 傍観

 幾晩過ぎたことであろう。

 六井絵里むついえりには正確な日数がわからない。

 悪夢のような直会なおらいのあと、絵里は朝晩の区別もできないくらいに眠りとつかのま覚醒をくりかえした。

 深い眠り、浅い覚醒、浅い眠り、つかのまの覚醒、そして、深い眠り……。目が覚めてもうつらうつらしているうちにすぐに再び眠りにつく。


 目覚めて動けるようになってからは朝晩の区別こそつくようになったが、それでも自分自身が夢の中にいるような感覚をぬぐうことが絵里にはできなかった。


 相変わらずの薄暗くカビ臭い部屋。ただ、薄暗さは日当たりが極端に悪いというだけで窓がないわけではない。

 見慣れた村の老女たちたちが食事を持ってきてくれるし、風呂もわかしてくれる。風呂から出ると清潔な代えの寝間着が用意されている。

 絵里が夢とうつつの間をさまよっているうちこそは、老女たちが交代で絵里のそばについていたようだ。しかし、今は特に見張りがいるわけではない。

 

 「私はいつでも出ていける」

 絵里はつぶやいてみる。

 彼女は出ていきたいし、出ていこうと思っている。

 それを妨げるものはなにもない。

 しかし、どういうわけか出ていく気にならないのだ。


 「大分でーぶん馴染んだねー」

 ある日、食事を持ってきてくれた女の1人、イッポンマツのヨシコが絵里に声をかけた。

 何のことかわからなかったので、返事をしなかった。

 ただ、もしわかっていても返事はしなかっただろう。

 とにかく空腹だったのだ。


 絵里は決して食が細い方ではない。

 「その体のどこにそんなに入るんだろうね」

 恋人が笑う程度にはよく食べた。

 

 しかし、それはあくまでごく普通の女性としてはであった。

 それなのに今はどうであろう。

 運ばれてくる食事は考えられない量であった。

 体育会の学生5人が囲んでようやく食べ切れそうな量、それを今の絵里は軽く平らげるのであった。


 ヨシコが配膳しおえるのを絵里は待たない。いや、待つことができない。

 無言で箸をつかむと、目の前にあるものから食べ始めていく。

 

 「しっかり食べてもらわねーとな。絵里さんはかわえーし食いっぷりもいいし、最高せーこうだわ」


 「なぁ、絵里さんは彼氏ってやつはいるのかね? いや、今いなくてもえーんだ。絵里さんは美人さんで、スタイルすてーるもえーからな。男なんてよりどりみどりだわ」

 絵里は恋人のことを思う。

 会いたくてたまらないのに、この部屋を出ていこうという気にならない。


 「本当にな、あたしの若いわけー頃、そっくりだわ」


 「何いってるんだ? あんたはぶちゃむくれ言われてただろ」


 「そういうあんたは若い頃から乳も腹も垂れ下がっていただろうに」

 

 老婆たちの掛け合いは普段と変わらない。

 ムラザケーの吾郎が薄くそぎ切りにされ、絵里の血肉となる前と変わらない。


 ◆◆◆


 あれだけ食べ続けているのに、絵里の体型は変わらなかった。

 絵里は最近よく遊ぶようになった後輩のことを思い出す。

 彼女は絵里よりも食が細かった。


 「先輩はそんなに食べるのにどうしてスタイルいいんですか?」

 後輩は絵里を羨ましがることが多かったが、彼女は太ってもいるわけでもないし、むしろ胸がしっかりとあって羨ましいぐらいだった。

 一度ふざけて「その胸ちょうだい」と絵里が言ったら、「いつでも変わってあげるのに……私は先輩が羨ましいです」と彼女は言ってくれた。色白できれいな後輩。


 〈後東ちゃんも大樹たいじゅさんと一緒に調査に来るはずだよね〉

 2人に会いたい。

 でも、2人をこの村に来させてはだめだ。

 絵里は大量の食事と睡眠を繰り返しながら、ここに来る知り合いたちのことを思う。しかし、思うだけで具体的な行動にうつそうという気にはならない。


 ◆◆◆


 「明日はな、虫迎えムシムケーがあるからよ。ちょっと寒いさみーかもしれねーけどな、また着替えてな。カンナ様をみんなで村の中に迎えるむけーるんだ」

 カンヨコの米子よねこがある晩そのようなことを言った。


 翌日は米子の言葉通り、朝早くに巫女服に着替えさせられて、集落たちの住人とともに集落の外に出かけた。

 普段は野良着か茶色の多い服を着ている住人たちだ。しかし、今日は異なる。皆、先日の神事のときのように白い斎服さいふくに身を包んでいる。


 絵里は神事および直会での惨事を思い出す。しかし、どういうわけか、それははるか昔の出来事のように感じた。

 より正確に言えば、はるか昔、他人の身に起こった出来事のよう、言うなれば歴史上の出来事のように感じるのだった。

 

 この地で凄惨な戦いがあって、多くの人が犠牲となった。

 歴史上の出来事を本で読んでも、そこに理性で制御しきれないような感情が喚起されることはない。高校生のときに日本史の教科書で飢饉についての記述を目にしても、絵里はそれを読んでも涙するようなことはなかった。当たり前だ。あくまで歴史上の記述であり、受験生だった絵里は受験のための一項目として消費したはずだった。

 絵里の中で吾郎の死や自身の食人行為は、自分や自分の知っている者たちがが生まれるよりはるか昔の出来事のように他人事になりつつあった。


 集落の外に小さな洞窟がある。

 この村の人々に常にくっついて歩き回った彼女でも知らなかったものであった。

 いつもくっついてくる「変な姉ちゃん」からいつでも顔を見せに来てほしい「孫娘」にまでなったにも関わらず知らされていないことは多々あったのだ。


 老人たちは洞窟の中にシートをしく。

 しかれるものはムシロでもなくブルーシートでもなかった。キャラクター柄のレジャーシートをつなぎあわせたものであることがこのひなびた限界集落らしさをあらわしているのかもしれない。印刷されたキャラクターはかすれていた。かすれていなくても絵里には何のキャラクターかわからなかったであろう。彼女が目にしたことがないものであった。見知らぬキャラクター、忘れ去られていた集落、忘れ去られていた人々。

 絵里はぼんやりとそのようなことを考える。どうでも良いことについては考えられるが、先日あった出来事やこれから自分がどうするかについては何も考えることができなかった。いや考えようとすら思わなかった。


 レジャーシートの表面に印刷された見知らぬキャラクターの顔、かすれていてよく判別できない顔をぼうっと眺める。

 絵里は中心に座らされた。

 老人たちは彼女を囲むように車座になって座る。

 カンヨコの一郎が手にした魔法瓶から盃に何かを注ぐ。


 「絵里さん、飲んでくだせー」

 一郎が絵里の前にかしこまって盃を差し出す。

 かすかに濁った液体。

 絵里は黙ってうなずくと盃に口をつける。

 苦い液体であったが絵里は難なく飲み下すことができた。

 車座に座った老人たちが一斉に絵里に対して平伏した。


 「お帰りおけーりなさーませ」

 「カンナ様が亡くなられた。カンナ様が戻ってこられた。万歳ばんぜー、万歳、万歳」


 平伏していた老人たちがすっとたちあがる。


 「虫迎えムシムケーの行列を組んで帰るけーるよ」

 カンヨコの米子の声で老人たちはレジャーシートを片付け始める。

 

 絵里は白装束の老人たちに囲まれるようにして伏し目がちにしずしずと歩む。

 歩いているのは自分であるのに自分でないようであった。


 「彼が前に中南米の薬物を用いた儀礼について教えてくれたな」

 恋人の研究テーマを思い出す。

 本にまとめきれなかったという意識変容について彼は料理の腕前を披露しながら教えてくれた。調査地の家庭料理の1つだというシチューの鍋を前にしてビール片手に講釈する彼の姿が脳裏に浮かぶ。

 鍋の中ではキドニービーンズとサトイモ、カボチャ、肉がぐつぐつと煮えていた。

 どろどろとした赤いスープを見て「なんか魔女の鍋みたい」と言う絵里に対して、「呪術師の用いる薬物は案外もっとシンプルな作り方なんだけどね」と彼は笑いながら話してくれた。

 つい最近のことなのにずいぶんと昔のことのように感じる。


 「意識変容をもたらす薬、要するに幻覚剤の一種を飲むと、自分を外から見ているような感覚になることがあるんだよ」

 調査のために自身も呪術師たちの儀礼に参加したという恋人はそのようなことを平然と言っていた。

 「あれはかなりしんどかった。たぶん、麻薬とかでおかしくなる人はああいう経験を繰り返していくんだろうね。だから、違法薬物、ダメ、絶対」 

 彼のおどけた顔を思い出す。


 ムラザケーの吾郎の家が見えてくる。

 そこにはカメラを構えた恋人の姿があった。親しい後輩の姿もあった。ゼミの教授の姿もゼミ生たちの姿もあった。


 〈彼らはここに居てはいけない〉

 〈ここは危険だ〉

 絵里はそのようなことを思っていたはずだったし、それを警告したかったはずだった。しかし、今は彼らに何かを伝えようという気がなくなっていた。どこかでそれをしないほうが良いことなのであるという意識が働くのだ。


 〈大切なのは神事を無事に終わらせること〉


 絵里は恋人のほうを見ずに歩んでいく。

 恋人は行列の中心を歩む絵里の姿を撮影している。

 そして、絵里は歩みいく自分とそれを撮影する恋人の姿を上方から観察しているのだった。


 「私は私を見ている」

 「あなたが見ている私は私だ」

 絵里の中でなにかよくわからない声が絵里の心の中の声に応える。


 何もかもが辻褄つじつまの合わない話であるのに、絵里は何一つ疑問に思うこともなかった。

 彼女たちは神社へと歩んでいく。

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