第2章

10 目覚め

 三田菜々子みたななこが目を覚ました時、そこは薄暗い部屋の中であった。

 背中がひんやりとする。頭も少し痛む。

 ぼんやりと横を見ると、隣には同級生の与田が寝ている。

 寝返りをうって反対側を見ると、研究員の矢車が布団の上に座って腕組みをしながら天井の裸電球を仰ぎ見ていた。

 

 〈それにしても寒い〉

 菜々子は布団の中で縮こまる。

 手を少しだけ布団の外に伸ばす。

 ひんやりとした土の感触。

 

 〈寒いはずだ〉

 布団に寝かされていたが、その布団は土間に直接ひかれているようだった。


 菜々子は身を起こす。


 天井をにらんでいた矢車が菜々子の方を向く。


 「目が覚めましたか?」

 こめかみを押さえながら矢車は菜々子に当たり前のことを聞く。


 「ここはどこなんですか? 何があったんですか?」

 菜々子は震えながら尋ねる。薄暗がりの中の矢車は肩をすくめ首を振る。


 「多分、くら土蔵どぞうです。どうして私たちがここにいるかは……謎です。多分、薬でも盛られたのでしょうね」

 ちなみに蔵の戸は開きませんでしたと矢車はつけたす。


 菜々子は教授の市野井が矢車(とどういうわけか知らないが院生の六井)のいないところで楽しそうに吹聴していた陰口を思い出す。

 彼の研究テーマの1つが薬物を用いた儀礼なのだそうだ。


 市野井曰く、

 「あいつは薬で女性を眠らして襲いかねない変質者だから君たちは用心したまえ」


 市野井の言う通りならば、矢車は寝ている菜々子や後東に何かをするはずなのだが、当然ながらそうではなかった。


 「意識を失わせるような毒物というのは、手近でも結構見つかるものなのです」

 矢車は手をすりあわせてから、そこに息をふきかける。

 寒いのだろう。

 菜々子も矢車も吐く息が白い。


 「たとえば、チョウセンアサガオ。ダツラとも言われるこの植物はそこらで見つかりますが、これは意識混濁こんだく、幻覚、昏睡こんすいをもたらします」

 ここで後東と新納にいのが目を覚ました。

 後東も頭が痛いのか、しきりにこめかみを押さえている。

 新納のほうは平気そうだ。


 「ただ、強烈な頭痛などがあるので、おそらく、違う類の毒物なのでしょうね」

 今多少頭が痛いのは多分ただの二日酔い的なものですと矢車は言ってから続ける。


 「とはいえ、私も日本の毒性植物に詳しいわけではないので、よくわかりません」

 矢車はこめかみを押さえている後東に「大丈夫ですか?」と声をかける。

 後東はこういうときでも矢車に声をかけられると嬉しいようだ。


 〈見ていられない〉

 意図してではないだろうが矢車にうるんだ瞳を向ける後東を見ているとこちらが気まずくなる。

 〈そんなに好きなら告っちゃえばいいのに。でも、相手は……脈なしかな〉

 意識を失った後に土蔵で寝かされているという奇妙な状況であるが、あるいはそうであるからこそか、菜々子は日常で繰り広げられる恋愛の話を思い起こす。

 

 大きないびきをかいて寝ていた与田が目を覚ました。

 目を覚ましてから寒さのせいかぶるっと震える。

 

 「これで全員目を覚ましましたね」

 矢車が全員に体の調子をたずねていく。

 頭痛をおぼえる者もいるが、それ以外は大丈夫なようだ。


 「あれ、足りなくないですか?」

 最後に起きた与田が疑問を口にする。

 矢車がうなずく。

 市野井だけはいなかった。


 「皆さんもお気づきの通り、市野井先生はこことは別の場所に連れて行かれたようです。目的は皆目見当がつきません」


 「この集落は人を食べる儀礼というのがあったんでしょ」

 菜々子は思わず言ってしまう。

 そのようなところで拘束されている。そのようなところで1人連れ去られた。

 目的は「皆目見当」がつかないわけがないではないか。

 新納が菜々子のほうを向いてぎこちなく笑う。


 「あのおっさん、脂乗ってそうだからな、真っ先に人身御供にされるんじゃないかな」

 彼なりの冗談なのかもしれない。

 しかし、新納の言葉も彼のぎこちない笑顔も菜々子を不安を当然ながら取り払うものではなかった。


 「新納くん、やめて」

 後東が新納をたしなめる。


 「冗談だよ、場を明るくするジョーク……」

 ぼそぼそと新納が言い訳をしたあと黙る。


 「おそらく、ここはカンヨコの土蔵でしょう。蔵のある家はカンヨコだけだったはずです」

 この集落に来た回数は矢車も多くないはずだ。

 というか、このゼミの調査実習の付き合いでしか来ていない。

 

 〈良い大学を出た人は記憶力とか私たちと違うのかな。そんだけ頭いいのにこんな仕事やってんの、もったいない〉

 

 「土蔵の戸こそ閉まっていて外に出ることはかないません。しかし、希望はあります」

 矢車は両手のひらを組むとそのままぐっと前に伸ばす。


 「集落の人が私たちを監禁した理由は不明ですが、幸いなことに今のところ、我々を手荒に扱う気はないようです」

 確かにそのとおりだ。

 土蔵から出ることこそできないが、自分たちは皆布団に寝かされていた。


 「そのうえ……」

 矢車はズボンのポケットからキーホルダーを取り出す。

 矢車の様子を見ていた新納もばっとポケットから車のカギを取り出した。

 

 「車のカギまでそのままです。つまりここを出て車までたどり着けば脱出は可能なのです」

 矢車の言葉に新納がレンタカーのキーを握りしめたままガッツポーズをとる。

 菜々子もつられるように両拳を胸の前で握りしめる。


 ただし、問題もある。

 そう言うと矢車は話を続ける。


 「意識のない人ってものすごく重いんですよ」

 矢車はそういうとニヤリと笑う。 

 「私が学生の頃は大学生といえば酒を飲んでそこらへんで転がるものという風潮が残ってましてね……。私はなまじっか酒に強かったばっかりによく先輩や後輩を担いで帰ったものですよ」

 平均年齢が70近いこの集落の人々が自分たちを運ぶのはさぞかし大変だっただろう。

 矢車はおそらく180センチメートルを越える長身である。

 そのような大男を運ぶのは担架でも使うか引きずるでもしない限り無理だろう。


 「だから半ば引きずるようにここに連れてきたのでしょう」

 矢車は立ち上がると自身のズボンを皆に見せる。

 泥だらけである。


 菜々子も自分の履いているジーンズを見る。

 黒い泥で汚れている。

 お気に入りでもなんでもないジーンズであるが、汚れているのは嫌だ。

 せめてもの救いは汚れがそれほどひどくないことだ。

 小柄な菜々子は比較的運びやすかったのだろう。


 「ここから1つの問題がわかります」

 まるで講義室で話しているかのような口調で矢車は話し続ける。

 菜々子は矢車の話を聞きながら足をくねらせる。


 「そこそこ乱雑に運ばれたにも関わらず、私たちは誰も目覚めなかった」

 ここで彼は聞いている者たちの顔を見回す。

 菜々子を含め、全員がうなずく。


 「ですよね。これが意味するところは、私たちの盛られた薬はかなり強いものであるということ」

 矢車は説明を続ける。

 矢車曰く、薬理作用をおよぼす植物性アルカロイドというものは大抵の場合加熱しても破壊されることがない、つまり無毒化しないのだそうだ。

 菜々子は彼の話を聞きながら、少し足踏みをする。足踏みせずにはいられなかった。


 「ここで何かを食べたり飲んだりするのは危険ということです」

 矢車が一度言葉を切る。

 菜々子は足をぎゅっと閉じる。

 

 「かといって、飲まず食わずで人間の体は持ちません」


 「だから、急いで脱出をはかる必要があるわけですね」

 矢車の言葉を後東が継いだ。

 

 急ぐ。急ぐといえば、菜々子の我慢も限界であった。

 

 「急がないといけないという話なんですが……」

 彼女は身を小刻みに揺らしながらか細い声を出す。

 話をしていた矢車は気がついたのか、菜々子にこっそりと耳打ちをする。


 「蔵なのでトイレはありません。向こうに『便所』という紙がはられたツボがあります。まだ誰も使っていません」

 菜々子は自分の顔が火照るのを感じたが、どうにもできない。

 礼もそこそこに小走りで奥へと向かう。

 奥の目立たないところは土間ではなく、ひんやりとした板敷きだった。

 本来は土足で入ってはいけないところなのだろうが、そのようなことを気にしている余裕もないし、気を使ってやる義理もない。

 菜々子は奥の物陰に入る。

 矢車の言う通り、そこに「便所」が存在した。


 「寒いですね。立ち上がって少し向こうに歩きましょうか。こんなに寒い中一箇所で座っていては体が冷えてやっていられませんよ」

 矢車が残りの全員を誘う声が聞こえる。

 気を使ってくれているらしい。

 それでも音は聞こえるのではないか。

 せめて土間ならば素知らぬ顔で地面に吸わせることもできるだろうが、板敷きではそれもできない。


 菜々子はべそをかきながらツボの上でジーンズと下着をおろす。

 ひんやりとした空気でぶるっと震え、菜々子は我慢しきれなくなる。


 音が聞こえないように。

 そう思えばそう思うほどに、ツボに跳ね返る音が大きくなるように感じるのだった。

 緊張がゆるんだのと恥ずかしさで涙までが出てきた。

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