02 ラポール

 「矢車さんは六井先輩のことをどう思いますか」

 助手席に座った後東佳波ごとうかなみはハンドルを握る長身の男に質問をしていた。小型車の運転席にすわる彼はやや窮屈そうにみえる。


 「六井さんね、彼女はとても優秀だ。私は修士課程マスターの頃、あんな論文書けなかったよ。というか今でも書ける気はしないね。あの子にはすでに負けているよ」

 

 矢車はハンドルを握り、前方を向いたままだが笑顔で答える。

 さすがに「すでに負けている」は冗談か謙遜なのだろうが、六井が優れた院生であることは学科内の別の教員も口にすることだった。

 といっても、彼女は学部生の頃からそのような評価をされていたわけではない。熱心な学生の1人というだけであったらしい。

 彼女が優秀と目されるようになったのは、卒業論文提出後のことだという。彼女は、これまでに近代以前の文献の中にしか存在しなかった「秘祭」を記録し、それについて論じた。


 「それは優秀というより、運が良かったというべきなんじゃないですか?」

 2年の与田が後部座席から質問を投げかける。

 

 〈シンデレラガール……いいえ、私たち民俗学のゼミ生なんだから、和風に落窪ガールかしら〉

 佳波は自分の思いつきの陳腐さに苦笑する。

 〈口に出さなくて良かった〉

 後部座席の与田と目が会う。

 彼に自分のくだらない冗談を見透かされたような気がして少し赤くなる。

 与田はぎこちなく目をそらしてから笑う。

 

 「確かに幸運でないと言えば、それは嘘になるね」

 後部座席から前方へと視線を戻す時、運転席の矢車の表情に一瞬暗い影が落ちたのを佳波は見逃さなかった。

 カリブ海の小国で調査をしていた人類学者であった矢車は調査地の政情不安で調査の続行ができなくなったと聞いたことがある。

 六井が幸運の星に生まれたのならば、彼は運に見放された口だろう。

 2人合わせてちょうど良いのかもしれない。


 「彼女はもともと祭りの調査をしようと和仁杭おにくい村に入ったわけではないらしい。限界集落のあり方についての応用研究を志していたと聞いたことがある」

 矢車はそう言ってから、ハンドルを握ったまま「さて」と続ける。


 「与田くんは調査はじめてだったよね。ここで簡単なテストだ。調査者と被調査者の間で一番大切なのは?」


 「信頼? ですか?」

 与田が自信なさげに答える。

 

 「その通り。では、これを専門用語で言い換えるとどうなるかは後東さんが教えてあげてください」

 後東は突然質問をふられて少々面食らったが、それでもすぐに「ラポールです」と答える。


 「そうそう、それだね。別にこんな専門用語なんておぼえたってたいした意味はないんだけど、私をふくめてみんな使いたがるからね。おぼえとこうね」

 矢車は話し続ける。

 

 「ラポールなしで根掘り葉掘り聞いても誰も答えてくれない。たとえば、私が君たちの恋愛経験についてノート片手に目を輝かせながら質問しだしたら、答える前にセクハラで訴えるだろう」

 〈あなたにだったら、私、何でも話しちゃうけどな。むしろ色々と聞いてほしいくらい〉

 佳波かなみは心のなかでつぶやきながらも、黙ってうなずく。

 彼女は去年の冬、初めてつきあった男と別れていた。


 ◆◆◆


 サークルの2年先輩である男は新入生だった彼女に親切にしてくれた。

 学年があがり、4年生となった男は内定を得た。

 キャンパスの中の散歩コースを歩こうと佳波を誘った男は人気ひとけのない池のほとりで、おずおずと告白してきた。

 彼女は戸惑いながらもそれを受けた。女子校育ちで色恋沙汰を体験しないままここまで来てしまったことにかすかな引け目を感じていたこともあったし、単純に好意をもたれるということ自体が嬉しくもあったからだ。それに控えめだが親切なこの男を佳波の方も好ましく思っていた。


 男は一人暮らしだった。

 付き合い始めてほどなくして佳波は男のために弁当を作った。

 いきなり手作りの弁当など引かれないかと不安であったが、男は喜んでくれた。


 「コンビニ弁当とカップラーメンばかりで、こんなにおいしいもの久しぶりに食べたよ」

 男はそう言うと「卒論とか大変でさ。俺から告白したのに学内でしか会えなくてごめん」とつけくわえた。

 佳波はまったく気にならなかった。むしろ彼のために色々としてあげたいと思った。


 卒業論文で苦しむ男に佳波は献身的に尽くした。

 図書館で文献をコピーし、手作りの弁当、スーパーで買い込んだ食材や栄養ドリンクやエナジードリンクとともに彼のアパートに届けた。

 男が手作り弁当にがっついている間にカップラーメンとコンビニ弁当が無造作に積まれた流しを綺麗に片付け、食事を作った。

 食事はタッパーに分け、電子レンジで温めるだけで食べられるようにした。


 男は佳波の弁当を「おいしい、おいしい」と食べてくれた。

 恋人のために役立てることが佳波は嬉しかった。


 デートらしきものもないまま、何度目かの訪問を迎えた時、男は佳波の体をおずおずとそれでいながら執拗に求めてきた。

 佳波も覚悟はしていたし、正直なところ、どこかで期待するところすらあった。

 しかし、不安のほうが期待よりも大きかった。

 だから、自分の裸身を男の前にさらしながらも、少し待ってほしいと言った。

 男の眼に失望の光らしきものが浮かんだのを見て、佳波は少し複雑な気分になったが、それでも「待つ」と言ってくれたで安心した。

 男というのは出すものを出してしまえば満足するようで、佳波の裸身をねめまわしながら、彼女に様々な要求をした後、男はおとなしくなった。

 

 次に訪れたときにはベッドの脇に避妊具がこれみよがしに置いてあった。

 〈必要な文献をコピーする時間はないのに、そんなものを買いに行く時間はあるのね〉

 佳波の中の恋の熱量はじぶんでもわからないくらいの少しの量であったが冷め始めたのかもしれない。

 彼女はそのときも最後までするのを断った。


 そのような微妙な訪問を繰り返していくうちに男はなんとか卒論を提出した。

 提出当日、研究室で誤字のチェックなどを手伝った佳波は研究室の共用の机の上に男の財布が置かれているのを見つけた。

 男は学科の同級生と打ち上げで飲みに行っているはずだ。

 財布がないのも困るだろう。

 彼らが飲みに行く店は知っている。


 佳波が届けに言ったら恋人はどのような顔をするだろう。

 周囲の悪友たちは恋人をはやすのだろうか。


 〈囃し立てられた彼は顔を赤らめたりするのかしら?〉

 そう考える佳波の顔のほうが赤らんでいたが、それは冬の刺すような空気のせいではなかっただろう。


 狭い店なので恋人はすぐに見つかった。

 彼は大声で愚痴り、周囲の男と盛り上がっている最中であった。


 愚痴の内容は「やらせてくれない」というもので、盛り上がっているのは、佳波の手や口の使い方についてであった。

 盛り上がっていた仲間が佳波の姿を認め、黙りこくる中、ひとしきり佳波の体について熱弁をふるった男は振り返り、青くなった。

 

 「財布、忘れてたよ」

 佳波は涙をこらえながらそれだけ言うと、走って店を出た。

 男は追いかけてはこず、佳波ははじめての恋人との関係が解消されたことを理解した。


 サークルはやめた。

 サークルの部室という居場所がなくなった佳波は学科の研究室に入り浸るようになった。


 研究室では院生たちが机に向かっていることが多かった。

 佳波はその中の1人でありゼミの先輩として憧れをいだいていた六井絵里と話すことが多くなった。

 ゼミの後輩ということもあり、六井は佳波のことをかわいがってくれた。

 六井は学問のみならず恋愛の話もよくする女性であった。

 彼女と食事に行くようになると、佳波は六井の彼氏についての惚気のろけ話も聞かされるようになった。

 曰く、「頭が良くて尊敬できる人だ」

 曰く、「さりげなく自分をエスコートしてくれる」

 曰く、「自分の意思を尊重してくれる」

 曰く、「背が高くてかっこいいけど、可愛らしいところもある」


 最初のうちこそ、相手が誰かは教えてくれなかった。しかし、結局、六井は彼氏を自慢したかったのだろう。

 特任研究員として学科に所属している矢車のことなのだと打ち明けてくれるようになった。


 セックスとはそれほど良いものなのだろうか。佳波は六井にたずねたことがある。

 「相手次第」

 それが六井の答えだった。


 「体の相性とか言うつもりはないのよ。私だって、そんな経験があるわけじゃないし。だから、そんなことはわからない。でも、相手に対する信頼があるのとないのとでぜんぜん違うの」

 はにかみを手にしたサワーのグラスで隠しながら六井は言うと、「ラポールが大切ってことだよ」と付け加えた。


 ラポール。

 信頼なしに彼女の体を執拗に求めてきたあの男は今頃何をしているだろうか。


 ◆◆◆


 「六井さんが調査をしていたところは、とりたてて珍しくない神楽が伝承されているだけだったんだ」

 矢車の声で佳波は現実に引き戻される。

 もちろん伝承は珍しいから良い、ありふれたから悪いというものではないけどね、と矢車は続ける。


 「どのようなものであろうと、伝承してきた当事者にとって大切だよね。六井さんはどちらかというと、そのような伝承の断絶、継承問題、そして限界集落の生活のあり方についてに興味をいだいてフィールドワークをはじめたというのは先程も言ったね」

 矢車はアクセルを踏み込み、車を追い越し車線に移す。


 「六井さんは、人の話を聞くのがうまいだろう。あれこれ自分から聞かずに相手の話したいことを聞いてあげられる子だ。話を聞くだけではなく、一緒に笑い、泣き、考え、行動してくれる子だ」

 佳波は矢車の言葉を聞きながら、のろけているなと思う。

 与田が「愛の告白をしているみたいですね、矢車先生は六井先輩のこと好きなんですか」と後部座席で笑う。

 後部座席の与田は気づかなかっただろうが、一瞬だけ矢車の眼に動揺が見えたのを佳波は見逃さなかった。


 「ははは、好きも好き大好きだよ。私は彼女の論文の大ファンだよ」

 矢車は正規の教員ではなく授業も他校で非常勤をしているだけだ。

 だから、六井と付き合おうと問題はないはずだが、それでも人目が気になるのかもしれない。

 〈ただでさえ、市野井先生には嫌われているみたいだし、先生のお気に入りと付き合っているとかなったら、市野井先生はありとあらゆる手で嫌がらせするのだろう〉

 佳波はゼミの指導教授である市野井の顔を思い浮かべる。

 学者としては尊敬できる人だが、人間としては狭量な人だ。それに彼の視線の動きは別れた男と同じようなねめまわすようないやらしさがある。


 「まぁ、話を戻そうね。村の人達が六井さんに明かしたのが、『秘祭』だったわけだ。そして、その秘祭は初期の柳田國男が一つ目小僧について論じていた時に見せていたような人身供犠の片鱗が見えるものであった。この秘祭がいかにして秘祭になったのか、文書や聞き取りから明らかにしたのが六井さんというわけさ」

 矢車の右手が動き、ウインカーのかちかちという音がなる。

 トラックを数台追抜かして走行車線に戻った矢車は「パーキングエリアに寄っていこうか」と言った。

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