我が身もろとも神に捧げん
黒石廉
プロローグ
00 神事
境内にいくつもしつらえられたかがり火が
〈お賽銭箱が開けられたのはいつのことなんだろうか?〉
彼女自身はこの集落に来るたびに「ご挨拶」として、小銭を入れている。
この神社では
〈食べるのに困ることがありませんように〉
民俗学を学ぶ大学院生という食いっぱぐれる可能性がきわめて高そうなことをしている絵里は半ば冗談ながらも「ご挨拶」のたびにこのようなお願いしていた。カンナノカミもオオゲツヒメの子どもだから、食いっぱぐれがないようにという絵里の願いになにかしら答えてくれることだろう。
〈私とこの集落の人だけが拝む神様。もう少しあなたが有名になれるように私も頑張ります〉
こう挨拶するのも絵里にとっては常のことであった。
とはいえ、今のところ、この神が祀られている神社の賽銭箱に金が投げ入れられることはほとんどない。
カンナノカミが忘れ去られた神であろうとこの集落の人間にとっては氏神だ。部外者の絵里より賽銭をいれる頻度も高いだろう。だが、いかんせん、
中身がいつ取り出されたのかわからない箱のにぶくくすんだ木目が赤い光の中にぼうっと浮かび上がっている。
その上には真新しい
一緒に縄を結い、紙を切った老人たちは白い
炎に照らされる老人たちの顔は普段の日に絵里に向けるしわだらけの笑顔ではない。久々におこなわれるという大事な祭りで緊張しているのか、どの顔も厳しい表情を浮かべている。
拝殿の前の庭に別の神主があらわれる。
ただし、彼もまた普通の神主とは多少様子が異なる。
彼は手に
かがり火に照らされて現れる烏帽子の下には鬼の面を被っている。
神主は太刀を一振りすると、肩にかつぐように構える。
神主は庭の灯籠のまわりをすり足で歩む。
そして、中央に進むと立ち止まって太刀を高々とかかげる。
太刀を右にかかげながら、右足をとんとんと2回踏み、左足を引き付ける。
太刀を左にかかげながら、左足をとんとんと2回踏み、右足を引き付ける。
木の武器を構えて待ち構える老人たちも同じ足踏みをしながら、庭の中を動き回る。
スピードが上がるに連れて半ば跳ねるような動きになっていく。
老人たちの額ににじんだ汗が炎に照らされて輝く。
鬼の面の下も汗だくだろう。鬼面をかぶる神主役を務めるムラザケーの吾郎も若くない。
確か50半ばだったはずだ。
絵里は、ことあるごとに彼女の胸元を覗き込もうと露骨な視線を投げかけてくるこの男が苦手だった。
しかし、今の彼は絵里の目を惹きつけて離さなかった。
太刀をかかげながらの足踏みは激しくなる一方であったが、それでも吾郎は息も切らさず、
この鬼面の神主役の男に白装束の老人たちが手にした木製の武器で襲いかかる。
〈次の大祭のときには、撮影させてもらえるようにしよう〉
絵里は小さなノートに気がついたところを書き付けながら、拝殿の庭で繰り広げられる「戦い」を目に焼き付けるように注視する。
神主は木剣や木の斧の攻撃を受け流し、白装束に返す刀で打ち込む。
もちろん白装束側も全力で撃ち込んでいるわけでもないし、神主が持つ太刀も刃が引いてあるものだろう。
それでも地面を素早く激しく踏みしめながら打ち合う彼らの姿は迫力があるものだった。
神主役は木剣や木の斧の攻撃を体で受けると「おぉおぉー」と叫ぶ。
当てた白装束は「鬼を打った! 鬼を打った!」と叫ぶ。
神主役が踊るような足踏みで拝殿の中に「逃げ込む」。
白装束は鬼を追って拝殿の中に駆け込んでいく。
絵里もその後を追う。
拝殿といっても小さな神社だ。
土間の両脇に畳が設えた床があるくらいだ。
中央の土間には神主が太刀を投げ出してうずくまっている。
鬼をその身に迎い入れた神主はわざと拝殿の中に逃げ込み、そこで皆に中の鬼とともに殺される。
殺した鬼を神とともに食べ尽くす。
〈鬼宿し 村のためよと 舞い狂ひ
我が身もろとも 神に捧げん〉
絵里は大祭について詠まれたという和歌を思い出す。地道な聞き取りを続けていく中で教えてもらったものだ。
詠み人知らず、修辞もなにもないただ素朴なだけな歌であるが、これが
指導教授の市野井は「奨励賞が取れるのではないか」と興奮したものだった。気難しいところのある人だし、好き嫌いの激しい人ではあるが、絵里のことは親身に指導してくれている恩師である。それに彼は著名な研究者である。そのような人物が自分のことを買ってくれている。
今も論文のことよりも謎のベールに包まれたまま、歴史から消え去った祭りを自分の目で見られることに興奮していた。
大祭もクライマックスだ。
反閇と木剣の攻撃で力を削がれた鬼を、これに身体を殺した神主ごと〈殺し〉、神に捧げるのだ。
「えーえーえー」
「ほーほーほー」
「えーえーえー」
「ほーほーほー」
白装束の老人たちがうずくまった鬼の周囲を奇妙な足踏みでまわる。
右足をとんとんと2回踏み、左足を引き付ける。
「えーえーえー」
左足をとんとんと2回踏み、右足を引き付ける。
「ほーほーほー」
踊るような足踏みをしながら、彼らは手にした武器で鬼を打っていく。
打たれる度に鬼は「おぉおおー」と叫ぶが、その叫びも徐々に小さくなっていく。
叫び声が小さくなるにしたがって、神主の頭も次第にたれていく。
白装束の一人が神主が取り落とした太刀を拾うと、彼の背中を突く。
それは流れるように自然な動作であり、周囲の白装束たちも誰一人として驚きの声もあげなかった。
土間にピンどめされたように神主がへばりつき、鮮血が彼の斎服を濡らしていく。
絵里は何があったのか一瞬わからなかった。
神主が
逃げたくても腰が抜けて逃げることができなかった。
絵里の肩を白装束の一人が押さえる。
老人とは思えぬ強い力が絵里の肩を捕まえて離さない。
「
老人が絵里をなだめるように声をかける。
この声はカミヨコの
絵里が来るたびに歯の抜けた笑顔で迎え、お菓子をくれる小柄な老婆だ。
その老婆が普段からは考えられないような力で絵里を押さえつける。
いつの間にか、木剣をナタに、木の斧を手斧に持ち替えた老人たちが神主を解体し始める。
絵里はジーンズの股のところに温かいものを感じる。
漏らした尿はすぐにひんやりとしたものにと変わる。
顔も涙と鼻水でぐしょぐしょになった。
「
カミヨコの
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます