08 しし鍋

 与田剛よだたけしは後東の横で白菜をざく切りにしている。

 横にいる後東は長ネギと春菊を切り終え、半解凍の猪肉ししにくをスライスし始めている。

 鍋の準備というのはすぐに終わってしまうものだ。剛にはそれが残念でならない。


 「鍋というのはすぐ準備できるから良いですね」

 〈もっと準備に手間取れば良いのに〉

 剛が口にした言葉と心のなかで思っていたことは正反対だった。


 後東佳波ごとうかなみと並んで料理の準備をする。

 夫婦みたいとまでは言わないが、恋人みたいではないか。

 

 虫迎えという祭事を撮影したあと、市野井ゼミの一行は当初の予定通り、ムラザケーの吾郎の家に泊まらせてもらっていた。

 主のいない家に外から来た者を泊まらせるというのも不用心な話だが、カギをかける習慣がそもそもないような集落だから、考え方が根本的に違うのかもしれない。


 「いつもならね、ここの家主のムラザケーの吾郎さんが料理作って待っててくれるんだけどね」

 この地を初めて訪れた剛に後東が説明をしてくれる。

 最初にゼミで訪れたときは食材を持ってきて、自炊させてもらうつもりだったらしい。

 「絵里ちゃんの大事な友だちににそんなことさせられねーや」と言われたらしく、食材は買わなくなった。

 とはいえ、ただもらいっぱなしでは悪いので、吾郎の好きな饅頭と酒を買い込んでから山へ登るようになったのだそうだ。


 「でも、今日は吾郎さんがいなかったから」

 後東はイノシシ肉を薄く削ぎながら言う。

 食事を用意してくれる人もいなければ、食材もなかった。

 それなのに、今、彼らが鍋の準備などできているのは、集落の人たちが食材を持ってきてくれたからである。


 ◆◆◆


 剛が縁側でぼうっとしているときのことだった。

 庭に入ってきた老婆が「よぉ」と彼に声をかけた。

 剛がぎこちなく頭を下げてようとしたところに、後東が出てきて「ああ、カンヨコの米子さん」と挨拶をした。

 剛はふぅっと息を吐き、力を抜く。


 「今日はムラザケーがな、いねーし、あたしらも祭りの準備でごたごたしててな。だからな、あんたらとゆっくり飲めねーの。ごめんなせーな」

 大ぶりの白菜を抱えたカンヨコの米子という老婆が歯の抜けた顔で笑う。

 米子の夫、一郎はこの集落のまとめ役で夫婦で色々と世話を焼いてくれるらしい。

 後東が教えてくれる。

 

 米子の背後にはさらに2人居た。


 「えー、タニミ! タニミの耕作よ」

 米子が後ろを振り向くと、老婆より少し若い――といっても老人が前に進み出る。

 彼は米子の夫の一郎ではなかったようだ。

 彼は肩にビニール袋に入れた肉の塊を担いでいた。


 「猪肉ししにくだ。鍋かカレーライスレースにでもするといい」

 どさっと縁側に置く。


 「これな、冷凍庫でこちんこちんに凍らしたのを半解凍にしてあるからな。半解凍にしてから切ると薄く削ぎやすいんだ」

 タニミの耕作がぼそっと告げる。

 その言葉を受けてカンヨコの米子がけたけたと笑いながら言う。

 「そうなんよ。ある程度な、凍ってないとな、薄く切るのは難しいんよ。ばあちゃんな、ナマスこえさえるのに本当に苦労したわ」


 何が可笑しいのかわからなかったが、剛は愛想笑いを浮かべる。

 

 「こんなに大きい肉、ありがとうございます。冷凍するだけでも大変そう」

 後東が礼を言っている。


 「絵里先輩がこの前『耕作さんからお肉いただいたの』って鹿肉のカレー食べさせてくれたんです。美味しかったなぁ。美味しくて食べ過ぎちゃいました」


 「なぁに、でけー冷凍庫ねーと猟師はできねーしよ。でけー冷蔵庫あっても入りきらねーもんあるからよぉ」

 仏頂面であったタニミの耕作が後東の言葉に笑顔になる。


 「ほれ、タニミ! 鼻の下伸ばしてねーで。ヨシコさんもはやくザルおいてけ。忙しいんだから帰るけーるぞ!」

 カンヨコの米子はタニミの耕作を小突きながら、もう1人の老婆に前に出るようにと促す。


 イッポンマツのヨシコがザルに入れた食材を縁側に置く。

 「タニミはな、カレーライスレース言ってたけどな、良い白菜もあるし、しし鍋にするとえーよ。そう思って、豆腐やらしらたきやら持ってきたわ」


 3人の老人は食材を置くと回れ右して足早に帰っていく。


 「あわただしかったですね」

 剛の言葉に後東佳波がにっこりと笑う。

 彼は嬉しさと同時に胸がしめつけられるような感覚を覚える。


 ◆◆◆

 

 「しし鍋、ぼたん鍋、呼び方はどうであれ、ごちそうだ」

 教授の市野井は座卓の上で湯気を立てる鍋を前にして上機嫌だ。

 彼は「調査に参加したからこそ味わえるんだ。心して味わいたまえ。君らは普段こんなごちそうは食べられないだろう」と続ける。剛の向かいに座った新納にいの三田みたが市野井の言葉に目を伏せた。


 〈この人は、だいたい一言多いんだよな。誰のおかげかといえば、どちらかといえば六井先輩や佳波さんのおかげなんだろうし〉

 両隣にいる者たちが目を伏せていることに気が付かず上機嫌に喋り続ける市野井を見つめる剛は内心1人呆れる。

 隣に座った後東佳波は慣れているのかあまり気にしていないようだ。

 彼女は菜箸を片手に市野井に「先生、よそいます」と声をかけ、市野井が差し出した器に手際よく野菜や肉をよそっていく。

 

 「新納くん、先生にお酒をついでさしあげて」

 後東の言葉にぎこちなく動こうとする新納を市野井が制する。

 彼はグラスを隣にいた三田菜々子につきつける。


 「三田さん、僕は最初はビールでね」

 三田は無表情に缶ビールを開けると、市野井の差し出すグラスに注いでいく。


 「君は注ぐのが下手くそだなぁ。こういうことも勉強のうちだよ」

 市野井が礼の代わりに余計なことを言った。

 なにか言って市野井の癇癪かんしゃくが炸裂するのを避けたいのだろう。三田は「ごめんなさい、気をつけます」と抑揚のない口調で答えている。


 余計なことを言う割には上機嫌な市野井は50代とは思えぬ食欲でたくさん食べた。


 〈共食いだよな〉

 剛は小太りの市野井をこっそりと見ながら、肉を口にする。

 イノシシの肉というのを食べるのは初めてだったが、巷でいわれる臭みというものは感じなかった。

 

 後東は上機嫌な市野井にビールからはじまり、どんどんと酒を酌していった。

 イノシシ、いやブタのようにがつがつと食らい、しこたま飲んだ市野井はほどなくしてうつらうつらしだした。

 矢車が立ち上がると奥座敷に布団を敷き始めた。

 この2人は市野井を早めに潰して寝かせようとしているらしい。

 息の合った2人の動きに剛は多少の嫉妬をおぼえたが、このまま市野井という余計で不快なことだけを吐き散らすブタが居座り続けるのは嫌だ。彼が退場してくれたほうがありがたかった。

 

 「先生、風邪ひかれたら大変ですから」

 後東が声をかけると、市野井はさすがに余計なことを吐き散らす余力もなくなったのか、「う、うん」とうめいてよろよろと立ち上がった。

 手を貸そうとする矢車の手を邪険に振り払うと、そのまま転ぶ。

 後東がその手を引き、矢車が背後から支えるようにして市野井を奥座敷の布団に運んでいく。


 後東佳波の肩にすがりつくようにして歩む市野井を剛はできる限りみじめな目に遭うようにと呪う。

 ほどなくして後東と矢車が鍋がしつらえられた座卓に戻ってくる。


 「先生は一度寝たら朝まで起きませんから」

 戻ってきた後東がそう言うと、皆の顔が明るくなった。

 あの矢車でさえ表情が変わったので、剛は思わず笑いそうになってしまった。


 剛が好意を寄せている後東佳波。彼女が矢車を熱っぽい視線で眺めているのを目撃して以来、この教員としては若い男があまり好きではない。むしろ嫌いかもしれない。たとえ市野井に八つ当たりされていてもあまり同情しようという気にならないのだ。

 とはいえ、ただあからさまに敵意を向けるようにまでなってしまっては、自分も市野井と同じたぐいの人間となってしまう。

 理不尽な怒りを撒き散らすのでは、自分も市野井のように人間としておかしいやつだということを自他に証明することになってしまう。だから、剛は自分に冷静になるようにと言い聞かせる。


 「じゃあ、あとは僕たちで飲み直そうか」

 3年生の新納が言う。

 

 「まだお肉も野菜も結構残ってますもんね」

 市野井が起きていたときはほとんど喋らなかった2年生の三田がはずんだ声で答える。


 ◆◆◆


 イノシシとブタは案外味が違うというイノシシ肉を食べる時にどこでも交わされていそうな話を「人肉の味は豚肉に似ている」という悪趣味な話につなげたのは新納だった。

 剛も人のことを言えたようなものではないと自覚しているが、新納のコミュニケーション能力は、はなはだしく低いのではないだろうか。

 隣に座っている三田が小声で「おえ」と言って顔をしかめている。

 後東を横目でちらっと見るとこちらは新納と同級生だけあって慣れたものなのだろう。

 表情を変えずに猪肉を食べている。


 新納は上機嫌で続ける。

 「矢車先生はどう思いますか? 外国の調査地とか変なもの食べてそうだから色々知ってそうじゃないですか?」


 新納の悪趣味な発言に表情1つ変えなかった後東の眉が少し上がった。


 〈佳波さんはあいつのことが……〉


 横目で後東のことをちらちらと見ていた剛はやはり嫌な気分になる。

 矢車本人はいつもどおりのにこやかな笑顔で「うーん、どうなんだろうね」と答えている。


 「猿までは食べたことがあるんだけどね」

 矢車はあっけらかんと笑う。

 彼の調査地には猿はいないらしいのだが、同級生の調査地をたずねたときに振る舞ってもらったそうだ。


 「私が食べたのはオナガザルの一種だったけどね。スープに入っていた猿の手がね、子どもの手によく似ているよなとか思ったくらいしか憶えていないなぁ」

 よくそのようなものを食べられるな。これが剛の率直な感想である。

 

 「同期のやつはチンパンジーまで食べたことがあるそうだけど、味についてはやや臭みのある肉ぐらいにしか言っていなかったな」

 これは違法なんだけどねと矢車は口に人差し指を当てる。

 ただ森の中でろくなライフラインもないまま規制だけを受け入れろと言ってもなかなか現地の人には受け入れられないだろうと矢車は言う。

 

 「俺たちよりチンパンジーのほうが人間扱いされるんだ。現地の人はそんなこと言ってたって同期のやつは嘆いていたな……。ただ、ここらへんは外国の話だけでなくてどこでも一緒なのかもしれないね。たとえば、伝統をを守ってほしいと頼みながらも、その助力はしないなんてのも、根底の話は一緒……かな? どうだろう、難しいな」

 矢車は1人で考え込んでしまうが、静かになってしまった場にすぐ気づいたらしく、再び食の話に戻す。


 「あんまり食べないものといえば、蛇は結構食べたことがあるんですよ」


 まだ変わった食べ物の話が続くのかと剛はうんざりしたが、後東が目を輝かせていたので、考えを多少改める。

 剛は話に加わることにする。


 「蛇は鶏肉に似ているって聞いたことがありますけど、実際どうなんですか?」


 「それがね、一概にそうとも言えないんだ。生態によって違うんですよ」

 矢車がイノシシ肉をつまみながら答える。


 「まぁ、よく動くイノシシが飼育されているブタよりもひきしまった感じがするの同じかもしれないね。たとえば地表で獲物を狩る動きの速いヘビは地鶏みたいな食感と味わいなんだけど、鳥の巣を襲って卵とヒナを狙う動きの遅いヘビは白身魚みたいなんですよ」

 こう言うと矢車はニヤッと笑ってつけくわえる。


 「だからね、人肉も人によって味が違うかもしれませんよ。脂の乗ってる人、筋張っている人、男性、女性、老人、若者……」


 三田が「うぇー。矢車先生までそんなこと言い出して」と笑いながらしかめ面をしてみせる。

 後東もそれに同調する。

 「新納くんも、矢車先生も変な話ばっかりして」

 後東がおどけてなのか、その場の空気を振り払うかのように手をふりまわす。

 剛は後東の肉付きのよい胸がゆれるのを思わず見てしまう。

 

 後東が胸元を隠すように手を前で合わせる。

 剛は自分の欲望が見透かされたような気がして赤くなる。

 彼は酒をぐっと飲み干す。


 「ビールで僕の肉も柔らかくなってきたかも」

 皆が笑う。


 くだらないことを話しながら夜は更けていく。

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