第1章

01 ゼミ

 「来週の和仁杭おにくい村でのフィールドワーク、全員参加で良かったな」

 市野井は研究室のソファに座った4人の学生たちを見回す。

 教授である市野井にさんざんダメ出しされた今週の発表担当を含め、全員が伏し目がちにうなずく。

 彼のゼミは人気がない。


 民俗学というのは調査をしないことにははじまらない学問分野で、留学だ、インターンだと忙しい最近の学生にはてんで人気がない。

 そのうえ、カビ臭い民具の分類等、つまらない作業が多い。

 今年のゼミ生は4人で多いほうだ。

 それでも大した人数ではない。

 市野井が所属する大学の研究室は比較的広く、整理整頓が苦手な市野井であっても4人程度の学生が座ることのできるだけのソファを置くことができる。だから、ゼミはゼミ室を使わずに市野井の研究室でやるのが常だった。


 「民俗学というのは退屈なものの積み重ねだ」

 市野井はかつて恩師が言い放った言葉を思い出す。あれは、彼がまだ大学院生の頃だった。

 あのときの発表者は今は郷土資料館の学芸員として働く先輩で、内容は調査地での民具を全て撮影、計測し、それを資料化したものを説明するというものだった。

 発表の場は、隣にある社会人類学講座との合同研究会、人類学の院生がした質問が発端だった。

 「資料としてまとめられた労力はわかるのですが、それをもとに何を明らかにしたいのですか?」

 すかした院生が言い放った言葉に恩師は「退屈なものの積み重ね」が民俗学と返したのだ。

 質問した院生は黙りこくり、社会人類学講座の若い教員は苦笑をうかべ、講義室には気まずい空気が充満したのをおぼえている。それを最後に合同研究会は組まれなくなった。

 あいつらは横のものを縦にしただけで格好つけているいけすかない野郎どもだ。市野井はそう考えていたから、合同研究会がなくなってかえってせいせいしたものだった。


 扉をノックする音で市野井はつかの間の回想から現実に引き戻される。

 「どうぞ」

 市野井の声に応じて中に入ってきたのは特任研究員ポスドクの矢車だった。

 

 「矢車くんが、車の手配や機材の準備をしてくれる。三田さんと与田くんは冬の和仁杭村ははじめてだったな。服装についても聞いておくと良い」

 市野井の言葉に矢車が笑みを浮かべながらうなずく。

 彼は無駄にさわやかな、この若い男が好きではない。

 横のものを縦にしただけで喜んでいるすかした野郎の1人のくせして、フィールドワーカーとしてそこそこに評価されているのも気に食わない。

 他にも気に食わない理由はいくらでもあった。とにもかくにも市野井はこの男が大嫌いだったのだ。

 だから、自分の直属の部下でもないのに良いように使い倒すことにしている。

 同僚は眉をひそめている。中でも矢車を引っ張ってきた人類学の准教授はやんわりながらも注意してきた。市野井は「彼があまりにも優秀だから」とうそぶき、そのうえで「若い人たちだけで楽しくやらないでよ。僕はのけものですか?」と年下の准教授にねちっこい言葉で返した。理系の研究室と違って、職位の違いが明確に権力関係に結びつくわけではなかったが、それでも年上の教授の威圧を感じた准教授は沈黙した。


 「市野井先生。参加者は先生と私を入れて6名、帰りに先に入っている六井むついさんを拾って帰るので、7名となります。小型を2台でよろしいでしょうか?」

 どういうわけか、この単なる確認が市野井の気に障った。

 

 「バン1台でも借りれば良いだろっ! 君はっ! そんなこともわからんのかっ?」

 立ち上がって自分より15センチメートルは背の高い男を叱責した後に市野井は気がつく。

 和仁杭村までの道は小型か軽でもなければ、道から落ちてしまうくらいに狭い。

 バンだと谷底に落ちるに違いない。

 矢車が落ちて死ぬ分にはどうでも良い。というかむしろ喜ばしいくらいだが、その車に市野井自身も乗り込んでいるとしたら話は別だ。


 市野井は鼻をならして「まぁいい」とつぶやいて、話をうやむやに終わらせようとする。

 

 「1台は矢車、君が運転しろ。もう1台は……免許のある者は?」

 市野井は腹立ちを押さえきれずに相手を呼び捨てにする。

 おずおずと3年の新納にいの、続いて2年の三田みたが手を挙げる。


 「じゃあ、新納くんと三田さんと僕で1台、もう1台には矢車くんと後東さんと与田くんな」

 市野井はさっさと割り振る。

 痩せぎすで陰気な男である新納よりも地味ながら悪くない顔立ちの後東を自分の車にまわして、矢車のところには男ばかりにしてやりたかったが、三田だけに運転をさせるのもかわいそうだ。

 市野井も免許は持っているが、自分で運転する気はなかった。


 叱責からはじまってまくし立てる市野井の言葉を黙って聞いていた矢車は市野井が黙ると一礼する。


 「先生、失礼しました。そのように手配します。運転主役をつとめる新納くんと三田さんは当日、朝ちょっと早くなるけど一緒にレンタカー屋さんに来てくださいね。詳しい時間とかはゼミのあとで話そうか」

 矢車の言葉に2人がうなずいたところで、講義終了時間を告げるベルが鳴った。


 「では、今日はここまでにしよう。矢車くん、事務手続きと機材の管理は頼んだ。あとな、向こうに差し入れする酒を5本ほど買っておいてくれ。大学のラベルが入っていた酒が生協にあっただろう。あれで良い」

 矢車はうなずくと一礼して研究室から出ていった。

 彼は廊下で交換留学生から話しかけられたらしい。

 フランス語で快活に受け答えする矢車の声が市野井にしゃくに障った。


 市野井は廊下に出る。

 怒鳴りつけてやろうかと思ったが、思い直して、ドアの札を「仕事中入室禁止」へと替えて、カギをかける。

 窓のブラインドを引き下げる。

 ポケットからカギを取り出すと机の引き出しを開ける。

 中から小箱を取り出すと、別のカギで開けてハードディスクを取り出す。

 カバンにいれたノートパソコンを取り出してつなぐ。


 市野井の部屋は雑多なものだらけだ。

 雑多なものに隠れたカメラを取り出すと、これもノートパソコンにつなぐ。

 これは彼が自分の研究室でゼミをおこなう理由の1つだ。

 柔らかめの来客用ソファに座った学生たちが映る。

 女子学生の1人、後東はスカートだった。

 深く座った彼女は足をしっかりと閉じているが、一瞬油断したのか足が開く。

 市野井は「見どころ」の再生時間をメモに記録すると、仕掛けたビデオカメラの映像をハードディスクに保存する。

 細々とした記録をつける癖のあるフィールドワーカーだけあって、市野井はこういうところは几帳面だ。


 そのまま市野井はとっておきの動画を開く。

 今年の夏休みのゼミ合宿で撮影したものだ。今さっき撮影した動画同様、当然許可は取っていない。


 比較的裕福な家庭に生まれた市野井は親から受け継いだ山荘を持っていた。

 誰も訪れることのないこの山荘を市野井は長い年月とけっこうな金額、それに自らの労力を注ぎ、こまめに手入れし、自分の理想の場所へと改造していった。


 市野井ゼミは夏休みのはじめにそこで合宿をするのが恒例になっていた。

 学部生は自分のテーマにあいそうな文献をまとめた先行研究や(4年は)卒論の進捗しんちょく状況、院生は自分が執筆中の論文について報告をおこなう。普段は情け容赦なく厳しいダメ出しをおこなう市野井であったが、合宿のときは自制して優しく振る舞うように努めていた。

 夜はバーベキューをして花火を楽しむ。

 食材や花火は市野井が自腹で出してやる。

 市野井はこの合宿をゼミの名物と呼ばれるように大切に育て上げた。


 今年の夏も4人のゼミ生と院生の六井を招き、合宿をおこなった。


 机の上に飾られた写真はバーベキューをはじめる前に取った記念写真だ。

 適当な理由をつけて全員、男女別で撮影した。

 アリバイ作りで撮った男子だけの写真が入った写真立ては汚いので伏せておく。

 

 写真の中にはゼミの女子学生たちの笑顔が並んでいる。

 青いワンピースに身を包んだ三田は中央でステーキ肉をかかげている。少しでも背を高く見せたいのか、ヒールの高いサンダルを履いている。ワンピースの裾からは細い足が伸びている。

 「六井先輩も後東先輩も160超えてるから2人の間に立つの恥ずかしい」

 そのようなことを三田が言っていたのを思い出す。

 後東はゆったりとしたロングのワンピースの上にカーディガンを羽織り、野菜がのった大皿を持っている。彼女は自分の大きな胸が男の目を引きやすいことを知っているようで体型を隠すような服を好んで着ていた。

 串に刺したイワナを両手に持ち、Y字のポーズをとっているのが六井だ。Tシャツとジーンズというシンプルな格好でほがらかに笑っている。


 「皆、私の大事な学生たちだよ」


 市野井は1人つぶやくと、ベルトをゆるめる。

 モニターの中で流れる動画は市野井の山荘の風呂場の脱衣所だ。

 彼は月々使用料を払って温泉を引き、風呂場をちょっとした民宿の風呂程度にまで大きなものとし、脱衣所も立派なものとした。


 「引退したらここで民宿でもやろうと思ってね。美肌効果があるらしいから、ぜひとも楽しんでくれ」

 市野井は合宿にゼミ生を誘う時、山荘に着く時、このように自慢するのが常だった。もちろん、民宿などやる気はない。市野井の目的は撮影場所の確保以外にほかならない。


 彼は山荘の風呂場の脱衣所で服を脱ぐ3人の教え子を見つめる。4ヶ月ちょっとの間、毎日のように見続けた動画だ。どこが見どころなのか、市野井はすべてをおぼえている。


 小柄で幼い印象を与える三田も色白で豊満な後東も良いが、今日もお気に入りの六井のほうを「使う」ことにした。

 高校時代、中距離走の選手で今もランニングが趣味という六井は引き締まった体をしている。

 実のところ、市野井は年甲斐もなく六井絵里に恋い焦がれていた時期があった。

 六井の落ち着いた声、肩までのワンレングスにそろえた黒髪、調査中はそれを後ろで無造作に縛った髪型、やや大きな目、茶色い虹彩、大きくもなく小さくもない胸、細く引き締まった腕、夏場たまに見られるワンピースの下からのぞく健康的かつ引き締まった足、全てに恋い焦がれていた。いや、今でも恋い焦がれている。

 市野井は調査実習、研究室の行事、何かと理由をつけて六井の写真を撮り続けた。

 

 六井はそのような市野井を気味悪がらずに普通に接してくれた。

 ややハスキーながらも明るい雰囲気を漂わせた声は、市野井の耳にはきれいな鈴の音のように聞こえた。

 そして、彼女は優秀だった。

 六井が和仁杭村について彼女が書いた卒論は大変良いものだった。市野井は彼女にリライトして投稿することを勧めた。六井は目を輝かせてお礼を言い、彼の言う通りにした。結果として、彼女の論文は査読を通り学会誌に受理されている。

 来年には掲載されるであろう。

 彼女の知性もまた市野井の年甲斐のない恋心を燃やさせるものであった。


 それが大学院に進学する直前からどういうわけか矢車と付き合っていたらしい。

 あくまで学生の噂を盗み聞きした程度であったが、あろうことか六井のほうから告白して押し切るように付き合うことになったらしい。


 「素敵だよね、あの2人」


 学生の感想を思い出しながら、市野井はモニターの中で無防備に――それでいながらたるみ1つない裸身をさらす六井を見つめる。

 

 「そんなことがあるものか!」

 市野井の右手に力が入り、スピードを増す。


 市野井の怒りは全て矢車に向かい、六井にはやはり恋い焦がれ続けた。


 六井は自分の指導教員からボーイフレンドに向けられる理不尽な八つ当たりに気が付いたのか、前ほど親しみを見せてくれなくなった。

 それでも市野井は六井に恋い焦がれ続けた。

 ただ、市野井は妄想の中で六井をなぶることをおぼえるようになった。

 現実では「六井さん」としか呼んだことのない彼であったが、妄想の中では「絵里」と名前で呼んでいた。


 「絵里、絵里、絵里!」

 

 「矢車よぉ。お前の女の体を俺は知ってるんだぜ」


 市野井は果てた。

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