III 夢見る女王
集落の老人たちは身の回りの世話を甲斐甲斐しくしてくれる。
市野井に付き添っていたとき以外には何も変わらぬ単調な生活であった。
ただ大量の飯を食べ、身を清め、寝る。
寝るとたまに不思議な夢を見る。
それ以外は、彼女の生活には何もなかった。
できることならば、市野井に付き添っていたときのことも夢であってほしかった。
あのときの絵里は明らかに市野井を誘惑するような素振りを見せていた。
市野井が絵里の体を慣れていない乱暴な手つきでまさぐろうとするのをいなすことはあっても邪険に払いのけることはなかった。
痛くされるのが嫌であったから、下手くそな手つきをいなすことはあったが、痛くさえなければ、多少は多めに見ていた。
それに自分の手が多少汚れても絵里は気にしなかった。
これで疲れ果てた市野井が眠りにつくのなら、むしろ喜ばしいくらいにも思った。
それゆえ、体を密着させて、彼をはやく寝かしつけようとすることさえあった。
絵里は男性経験がないわけではなかった。
今付き合っている彼氏がはじめてというわけでもなかった。
2人目の彼氏、多いわけでもないが、別に少ないわけでもないだろう。
だから、どのようにすれば相手が反応するかぐらいはわかっている。
しかし、当たり前であるがそれは誰にでもするというものではなかった。
付き合っていなくても体を合わせることは可能だ。
そううそぶく友人もいることにはいた。
絵里自身はそれを諫めることこそしないものの、自分は決してそのようなことはすまい、いやできないだろうと思っていた。
それにもかかわらず指導教授として尊敬こそしていても、男性として見たことがなかった市野井を喜ばせるような行為をしている。
自分のやっていることが絵里には信じられなかった。
自分を求めてくる市野井をいなしながら、絵里は顔をそむけて手に喉の奥から出てくるものを吐き出す。
そのよくわからない塊をオブラートにつつみ、
期待に満ちた目で絵里を見つめる市野井の頬を両手でやさしくはさむ。
そして、顔をそっと近づけていく。
このようにしながら、絵里は市野井に自らが吐き出した得体の知れないものを口移しで与え続けたのだった。
時折、ものすごい嫌悪感にさいなまれるときがある。
どうして、目の前の男は自分を殺してくれないのだろう。
自分は殺されるべき人間なのだ。
いや人間ですらない。
絵里は自らを責める。
しかし、そのような気持ちになるのは一瞬で、それ以外は自分がしていることをどこか遠くから眺める絵里であった。
こうしている間に、いつしか、自分の子ども、いや自分の子どもたち、市野井に対してはそのように慈しむ気持ちが絵里の中のどこかに芽生えている。
しかし、それは絵里の気持ちでありながら絵里の気持ちではない。
絵里自身はその複雑な気持ちを持て余し気味だった。
だから、市野井が連れて行かれたときはほっとした。同時に少し寂しくもあった。
◆◆◆
絵里の見る夢は不思議なものだった。
自分が集落の誰かになって何かをしているときがあった。
夢の中で絵里は自分のために風呂をわかしていた。
あるときは、絵里は自分のために食膳をしつらえた。横にはイッポンマツのヨシコが一緒だった。
またあるときは、座敷牢のようなところに閉じ込められている後東と与田のところにお湯を運んだ。
お湯を運んだ絵里はついたての向こうで服を脱ぎ体をふく後東を眺め、顔を真赤にしてうつむく与田に「のぞいちまえ、減るもんじゃねーよ」と声をかける。
いつだかの夢では自分の手は毛むくじゃらで長い爪がみえた。
タニミの耕作は自分のことをポチと呼ぶ。
弟の作治は自分のことをムーンと呼ぶ。
「おめーは学校で
絵里はうなって返事をする。
「ツキノワグマなんだからムーンのほうがかっこえーだろ。ポチってなんだよ、兄ちゃん。犬じゃねーんだからよ」
どちらでも良い。だから絵里は唸り声で返事をしてやる。
耕作がにこりと笑う。
「しかし、こいつ、カミサマはいりきってねーけど、
大丈夫だ。
絵里はうなり声で応答する。
絵里はちゃんと帰ってくることができる。
それにどういうわけか、誰かが絵里に命じていることも理解していた。
山の中に隠れている女を連れてこいと。
絵里は解き放たれ、女を探しにかけていくのだ。
この夢の先を絵里ははあまり思い出したくない。
思い出したくない夢といえば、市野井に関する夢も嫌なものであった。
うつろな目をした市野井を皆で風呂に入れ、ブラシでごしごしとこする。
そのあと、絵里は市野井を座らせ、胸の下からぐっと手にした刃を差し込んでいくのだ。
血抜きの最中、隣にいたタニミの作治が市野井の萎縮した一部を切り落として、イッポンマツのヨシコに見せびらかす。
「ババア、精力剤だ。マサに食わせて今夜はホームランにしなせー」
タニミの作治がげらげらと笑う。
そして、少しずつ市野井だったものを部位ごとに分けていくのだ。
「これで俺らのカミサマも数を増やし、力を増すなー」
風呂場をのぞくカンヨコの一郎は感慨深げであった。
絵里は村人たちの誰かの心に入ることができるようだった。
しかし、絵里の心の中には誰も入ってこられない。
◆◆◆
例外はある。
絵里の心の中に村人たちは入ってこないが、絵里の心の中にはすでに誰かがいる。
自分の中に誰かがいる。
そう思った絵里はためしに心のなかで問いかけてみた。
問いかけに対して返ってくるのは、はじめのうちはよくわからないうめき声のようなものばかりであった。
それでも何かが返ってきた。
だから、絵里は問いかけ続けた。
絵里が夢見る回数が頻繁になるほど、絵里の夢が鮮明に成るほど返事は確かなものとなっていった。
そして、あるとき、鮮明に言語化された答えが返ってきた。
〈あなたは誰?〉
絵里は問う。
〈私は私、ここで生きてきた私。あなたの体を借りて、あなたと一緒に私たちは私になる〉
絵里の問いかけに答えるものは絵里と一緒になりたいらしい。
〈では、私はどうなるの?〉
絵里自身は自分がどうなろうともかまわないとも思ったが、家族や好きな人に再び会えないのは悲しいと思った。
〈私はあなたになるし、あなたは私になるし、私たちは私になる。あなたはあなたのまま、私にもなり、私は私のまま、あなたになる。そして、私はあの人たちと一緒に私になる〉
絵里は恋人を思い出す。
彼はたまにふざけて煙に巻くような難しい喋り方をすることがあった。
あの人は今どこにいるのだろう。
絵里の考えに誰かが答える。
〈お前の配偶者候補は今逃走中だ。あの人たちが探してくれているだろう?〉
無事だということに安堵する反面、彼が
でも、今は何もできない。
だから、絵里は問い続ける。
〈あの人たちって?〉
〈私の大事な子どもたち、私の忠実なしもべたち、私の大事な一部、そして、私そのもの〉
何であるかはわからなかったが、人々の力が増せば、彼女の力や知恵も増す。
問答相手はそのようなことを教えてくれた。
〈一緒になったら、あの人たちは私の中に入ってくるの?〉
自らの思考がすべて他の人に筒抜けになるのは嫌だ。
絵里は聖人ではないし、隠しておきたいことだってたくさんある。
問答相手が笑ったのがどういうわけかわかった。
彼女、あるいは絵里は〈大丈夫だ〉答える。
〈女王にはそう簡単には謁見できないものであろう〉
絵里は何かしらの女王となったようであった。
絵里は恋人に乱暴なことをしないように女王たる自分に
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