13 ランナウェイ
彼は酒こそ飲める方だったが少食で、そもそも食事にあまり興味を持たない方だった。
酒に関しても飲めるというだけで別に好きでもない。
カプセルか何かで栄養補給ができるようになったら、食事はそれで済ませてもかまわない。
そのように考えるタイプであったし、空腹を感じるということもあまりなかった。
しかし、今は進も空腹を感じている。
隣でぐぅーっと腹の音が鳴る。
「腹減ったなぁ」
進がつぶやく。
三田菜々子がうつむいて泣きそうな顔をしていた。
「聞こえました?」
〈このような場合はどう答えれば正解なのだろう〉
進は迷ったあとに「あぁ」と短く応答する。
横目で三田の反応を確認する。
恥ずかしさで赤くなっているうえに泣きそうだった。
〈どうすればいいのだろう。気の紛れるような話はないものか……〉
「柳田は食物に関する民俗語彙を集めてたんだ。カードに書き留めていってそれがまとめられて本にもなっている。ぱらぱらめくると結構楽しいんだ。食ってのは当たり前だけど人間の生活の根幹だからさ……」
進が出せるのは自分の好きなものの話しかなかった。
他人のことを考えて話したことなどない進であったが、このときばかりはそれゆえの話の引き出しの少なさを悔やんだ。
「新納先輩、民俗学、好きなんですね」
三田の反応はそっけないようにも見えた。それでも話が続いて良かったと進はほっとする。
「ああ、うん。歴史って意外に生活に触れていないだろ。昔の生活ってどんなのだったんだろうとか考えて作文に書いたらさ、そのときの国語教師が大学で民俗学やってたとかで色々本を教えてくれたんだ。そしたらはまってさ……」
三田の反応はやはり芳しくないものの、少なくとも泣きそうな顔ではなくなった。
「なのにさ、ゼミに入ってみれば、教授はアレだし、閉じ込められるし、散々だよな。ていうか、行きの車、最悪だったよな」
ようやく三田がこちらを見てくれる。
「行き、ごめんなさい。私が先生を無視したから、先生、余計に新納先輩に当たり散らしてましたよね」
「いや、まぁ、慣れてんだよね、俺。慣れたくないけど」
進の言葉に三田がふふふと笑う。
その笑顔が進の心のささくれを取ってくれる。
「そういうわけで大丈夫だからさ、あんまり気にしないでね」
驚くくらい自然に言葉が出た。
「ありがとうございます。あと……鍋のとき、先輩が人肉の話したとき、嫌な顔しちゃったと思います。ごめんなさい」
不安なのか、三田は普段よりもよく話してくれた。
〈俺はなんで空気読めないで気まずくなるような話をしてしまうのだろう〉
「……ああ、俺さ、なんか人が気分悪くするような話ついしちゃうんだよね。気をつけるよ」
素直にあやまると三田は笑ってくれる。
笑顔がまぶしいという表現、陳腐な表現しか自分の頭の中から出てこないことに進は我が事ながら呆れる。
〈それにしても……〉
六井のせいで散々な目にあっている。
それでも三田とこのように話せるようになったのは良かったのかもしれない。
自分も何か変わったような気がする。
そもそも自分はどうしてここまで六井に嫉妬していたのだろう。
民俗学は在野の研究者が多い学問だ。
進自身も民俗学に興味を持ち始めたころは、大学院に行こうとともあわよくば大学に残ろうとも考えていなかったはずだ。
なまじっか大学入学のところで何回も失敗を繰り返したために、自分は意固地になっていたのではないだろうか。
進は自問自答する。
「新納先輩は、それでもやっぱり大学院とか行くんですか?」
三田がこちらを見つめる。
「それでも」というのはあの狂人のもとで進学するかということなのだろう。
何気ない一言なのだろうが、見透かされていたかのような質問に進はどきりとする。
「どうなんだろう。公務員か教員採用の勉強して、勉強の進み具合によっては修士課程は行こうかな。専修免許状あると教員では有利だろうし」
進の返事に三田が「意外だなぁ」とつぶやく。
「新納先輩って学問一筋で進学しか考えていないと思ってました」
「そうでもない。いや、以前はそうだったのかな……でも、民俗学は野に在って続けられる学問だからさ。なによりも安定第一だよ」
進の言葉に三田が「ですよね」と同意する。
〈我ながら……憑き物がおちるってのはこういうことなのかもな……いや、現金すぎるな、俺も。女の子と話すだけで……〉
まぁ、いいかと進は割り切る。
この先、自分はどうしていこう。いや、それよりも目の前のこの子の笑顔を維持するためにはどのような話をしたら良いのだろう。
自分の将来と今目の前の相手を喜ばせる話について真剣に悩みながらぽつぽつと言葉を紡ぎ出そうとしていた進の思考を中断させたのはがやがやと外から聞こえてくる声だった。
「さぁ、そろそろのようです」
火をつけていないタバコをくるくると回していた矢車が入り口から死角となるところにすっと移動する。
進たちは戸に近くもなく、遠くもないあたりで思い思いに座る。
金属音――錠前を外している音だろうか――がする。
懐中電灯を持った老人が先頭だ。
「おう、みんな起きていたかね。みんな、寝ちまうから大変だったよ」
後ろの老婆が続ける。手した盆には握り飯がのっている。
「そうよ、リヤカーに乗せて運んだからねー。ごめんなー、ムラザケーんちまで運んでやっとけばよかったんだがね、あまりにもしんどくてな、ここ、ジジババしかおらんからね」
「だからよー、近い土蔵に運んだんだよ。ほんとうにごめんなせーな」
ヤカンを抱えた別の老婆が続ける。
〈白々しい〉
進以外もおそらく同じ思い出はないか。
こちらのじとっとした視線を感じても老人たちは笑顔を顔に貼り付けたままであった。
ただし、その目は笑っていなかった。
「ごめんなさい。お手間をかけさせてしまって。それにしても、お腹ペコペコ」
後東の目も笑っていない。
とんだ大根役者である。
とはいえ、進自身も演技に自身があるほうではなかった。
集落の老人たちと自分たちとで繰り広げられる三文芝居。
進は大根役者の1人として加わる。
「お盆いただいてもよろしいですか?」
「あれ? あののっぽの兄さんはどこ行きなさったか?」
「矢車さんは、便所です。寒すぎて腹を壊したとかで……」
進は嘘をつく。
矢車は物陰に息を潜めているはずだ。
老人たちはのんきに「あれ、ごめんなせーな」などと言っている。
「それにしても3人でそんなたくさんの食べ物持ってきてくださって大変だったでしょう? あれ? 後ろのタニミの耕作さんと作治さんはこれから狩りにでも向かわれるのですか? おふたりとも猟銃をお持ちになって……」
後東のセリフは人数、状況を矢車に知らせるためのものだ。
全部で5人、猟銃持ちがいるのが恐ろしい。
「ああ、違う違う。最近な、ここらへんでクマが出てな、この時期にクマが出るっておかしいだろ? だから、あいつら連れてきたんよ」
「寒いからお二人も中に入ってください」
後東の言葉に猟師兄弟が白い息を吐きながら蔵の中に入ってきた。
これで全員が蔵の中に入ったようだ。
「それにしても、月がきれいですね。そうそう、六井さんは月が好きなんですよ」
後東が言う。
「六井は月が好き」、それが作戦開始の合言葉であった。
物陰で息を潜めていた矢車が飛び出してくる。
猟銃を持ったタニミの猟師兄弟の片割れに体当たりする。
不意をつかれバランスを崩した猟師の1人を腕を変な方向に曲げながら、もう1人を蹴り飛ばす。
猟師が痛みで絶叫する。
「さぁ!」
矢車が発したのが合図なのか気合なのかはわからない。
彼は猟銃を進に放り投げる。
進は銃の撃ち方を知らない。
ただ、自分で持っていれば、相手に撃たれることはないだろう。
そのまま蔵の戸に向かう。
三田をつかもうとしている老人を思い切り突き飛ばすと彼女の手を引いて走り出す。
後東と与田は少し先を走っている。
与田はどういうわけかヤカンを持って走っていた。
おそらくもみ合う時に老人たちから奪ったのだろう。
彼は追いすがる老人にヤカンを投げつける。
ヤカンは命中こそしなかったようだが、老人を転ばせたようだった。
「足くじいたよー。この若造どもがー」
〈呪的逃走だな〉
進はおかしくなる。
なにかしらの呪的な効果を発揮するものを投げつけることで追手の足止めをし、その間に距離を稼ぎ逃走する、
『古事記』のイザナギの逃走からの伝統である。
〈与田も勉強してるな〉
進は勝手に決めつける。
投げる呪物の数は古代ならば3つ、昔話でも3つ、近代的な都市伝説なら数は問わない。
今回の舞台は山村、追っ手は山姥とその伴侶といったところか。
〈かといってこの銃は投げつけるわけにはいかないしな〉
ヤカン1つで逃げ切れるように進は願う。
その願いはかないそうだった。
〈逃げ切れる〉
進は三田の手を引きながら走る。
パンという銃声。
後東が後ろを振り返る。
声が聞こえる。
「おい作治! お前、逃げたの追いなせー!」
「わかった兄ちゃん!」
猟師兄弟の声だ。
〈あいつらはどうしてあんなに声がでかいんだ〉
進は汗ばむ手で三田の手を握りしめる。
〈気がつくと彼女の手だけで、先がなかった〉
進は頭に浮かんだ嫌なビジョンを打ち消す。
〈大丈夫だ。彼女は無事だ〉
ムラザケーの吾郎の家が見える。
車はすぐそこだ。
ポケットから鍵をとりだす。
鍵のボタンを推す。
ピッという音とともにロックが外れる。
「みんな! 乗れ!」
進は運転席に滑り込む。
助手席には三田が乗った。
キーを差し込む。
進は震える手でキーをまわす。
外に明かりが見える。
ぱんと音がした。
窓ガラスが割れたようだ。
「くそっ、
逃げて、やらないといけないことがある。
それが何であったのか、進は一瞬わからなくなる。
もう一度、ぱんと音がした。
遠くから三田が自分を呼ぶ。
その声を聞いた進は思い出す。
〈そうだ。帰ったら、あの子を食事に誘ってみるんだった〉
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