エピローグ
22V 我が身もろとも神に捧げん
どういうわけか、今日に限って文庫本を忘れてしまったからだ。
悪いことは重なるもので、こういうときに限ってスマートフォンも忘れてきている。
暇をつぶすには肌身離さず持っているこれぐらいしかないのだ。
記事はあのときの「事件」の
「限界集落を襲った悲劇」という見出しの横にいくつかの顔写真が載っている。
記事には凶暴なツキノワグマが限界集落にあらわれ、集落の住人と調査に来ていた大学教授と学生たちを襲ったことが記されている。
ヒグマと見紛うばかりの大きさのツキノワグマは集落にいた人々を次々と襲っていった。
若い学生たちも年老いた集落の住人たちもクマは等しく襲っていった。
出会ってしまった者はなすすべもなかった。
それでも村の猟師は駆除のために我が身の危険を省みず出動した。
結果は、1人が死亡、1人が重症を負うことになった。
手負いのクマはその後、麓の町にまで現れ、そこでさらに人を襲った。
このクマが駆除されたのは数日後のことであった。
体内からは複数の人の体の一部が出てきて、それらはその後、被害者の体の一部であることが確認された。
ざっとまとめるとこのような話である。
〈それにしても本当によくできた話ね〉
佳波は今でも感心してしまう。
ずいぶんと用意周到に準備をしていたものだ、と。
佳波はスクラップブックをめくる。
犠牲者の人となりがまとめられている。
〈復学した矢先の悲劇……〉
一時は中退しようかと思い悩んだが前向きになって復学した学生が悲劇にみまわれたことが記されている。
与田が大学を辞めるくらいに悩んでいたことを佳波は知らなかった。
余裕ができた今では彼のことを少しだけかわいそうに感じることもあった。
彼のしたことは許せないままであったが、好きなものと一緒にいたい、一体化したい、そのためだったら何でもするという気持ちは今では多少わかるようになった。
「愛とは難しいもの……全てを捨ててでも欲しくなるもの」
口に出したあとに佳波は赤面してあたりを見回す。
誰にも聞かれていないようだ。
ほっと胸をなでおろしたところに彼女を呼ぶ声が聞こえた。
「後東さん、電話だよ」
佳波は立ち上がって「はーい」と返事をした。
〈私の夢はかなった。妄想にすぎないところまでかなった。私は……幸せだ〉
◆◆◆
「テレビの取材って今日だったよね?」
業務用の電気釜をのぞいていた妻はふりかえると首をひねる。
「そうだったっけ?」
「確かそうだよ。カレンダー確認してよ」
「あっ! ほんとだ! 今日だね」
彼が妻に永遠の愛を誓ってから2年が経った。
「病める時も 健やかなる時も富める時も 貧しき時も妻として愛し 敬い 慈しむ……」
矢車はクリスチャンではない。
チャペルで頬を紅潮させながら誓いの言葉に返事をしたわけでもない。
そもそも2人は式すら挙げていない。ただ書類を役所に提出しただけであった。
ただ、彼は妻となる女性に自らの全てを捧げることを誓った。
彼は妻となる女性の前にひざまずいたときのことを思い出す。
彼女の望み通りに彼女を殺そうとし、そして結局のところ、彼女の望みを叶えてやることができなかった。
妻が彼女自身でいつづけられるように彼は全力を尽くすつもりだ。
もちろん女王(の
それでも彼はその日を遅くするために日々努力をする。
そのことは妻もよくわかってくれているはずだ。
そもそも妻に隠し事をするのはほぼ不可能といって良い。
大樹は胸を押さえる。
妻はその気になれば自分の思考を全て知ることもできるだろう。
妻に間借りしている女王、あるいはカンナノカミは子どもたちを通して寄生先の個体の考えを把握することも、場合によっては操ることも可能だ。
その恐ろしさ、かつて女王に操られたクマに襲撃された大樹はそれを痛いほどわかっている。
彼らはアリのような社会性動物の特徴とそれを超えた奇妙な特徴を併せ持つものであった。
単性生殖で個体を増やすことができるのは女王だけであり、その他の個体は女王を助け、その力を増すためにいる。
この個体1つ1つが脳細胞のような働きをし、それを統括するのが女王というわけだ。
だから、このカンナノカミの群れあるいは個体は数を増せば増すほど賢くなっていく。
自分自身も細胞の1つとなった今ではそのことがよく理解できる。
ただそれぞれの個体たちを宿す宿主たちの人格もそのままある。
群れを構成するそれぞれの虫たちは女王を除いて個々の人(?)格を持たない。
だから大樹の人格は大樹のままである。
もちろん、妻の絵里も自分自身の人格を保ち続けている。
ただし、彼女の中には女王という人(?)格をもった個体が棲みついているというだけだ。
女王はこの地を動くことができない。
彼女の生存に必要な成分をもった薬草がこの地でしか育たないのだそうだ。
大樹はそのようなバカなことがあるものかと学生時代の知り合いの植物学者に栽培できないかを頼んでみたが、無理だった。
それどころか変に興味を持たれてしまい、「検疫ごまかして持ち帰った調査地の毒草だから、
悲劇の舞台に移住した元研究者夫婦という話は「事件」のあとにほんの少しだけニュースとなって消費されてしまった。
しかし、その後もずっと住み続け、村興しに携わっているとなれば、たまに思い出す者もいる。
その中にはローカル局の地元情報番組を担当するスタッフがいたのが幸いだった。
彼女が作成したローカル局の特集がそれなりに反響をよんだようで、今回は全国ネットで流れる番組の取材が来るのだ。
「今日はお客もいないしさ、テレビ局のインタビューも午後だよ。だからさ……」
大樹は絵里の肩を抱くと、社交ダンスの真似事をする。
そのまま彼女を寝室に誘おうとする。
「大樹さん、いやらしい」
絵里が頬を赤らめる。
「僕がいやらしくなかったら、面白くないだろう?」
大樹は絵里のうなじに口づけをして、耳元でささやく。
「そうね。あなたの頭の中の私は裸かびっくりするような服ばかり着ているものね」
絵里が笑う。
「見た? 僕の妄想?」
大樹は開き直って問うてみる。
「うそよ、冗談。でも大樹さん、いやらしい格好させてるのね、私に」
絵里は背伸びをすると大樹の鼻をつまんだ。
「ノーコメントだよ。まぁ見てもいいけど、そのときは本当にその格好させるからね」
大樹は笑いながら、シャツの裾から手を入れていく。
絵里はぴしゃりとその手をたたきながらも彼とともに寝室へのダンスを続けた。
「そういえばさ、たまに、その、してる時にさ、誰かが一体になっているような感覚がすることがあるのだけれど、あれ何かな? 女王が覗き見でもしているの?」
大樹はベッドの上で彼女にたずねた。
絵里はしばらく目をつぶった後に口を開く。
「『羽虫が飛んでいるところでお前たちが生殖行為におよんだとして、羽虫に見られて恥ずかしいと思うのか? 私のような人外の
大樹は苦笑いする。
「でもね」
絵里は続ける。
「私もそんなふうに感じる時あるの。女王以外の誰かと一緒にあなたに抱かれているみたいな感覚。なんなんだろうね?」
「探究をしなければならないね」
大樹は答えると、彼女の服の中に手を入れていく。
今度はその手は叩かれなかった。
◆◆◆
午後になってテレビ局の人々が来た。
地方移住の特集番組の中で使う映像を取るのだそうだ。
「だから、ですね」
ディレクターだという男は名刺入れをポケットにしまいながら話し続ける。
「村に受け入れられているという感じがするエピソードをお願いします」
大樹は「まかせてください」と胸をはる。
村でレストランとペンションを営む矢車さんご夫妻が紹介される。
インタビューが進む。
この村を襲った「悲劇」についても大樹はすらすらと答えられた。
絵里が限界集落の在り方について何かしらの解決策を模索するために研究していたことなどを話す。
だから、村が危機にあったときに研究の成果を実践するべきだと考えたと絵里が話している。
大樹のところにマイクがまわってくる。
集落の老人たちが自分たちのことを「カンナ」と呼ぶ理由をたずねられる。
「この村の方々は皆さん、
インタビュワーの女性に大樹はにっこりと笑いかけて答える。
「この村の人々は名字が皆同じなので、屋号というもので呼び合っています。たとえば、あちらを歩いているおばあさん、あの方はイッポンマツのおばあさんです」
カメラを向けられたイッポンマツのヨシコが手をふる。
「私たちの名字は神奈ではないので、屋号はいらないのですが……」
「カンナって屋号は集落の方々が私たちを受け入れてくれた時に、受け入れの証としてくださったものなのです。なんでもカンナというのは昔の言葉でヤドカリという意味があるのだそうです。ここに受け入れてもらった私たちにはふさわしいと思ってありがたく
大樹は隣でほほえむ絵里の肩を抱く。
絵里はとてもかわいらしく映るにちがいない。
それは誇らしいことであるし、またこの地に人を呼び寄せるのにも極めてプラスに働くことであろう。
〈もし、地獄というものがあるならば……〉
自分は間違いなく地獄行きだろうと大樹は思う。
偽りの笑顔で犠牲者を増やそうと画策する悪魔のような男。
〈地獄。いいじゃないか。喜んでいこうじゃないか〉
ただし一人でと大樹は心のなかで付け加える。
あのとき絵里を殺してやれなかった自分だけが行くべきところだ、と。
◆◆◆
「電話、どうしたの?」
夫が彼女の頬に口づけをする。
彼は絵里のそばを離れない。
絵里は彼を縛り付けてしまったことを申し訳ないと思うことが今でもあるが、それは口に出さない。
結婚した後にそのようなこ言った時に彼は本気で怒ったからだ。
結婚前も結婚後も、夫は言葉を荒らげることなどなかった。
その夫がものすごく恐ろしい顔をして怒った。
自分は今幸せだ。自分の幸せを否定するな。恐ろしい顔をしていた夫は泣きじゃくりながら、絵里にすがりついていた。
〈彼は本当に幸せなんだろうか?〉
女王に頼めば彼の心を調べることはできる。
しかし、絵里はそれはしない。
夫の涙が嘘であったならば、絵里はひどく傷つくに違いないし、本当であったらあったで、誠実な夫を疑った自分を恥じて彼の目を見られなくなるだろう。
〈私はあの目が好き。私を優しく見つめてくれるあの目が好き。私のために涙を流してくれるあの目が好き。今でも私の胸元を覗き込もうとするあの目が好き〉
絵里は微笑むと自分の胸元を覗き込もうとする夫の頬をつねりあげる。
「ほら、目つきがやらしいっ! あのね、後東ちゃんがね、スマホ忘れていったからね、うちにあったよって伝えたの。物産展はそこそこに人が来ているって。移住の相談も何件かあったみたいだよ」
〈彼女はあんなにきれいなのに〉
絵里は後輩の後東佳波について考える。
女王から一定距離離れると、彼女の影響力はなくなる。
それでも村のために尽くす後東のことを女王は気に入っているし、信頼している。
好きな人を見つけて外で幸せに暮らしてほしいと思うが、後東は絵里たちのそばにいてくれる。
「2人の幸せな姿を見ていたい」と言ってくれるが、無理をしないでほしいと絵里は思っている。
いつだったか、そのような話を女王にしたら、女王は「人というものは複雑でそれゆえ愛おしいものだ」とわけのわからないことを言って絵里を煙に巻いた。
絵里は仏間で線香をあげる。
彼らに、そして写真として残すことはできない事件後の犠牲者たちに絵里は手を合わせる。
〈ごめんなさい。ごめんなさい。あなたたちの犠牲のうえに私は生かされています〉
夫に殺してほしいと願ったことがある。
彼は絵里の気持ちをくんで行動してくれたが、結局彼はそれを完遂することができなかった。
「自分のために罪でもなんでも重ねながら生きてほしい」
夫が言ったことを思い出す。
夫が横に座るとおりんをならして手を合わせる。
ちーんと澄んだ音が仏間に響く。
ここに座ると絵里も夫も涙が自然と
これは一生涯変わらないのだろう。
夫が絵里を抱き寄せる。
夫の涙が絵里の髪を少し湿らせる。
絵里は夫の胸に顔をうずめる。
お互いの傷をなめ合いながら、彼らは罪深い日々を過ごしていく。
『我が身もろとも神に捧げん』完
◆◆◆
ここまでお付き合いくださり、本当にありがとうございました。
楽しんでいただけていれば嬉しく思います。
無粋を承知でお願いします。
評価や感想等をいただけるととても励みになります。
よろしくお願い申し上げます。
我が身もろとも神に捧げん 黒石廉 @kuroishiren
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