I 共食あるいは共食い

 薄暗い部屋で六井絵里むついえりは目覚めた。

 カビ臭いタタミのにおい、けばだったイグサが絵里の頬にかすかな傷をつけていた。

 たしか神事の参与観察をおこなっていたはずだった。

 鬼の面をかぶった神主を参加者たちが木剣で打ち据え……木剣はいつのまにか真剣に変わっていて……刺し、斬り殺し……。

 神主役をつとめたムラザケーの吾郎はまるで獣肉のように解体されていった。


 悪い夢。

 とてもリアルな悪い夢。

 吾郎の悲鳴は耳にこびりつき、鮮血の臭いは鼻にまとわりつき、苦悶の表情をうかべたまま動かなくなった彼の濁った視線は眼球に差し込むように入ってきていた。舌を突き出した彼の首……。

 でも、夢は夢だ。

 絵里はそう言い聞かせながら、汗ばんだ胸元をかく。

 すっと胸元に手が入り、自分の乳房にあたる。

 下着を身に着けていない。

 

 絵里はがばっと上体を起こし、自分の下腹部に手をやる。

 こちらも何も付けていない。

 絵里は浴衣のような寝間着を身につけていただけであった。

 彼女も浴衣は持っていた。しかし、彼女の持っている浴衣は外に着ていくためのもので、決して寝間着として用いるためのものではなかった。


 「起きたかね?」

 身を起こした絵里に向かって暗がりの中からしわがれた声がかけられる。

 

 「汚れた服で寝させてたらかわいそうかえーそうだからな。着替えきげーさせたんよ。大丈夫、じいさまたちは追っ払っといたからな。それにしても最近の若いわけー子はあんな紐みたいなので大丈夫でーじょうぶなのか?」

 カンヨコの米子よねこのしわがれた声、絵里は惨劇が夢ではなかったことに気がつく。


 米子は砥石で刃物を研いでいるようだった。

 暗がりの中、ぼんやりと浮かび上がるその姿はさながら昔話に出てくる山姥のようである。


 今、これも含めて全て夢なのではないか、絵里は思う。いや願ったといったほうが正確だ。


 ふっと起きたら、そこは恋人の家に違いない。絵里の横では恋人が本を読んでいるのだ。目覚めた絵里に気がついた彼は彼女の夢を笑って聞いたあとにユングの話でも始めるのだ。

 ニコニコしながら小難しい話をしている恋人の声をひとしきり楽しんだら、彼の口を唇でふさいで、黙らせる。そして、彼の胸に耳をおしつけ、とくんとくんという彼の心臓の鼓動と体温に守られながら、今度は楽しい夢の中に帰っていくのだ。


 しかし、悪夢は続く。

 昔話から出てきたような老婆は立ち上がるとうすぐらい部屋の灯りをともす。

 蛍光灯の光の下、包丁を片手に持った老婆が歯のない口を開けて笑う。


 「ああ、これな。薄くがないといけなくてな、ばあちゃんな、暇だったからな砥いでおったんよ」

 米子の口調はいつもどおりだったし、笑顔もいつもどおりの素敵なもの、絵里が言うところの「かわいいおばあちゃんスマイル」であったが、今は何もかもが異なって見える。


 何も見たくない。

 そう思って閉じた絵里の目から涙がこぼれ落ちた。

 絵里の涙を見たカンヨコの米子は涙の意味を勘違いしたのか、優しい声色で絵里に話しかける。


 「ばあちゃん、こんな刃物持ってたら、怖いよな。絵里さんをばらして食べたりするわけじゃねーから、怖がらねーでな」


 絵里は否定も肯定もできずただ震えるだけだった。

 

 「寝間着だけでは寒いな。風呂沸かしてあるから、入って身体を綺麗にしてきなせー」

 相変わらず勘違いをした米子は絵里にそう言うと、「おいっ! 絵里さん、起きたよ」と外に声をかける。

 しばらくしてイッポンマツのヨシコが部屋に入ってくる。


 「あんたが今日の主役だからな。しっかり身を清めねーとな」


 「昔は冷たい水で身を清めるとかいう話だったけど、今はハイテクへーてくの時代だからな。そんな時代じでー遅れのことはやらねーんだ。あたたけー風呂にゆっくりつかっておいでなせー」


 絵里はのろのろと立ち上がり、ヨシコについていく。

 後ろからは米子がついてくる。

 振り返って確認すると、米子の手には相変わらず包丁が握られていた。


 ◆◆◆


 老婆2人は絵里を脱衣所で待っていた。


 「自分でできますから」

 拒否する絵里を無視して、老婆2人は風呂上がりの絵里の身体をバスタオルで丁寧に拭いていく。

 ヨシコが絵里の乳房の水滴を拭いながら、「ワタシもよー、若いわけー頃は絵里さんみたく良い乳しとってなぁー」と笑う。

 米子は絵里の腰に手をやり、「だけどな、腰はちょっと小さいなぁー。子ども産むとき苦労しねーか、心配しんぺーだなぁー」と言う。

 恐怖と緊張で答えられない絵里を放ってヨシコが代わりに答える。

 「ワタシ、産婆できるから大丈夫でーしょうぶだって」

 2人の老婆は何が面白いのか大声でケラケラと笑う。

 絵里はこの地にやってくるだろう恋人のことを思い、彼がここから助け出してくれることだけを願った。


 2人の老婆は絵里の身体を拭き終えると、絵里の手を引いて、脱衣所から連れ出そうとする。

 裸のまま出ていくことに羞恥心をおぼえる絵里の尻を米子がぴしゃりと叩く。


 「男衆おとこしゅうは誰もいねーから、恥ずかしがらねーでな」


 観念した絵里は座敷に向かう。

 老婆たちは葛籠つづらから巫女装束一式を出すと、絵里に肌着から着せていく。

 

 「慣れれば簡単に着られるんだけどねー。いきなり渡しても今の子はわからねーだろうからよ」


 確かに絵里は着付けはできない。

 ただ、今着せられようとしている巫女装束は浴衣や晴れ着と違って、もっと着やすいもののようだ。

 肌着、襦袢じゅばん白衣しらぎぬ緋袴ひばかまと手早く着せられていく。

 

 「行列のときはな、これも羽織ってもらうけどな、今はいいだろうよ」

 「ああ、絶対ぜってー汚れるしなー」


 〈たしか千早ちはやって言ったっけ〉

 絵里は学部時代の歴史民俗学の講義で教わったことを思い出そうとする。

 巫女が神事の際に巫女装束の上に羽織るもの。

 千早の表にはところどころに紋が染め抜かれている。

 

 〈ここで調査した話でカニの話は一切出てこなかったはずなのに〉

 千早に記された紋はカニのような生き物をモチーフにしたものであった。


 「さぁ、直会なおれーがあるからな。あんたと神様が主役だ。しっかりと食べるんだよ」

 絵里は老婆に手を引かれて、のろのろと歩いていく。


 ◆◆◆


 直会とは神事が終わった後に神に捧げた酒と食事を神と共に食べることだ。

 神事という言葉で、悪夢のような凄惨な光景を思い出して絵里は吐き気をもよおした。


 「どうした? つわりか?」

 列席する老人の1人がセクハラまがいの冗談をとばす。

 タニミの耕作という猟師だ。絵里が山から降りる時に必ず鹿肉や猪肉を持たせてくれる親切な老人であるが、少々デリカシーにかけるきらいがある。

 普段ならば、絵里は気にもしなかっただろう。

 しかし、今はとても嫌な気分になる。


 「巫女ってのは生娘きむすめじゃなきゃなんねーだろが。どうすんだって」

 耕作の弟、同じタニミの屋号を持つ弟作治が下卑た笑い声を上げながら同調する。


 「こんだけ可愛いかわえー子なんだから、もうやってるよな」

 誰かはわからなかったが、さらに同調する声がする。

 絵里は無視を決め込む。


 見習いとはいえ、研究者のさがなのかごうなのか、絵里はあたりを観察してしまう。

 

 上座に座らされた絵里のところからは村人全員分の食膳しょくぜんが並んでいるのが見える。

 この集落の人口は30人、ムラザケーの吾郎がいなくなったから29人、全員が参加するようだ。

 膳の下に敷かれた敷物には、千早に描かれていたのと同様のカニのようなものをモチーフにした紋が描かれている。

 この集落の者――皆、神奈かんなという名字を持つ――たちの家紋は確か「丸に抱き茗荷」というありふれたものであったはずだった。

 このようなときでなければ一枚持ち帰って、図書館で調べたいと絵里は思う。


 食膳には椀に盛られた米、吸い物、香の物、神酒が並ぶ。膳の上にはまだ何かを置くであろうスペースが残されていた。


 「みんな、そろったか。じゃあ、オニジシのナマスも出しなせー」

 カンヨコの一郎、絵里に着物を着せた老婆の配偶者にして、この集落のまとめ役の老人が告げる。

 

 女性たちが小さな皿を運んでくる。

 そこには薄くそぎ切りにされた赤身の肉。


 「直会なおれーだからな。食べないことには始まらんからな。絵里さん、食べてくだせー」


 このそぎ切りにされた肉が何の肉なのか、絵里は知りたくなかった。

 知りたくもなかったが、何の肉であるかは自明だった。

 食べたくなかった。

 絵里の身体を清め、彼女に巫女装束を着せた老婆2人組が絵里のことをすごい力で押さえつける。


 「食べねーとはじまらねーからなー。たくさん食べなせー」


 ナマスとは名ばかりの生肉が絵里の口におしこまれる。


 絵里は嘔吐する。

 それでも絵里の口に新たな肉が押し込まれていく。

 吐き出しきれなかったものは、絵里の胃の中で消化されていくのだろう。

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