03 タバコの味と彼のキス

 後東佳波ごとうかなみはスマートフォンでゼミ生の新納にいの三田みたにメッセージを送る。自分たちがパーキングエリアに着いたことを知らせ、彼らがどこにいるのかを確認するというものだ。


 「山道の前に少し休憩させてくださいね。ここね、パーキングエリアだけど、コンビニもあるし、食堂もあからね。朝ごはん食べていない人は食べていくといいですよ」

 矢車やぐるまは車を駐車スペースに入れながら言う。

 ガラガラなので駐車も楽そうだ。


 「先生たちの車はまだ結構後ろらしいです」

 佳波はスマートフォンの画面を確認して告げる。

 矢車は結構アクセルを踏み込む方であったし、1人で運転していた。だから、複数の運転手で交代しながら進む市野井いちのいたちの車よりはかなり前に進んでいたのだろう。


 「とりあえず、出口前のパーキングエリアで待て、だそうです」

 佳波は市野井の指示だという文言を読み上げる。


 「じゃあ、先生たちが来るまでは自由行動にしましょう。そうそう、ここのパーキングエリアは、コロッケとうどんが結構いけるんだ」

 矢車はそう告げると、自分はコンビニのほうへと足早に歩いていってしまった。

 勧めておきながら自分は食べるわけではないらしい。


 与田よだが佳波に「食堂行きますか?」とたずねる。

 「まずお手洗いに行きたいから、後でね。与田くん、先に行ってて」

 佳波は後輩に告げると、トイレに向かう。

 女性用のトイレは混んでいるものだが、ここはそれほどでもない。

 それくらい人の来ないところに食堂を作って採算が取れるのか。

 佳波は自分には関係のないことなのに心配になってしまう。

 コンビニでタバコを買う。ライターも持っていないがこちらは買わない。タバコだけを持って喫煙所に向かう。


 佳波の予想通り、喫煙所では矢車が一人タバコを吸っていた。

 彼女は自分の心臓の鼓動が速くなったのを感じる。

 手を振って、走り寄る。

 矢車は佳波を見ると、手を振り返してくれる。

 

 「後東さんも喫煙者なんですね」

 彼は口にしていたタバコを細長い指ではさむと佳波ににこやかに笑いかける。

 「ようこそ、少数派同志よ」

 同じ喫煙者同士だとわかってなのか、矢車が珍しくおどける。

 

 「ええ。でも、矢車さんは今禁煙してるんじゃないんですか?」

 佳波の言葉に矢車は意外だという表情を浮かべる。


 「あれ? そんな話をしたっけ? 今、構内も全面禁煙だから、私が喫煙者ということだって皆知らないと思っていたよ」

 

 「私はタバコの味を彼のキスを通して知った。それはとても素敵な味だった。でも、禁煙させようとしててるけどね」

 後東佳波ごとうかなみは六井絵里の口調を真似た。


 煙をゆっくりと肺に入れていたであろう矢車がむせる。

 彼の顔が真っ赤になったが、苦しかったからではないだろう。

 彼は自分の顔の赤さを隠すためなのかぶんぶんと首をふると、わざとらしく苦笑いをしてみせる。彼の耳は冷たい外気とは関係なくまだ赤い。


 〈この人もこのように顔を赤らめることがあるのだな〉

 佳波は矢車の顔を見つめる。

 大学で出会う矢車はいつもにこやかな微笑みを浮かべていた。

 彼が1人で書架の本を手にとって読みふけっているときは打って変わって真剣な表情となるのを佳波は知っていたが、それ以外は常におだやかな表情だった。

 直接教わる機会はないが、聞けば色々と教えてくれる優しい人。

 多くの学生は矢車をそのように見ていたし、それゆえに彼はそこそこ人気があったが、それでも彼はどこかに線を引いていて決して学生と馴れ合うことはなかった。

 ましてや学生の前で顔を赤らめるようなことはなかった。


 佳波は六井に誘われて矢車の講義を聞きに行ったことがある。

 2人が通う大学では彼は特任研究員という肩書で講義を担当していない。だから、2人は、近くの女子大まで行ったのだった。ここでは週1コマだけ、矢車が非常勤講師として講義を持っていた。


 「後東ちゃんが女の子で良かったよ」

 佳波の手をとって女子大の正門を入ったときの六井のニッと笑った笑顔をどういうわけか今でもおぼえている。

 文化人類学という名前の講義は佳波も自分の通う大学で取っていたが、矢車の講義はそれとは違う魅力があった。

 教室で民族音楽をかけ、彼の調査地で人気だという歌手のプロモーションビデオを流しながら、それを現地の宗教観についての解説につなげていた。

 残念なことに大半の女子大生は別のことに夢中だったが、矢車はあまり気にしていないようだった。彼は前列に座る数人の熱心な学生たちに向けてにこやかに話を続けていた。最後尾でもなく最前列でもないあたりの学生の群れに混じっていた佳波たちに彼が気づくことはなかった。


 彼は今、顔を赤らめている。


 〈先輩は、もっとたくさん、この人の表情を知っているのだろう。この人もまた先輩の表情を私なんかよりずっと多く知っているのだろう〉


 六井絵里は彼に抱かれるとき、どのような表情を浮かべるのだろう?

 彼の細長い指が彼女の体をまさぐるとき、六井絵里はどのような表情を浮かべるのだろう?

 佳波は少し想像をする。


 佳波は矢車が好きだった。

 正確に言うならば、六井と仲睦まじく過ごしているという矢車が好きだった。


 自分の大好きな先輩の彼氏、自分のことを性的に見てこない理想の男。


 「大好き」は「先輩」単独を修飾し、同時に「先輩の彼氏」をも修飾していた。

 2人の間に割って入るつもりはない。

 ただ2人のそばに居たい。彼と彼女の理想的な関係を横で眺めながら2人に言葉をかけてもらいたい。


 「まったくあの子は……。そんな素敵なこと言うなら、僕に直接言ってくれよな」

 普段とは一人称が変わる。

 こちらが素の彼なのだろう。

 六井には見せて、自分たちには見せない彼の一面。それを垣間見ることができたことで佳波の心臓の鼓動はまた少し速くなる。


 「はは、絵里さんには内緒ってことでお願いね。これでも少しずつ減らしているんだよ」

 これまで六井さんと呼んでいたのも変わっている。


 「先輩と矢車さんが付き合ってるってはじめて聞いたときはびっくりしましたよ」


 「そうだよね。絵里さんは、僕にはもったいない才色兼備の彼女で、僕は彼女にべた惚れだ。今も彼女が僕のことをのろけていてくれたことに身悶えせんばかりに嬉しいんだ」

 矢車はまだ頬を赤くしながらも、開き直ったかのように六井のことをのろける。

 佳波はタバコの箱をつつむビニールフィルムを取りながら、のろける矢車に微笑む。


 「火、いいですか」

 佳波は矢車のタバコを指差す。

 どうぞとタバコを差し出す彼に佳波はタバコをくわえた頭を寄せる。

 

 少し煙たい匂いのする彼の指。

 矢車の細長い指を見つめながら、佳波は口にしたタバコを吸う。

 タバコに火がつき、彼女は少し煙を肺に入れると、矢車に寄せていた頭を戻す。

 

 「ありがとうございます」

 肺の中から煙を出す。ゆっくりと煙を吐き出しながら、心臓の鼓動の速度を少し遅くしようとする。


 「タバコ、同じ銘柄だね」

 矢車も煙をゆっくりと吐き出すと、佳波に笑いかける。


 「六井先輩、前に自分も試してみようって買ったんですよ。でも、『彼の口を通したタバコの味は素敵だけど、そうじゃないと美味しくないや』って、残りを私にくれたんです。そしたら、はまっちゃって」

 嘘だ。

 六井の話までは本当だが、はまったというのは嘘だ。

 佳波自身はもっと軽めのタバコのほうが好きだった。

 というか、そもそもタバコを吸うという習慣自体ごくごく最近に身に着けたものである。

 喫煙習慣も、銘柄選びも矢車と話したかったゆえの行動である。


 この年上の男はどのような顔をして六井絵里を抱くのだろう。

 六井絵里に一体化して、その顔を見たい。

 彼に抱かれる六井絵里はどのような声をあげるのだろうか。

 矢車となって、彼女の声を聞いてみたい。

 佳波はタバコの煙を肺に入れながら、夢想する。


 「もう頬が赤くなっているよ。この先、もっと寒くなるけど、マフラーとか持ってきましたか?」

 矢車のことばで佳波は我に返る。

 頬の赤さの原因は、寒さではなく、自分の心の中でうずく劣情だ。

 佳波は自分の頬がさらに赤くなるのを感じて、あわてて両手で頬をさする。

 矢車はさして気にしていないようだ。


 向こうで自分たちが乗ってきたのと同車種の車が停まる。

 市野井たちの車である。


 「君は運転が下手くそだ!」

 聞き覚えのある声が誰かを叱責するのが聞こえた。

 

 「先生たちが着きましたね。もう少し時間があるので、私たちも食堂にでも行こうか。先程も言った通り、ここはコロッケそばならぬコロッケうどんが絶品なのですよ」

 矢車の表情と一人称がいつものものに戻る。


 「六井先輩の論文についてのお話の続き、また車の中で聞かせてください」

 2人は食堂に向かう。

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