04 エチケット袋

 車は細い山道をのぼっていく。

 ヘアピンカーブの連続は、三半規管に自信のない与田剛よだたけしにとってはしんどいものだった。

 運転手の矢車やぐるまはバックミラーで剛の表情を確認したのか、「ごめんね」と前を向いたまま声をかける。


 「エチケット袋、そこにあるはずだから、しんどそうだったら使ってくださいね」

 矢車のことばで剛は収納ポケットに入っているエチケット袋ゲロ袋に目をやる。

 中学生の頃までよくお世話になっていたものだ。

 

 剛は助手席に座る後東佳波ごとうかなみをそっと眺める。

 おとなしい印象をあたえるが、整った顔。それを支える細く白い首。

 フロントガラスに映った胸元、シートベルトで厚手の服の下の大振りな乳房が強調されている。


 剛はエチケット袋を手に取ると、それを口元に持っていく。

 吐いた時のためではなく、後東佳波を眺める自分の視線を隠すためのものだ。


 与田剛は後東佳波が好きだった。

 だから、パーキングエリアの食堂に矢車と後東が一緒に入ってきたときは、なんとも嫌な気分になった。

 あのときの後東の眼は剛にとって見覚えがあるものだった。


 ◆◆◆


 大学に入学した直後、剛は舞い上がっていた。

 男子校かつ全寮制の高校出身の彼は6年間ほとんど同年輩の女子と話す機会がなかった。

 与田が進学した社会史文化史学科は文学部の中でも比較的男性比率の高いところであったが、それでも女子学生は多くいた。

 どの子もきらきらと輝いていてまぶしかった。

 

 「おはよ!」

 「与田くんはどこ出身なの?」

 「全寮制ってすごいね!」


 語学のクラスコンパで、新入生ゼミの顔合わせコンパで女子大生たちは剛にも普通に話しかけてきた。

 どの子もとても綺麗だった。

 多少垢抜けない子がいたとしても、少し経つと洗練されていった。


 話しかけられるたびに胸の鼓動がはやくなった。

 話しかけてくる女子は皆自分に気があるのではないか。

 さすがに剛もそのような誤解こそしなかった。しかし、それでも話しかけられるとそれだけで相手の放つきらめきがさらに輝度を増すように感じるのであった。


 いつのころからだろうか。剛は1人の女子学生のことが気になるようになった。自分に気さくに話しかけてくれる彼女のことを考えるとどうにも心がそわそわするようになったのだ。

 佐藤彩子さとうあやこというよくある名字と名前のその学生とは、たまたま電車で一緒になったことがあった。

 彼女は文庫本を電車で開くという今どき珍しいタイプだった。

 くるぶしまであるようなスカートを好んではき、肩甲骨あたりで切りそろえられた髪をバレッタでひとまとめにしていることが多かった。


 相手の存在に気がついたのは剛のほうが早かったが、先に声をかけてきたのは佐藤彩子のほうだった。


 「与田くん、おはよ。与田くんも1限から? まじめだねー」

 屈託のない笑顔がきらきらと輝いていた。

 気づいていないふりをしていた剛も話しかけられてしまうと、さすがに挨拶を返すしかなかった。


 剛のぎこちない挨拶からは想像もできないことであったが、電車の中での2駅5分、駅から1限の教室までの10分、とても話が弾んだ。

 剛はそれが忘れられなくて同じ時間に同じ車両に乗るようになった。

 大抵の場合、佐藤と一緒になった。自分から挨拶ができるようになった剛は15分の夢のような時間を過ごすのであった。

 佐藤彩子の眼鏡の奥の目がいたずらっぽく輝くだけで剛はその日一日をとても気分良く過ごせたのだった。

 剛は電車内でスマートフォン用ゲームをするのをやめて、文庫本をカバンの中に入れるようになった。佐藤彩子は剛が本を開いているのを見ると、それに興味をもってくれた。彼女のおすすめの本の話を聞くことも、彼女におすすめの本を聞かれることも剛の楽しみとなった。


 前期が終わり、夏休みを挟んで始まった後期も一緒だった。

 与田は彼女の喜ぶ顔を見たくて、本についてもそれ以外についても彼女の好きなことをそれとなく聞き出しては、自分もその話題についていけるように努力した。

 もともと物覚えがよいほうであった彼は彼女の好きな小説や短歌についてどんどん詳しくなっていった。


 大学1年の後期、街なかからオレンジ色のかぼちゃが消えた頃、剛は意を決して、佐藤を食事に誘ってみた。

 佐藤が少しうつむきながらも快諾してくれた日、剛は人目もはばからずスキップをして家に戻った。

 家に戻った剛はパソコンを開くと、女性を誘うのにふさわしそうなレストランをいくつもリストアップし、食事の前後に訪れる場所とともにいくつものデートコースを考案、比較検討した。

 ちょうどその月は彼女の誕生日だった。

 以前聞きだしていた彼女の愛用の香水の名前を必死に思い出すと、デパートにそれを買いに行った。

 がちがちに緊張しながらも準備は万端だった。

 

 実のところ、剛は当日何を話したかよくおぼえていない。

 フレアスカートの佐藤彩子に見とれ、彼女が笑うのに見とれた。

 彼女はたくさん笑ってくれたから、それなりに話せはしたのだろうと剛は思い返すことがあった。


 食事も終わり、喫茶店でコーヒーを飲んでいるとき、剛は勇気を振り絞って佐藤彩子に交際を申し込んだ。


 佐藤彩子は少し困った顔をした。

 「ごめんね、あたし……他に好きな人がいるのかもしれない。与田くんと話していると楽しいけど、彼氏と彼女って感じじゃないのかも」


 剛は謝って、彼女にあらかじめ用意してあった香水を渡した。

 「これ、誕生日プレゼント。あの、気にしないでね」

 剛はこのようなことを言って、香水の入った紙袋を佐藤彩子に手渡した。


 「おぼえていてくれたんだ。ありがとう」

 佐藤彩子はそう言ってくれたが、やはり自分のことを異性とは思ってくれないようだった。

 受け取れないという彼女に「僕が持っていたってどうしようもないしさ」と袋を強引におしつけた。

 彼女は「本当にありがとう。ごめんね」と言って香水を受け取った。

 剛は彼女を駅まで送っていった。


 翌日からも佐藤彩子は普通に接してくれた。

 剛のことを誰かに話すこともなかったのだろう。

 佐藤彩子にふられたことを誰かにからかわれることもなかった。

 彼女と話すのは、やはり楽しかったし、彼女は魅力的なままだった。

 佐藤彩子は素晴らしい女性だった。ただ、剛に男性としての魅力を感じてくれなかっただけだった。


 ある日、夜遅く、バイト帰りに剛が電車に乗ると同じ車両に佐藤彩子がいた。

 彼女は見知らぬ男と体を密接させて話していた。

 見知らぬ男を見る彼女の目は潤んだように輝いていた。

 彼女はその男以外は見えていないようで、当然、剛にも気がつかなった。

 熱に浮かされたように剛はぼうっとしたまま帰宅した。

 

 剛は電車に乗れなくなった。

 電車に乗ると、気持ち悪くて吐くようになってしまった。

 しまいには車にも乗れなくなった。

 剛は大学に行くこともかなわなくなったのだ。


 彼は1年後期のテストを全て放棄することになり、2年の前期も休学することになった。

 

 後期から復学できるようになったものの、もともと希望していたゼミはすでに定員で今から入れるのは人気のない市野井という教授のゼミしかなかった。

 ただ、そこで見かけた後東佳波という1学年上のゼミ生に剛はしょうこりもなく惚れてしまった。


 「うちのゼミ、人気がないからね」

 人差し指を唇に当てて「内緒だよ」と言いながら、にっこり笑う先輩はおとなしめの顔なのにとても魅力的だった。

 ゼミには教授のお気に入りの院生である六井という女子学生もよく顔を出した。

 後東と六井は仲が良いらしく、よく話していた。

 10人いたら7人は六井を選ぶだろう。

 でも自分は後東佳波を選ぶ。

 剛は勉学に精を出した。

 研究室に行けば後東に出会えるし、本を読めば彼女と共通の話題ができる。

 後東佳波に認められたくて、彼は勉学に励んだ。


 それなのに、後東佳波の矢車を見る目は、あのときの佐藤彩子の目と似たものを感じさせるものだった。


 何度目かのヘアピンカーブ、剛はエチケット袋の中に嘔吐した。

 ただ、嘔吐の原因は本当に車酔いのせいなのか、剛自身にもわからなかった。

 パーキングエリアで食べたうどんが袋の中に吸い込まれていくのを剛は涙目で見つめていた。


 ◆◆◆


 「与田くん、大丈夫?」


 後東佳波が後ろを振り向き、心配そうに剛を見る。

 

 「大丈夫です。ごめんなさい」

 剛は口の中に充満する胃酸が彼女に不快な思いをさせないようにとうつむきながら謝りながら、窓を開ける。

 鬱蒼うっそうとした森が放つ匂いが風とともに入ってくる。


 「確かこの先に待避所があるけど、少し車を停めましょうか?」

 矢車が話しかけてくる。


 〈話しかけてくるな〉

 剛はそう思ったが、表向きは丁寧に断った。


 「あと1時間ほどだからね。気持ち悪かったら寝ていてください」

 矢車は前を見たままそう言うと、「後東さんも寝てて大丈夫ですよ」と付け加える。


 後東佳波は「私は酔わないので大丈夫です」と答えている。


 「それよりも先程の話の続きをお願いします」


 剛は後東の声を聞きながら目をつぶる。

 矢車が話し始める。

 後東佳波はハンドルを握る矢車の話を相槌をうちながら聞いている。

 院生の六井の論文についてだ。


 「査読さどくはもう通ったから、来年の春の号には載るらしいです。掲載されたら、皆さんも自分たちの先輩の論文読んでみると良いですよ」


 「サドク?」

 エチケット袋を膝に置いたまま、知らない単語をつぶやくと、後東佳波が振り返って「論文が掲載されるかの審査のことよ」と教えてくれる。


 〈こんなことも知らないなんてと軽蔑されたら……〉

 後東佳波はそのようなことを思っていなくて、ただ親切心で教えてくれたかもしれない。

 怒りは後東にではなく、自分が知らない単語を使った矢車に向いた。

 彼が推す論文など絶対読むものか。

 剛はエチケット袋を握りしめながら決意する。消化しきれなかったうどんがふくろごしに嫌な感触を剛の手に残す。


 剛の静かな決意を知りながら無視するかのように矢車は六井の論文の話を続ける。


 鬼と名指しした者を殺し、神とともに食べる食人の儀礼として語られる一面があったことを六井は調査と村で見つけた古文書の記述から論じたのだという。

 正直な話、人食いなんて話は信じられないし、そのようなものをやっているところに調査に行くなど嫌だった。

 参加したのはゼミの実習で単位がかかっているからであり、後東佳波が参加するからである。


 剛は目をつぶり、後東とのデートを夢想する。

 この調査実習で2人の距離は縮まり、彼女が自分に寄ってくる。

 帰ったらクリスマスも近い。

 ライトアップ、食事、彼女の胸……。


 そして、車が停止したところで目を覚ました。

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