永黒の月の魔女

椹木 游

第一話「シュールズマンの名の元に」

    一  聖なる貴き少女らSaint Of Nobility Girl ’s



 かつて、このアウトグランの空は青色に染まっており、そこにはルビーよりも明るい‘太陽’という星が浮かんでいた。そこへよこしまな悪魔が、同じく空に浮かぶ月という星に魔法をかけた。

 月はたちまち太陽を喰らい尽くし、瞼を閉じても開いても変わらない程に暗くなっていた。

 そこへひとつの光が人々を照らした。その光は太陽にも負けない強い光であった。

 その輝く光はただ一人の魔法使いによって唱えられた一つの魔法だったのだ。

 魔法使いは幾人かの弟子を付けた。最初は小さな光であったが、育まれてゆくうちに、そして新たな仲間が集う内に大きな光となっていった。

 悪魔の方はというと虫を変異させ人々にけしかけたのだった。その虫は人呼んで‘鉱虫こうちゅう’は悪魔のように強く、多くの力なき人々が殺されてしまった。

 魔法使いとその弟子たちは悪魔に負けじと、撃退するすべを身に着けた。

 そして百年経った今も、悪魔と我々魔法使いの戦いは続いている。


 うすぼんやりとした明かりが窓から射す二階の角部屋には、誇り高き‘シュールズマン’の名を持った少女が独り、蝋燭の小さな火を頼りに本を音読していた。

 「ミシェル様、くれぐれも明かりをつけて読書くださいまし。目に悪うございます故」

 「わかってるわ、ありがとうモイラ。明日もよろしくね」

 使用人のモイラは扉越しに礼をして、しとしとと去っていった。

 ミシェルはわかっていた。モイラは決して善意で言った訳ではなく、屋敷が暗くなるのを忌避した父上がそういうように遣わせたのだと。

 「モイラも人がいいんだから」

 そういいながら貢の間に羽の栞を挟み込み本を閉じ、火に蝋燭消しを被せた。



 朝、と言っても昼夜問わず相変わることはなく空は黒いままであった。

 モイラが時間きっちりに扉を三度叩いて声をかける。

 「ミシェル様、時間にございます。ご支度を」

 「わかったわ、入っていいわよ」

 そういうと、そばかすを乗せた二十歳の女性が扉をそっと開けた。

 ゴロゴロと音を立てたワゴンには水の入ったボウルと空のボウル、ふわふわのフェイスタオルが乗っており、ミシェルの寝るベッドの脇につけ、ミシェルを起こした。

 「今日は霧が這っており、視界が悪うございます」

 「そう、月が見えなくて残念ね」

 ふふっとモイラは笑った。モイラもまた、月が嫌いであるということを知っていたのだった。

 チャパンチャパンと水で顔を流し、タオルを当てがった。いずれもモイラの仕業だ。 

 「ミシェル様、お召し物を」

 「モイラ、いい加減私ひとりで着替えてはならないのかしら」

 「ミシェル様、お召し物を」

 ため息もほどほどに両の手を挙げた。モイラはボタンを手際よく外し、いつの間にか持っていた制服と取り換えた。

 「よくできました。お嬢様」

 「はあ……まあいいわ、今日の朝食はなにかしら?」

 「今日はローストビーフ四枚にコーンとお豆をたっぷり、卵とジャガイモの塩茹で、ソーセージ三本とパンを二切れ、お紅茶は砂糖一つまみ多めです」

 ワゴンの上下を替えると、銀色のクローシュ※    がミシェルの顔を歪に映していた。

 ミシェルはテーブルに移動しており、昨日の本と蝋燭を隅に寄せた。そうしている間にもモイラは、ワゴンからこれもまた手際よく、次から次へとお皿を乗せていた。

 モイラがクローシュを開けるたびにあたりにふわりと漂う匂いが胃袋を撫でた。



 腹の程よく膨れたミシェルは紅茶の香りを纏い、玄関に立っていた。

 モイラは黒い傘を持たせ、黒い帽子の斜め具合を調節し、校章を正した。

 「いってらっしゃいませ。お嬢様、くれぐれもお気をつけて」

 少し寂しそうに、いつもは言わないような一言を足して送り出す。

 扉が寸分違わず両方同時に開くと、あとは歩くだけで真っ直ぐの所に馬車が構えてあった。

 ミシェルは何も言わずに目だけを合わせて歩みを進めた。

 青々とした茶葉がさわさわと音を立てて健やかに送り出す。幾らかの使用人が‘照らし番’として、魔法でもって傘の先に絶やさず明かりを点けている。

 すれ違いざまにわざわざ立ち止まって品よくお辞儀をし、茶葉同様ミシェルを送り出す。

 「ミッシェル嬢様、お忘れ物はァございませんか?」

 キャリッジ※    のような黒塗り金縁の車体の馬車にの先に乗っている壮年の馭者ぎょしゃが器用に手綱を前後させながら、そう声を掛けた。訛りが強くて聞きづらい。

 「ええ、今日もよろしくお願いするわ」

 「今日は少々ォ霧が濃いですので、ゆっくり行きますがよろしいィでしょうか?」

 「もちろん。あなたの腕にお任せするわ」

 「なァにを、ミッシェル様の方がお上手でしょうにィ」

 開けられた扉に入り込むと、ぐわりと馬車が揺れる。いつも静かに入るのだが、年期があるのかどうしても揺れるのが気に食わなかった。

 静かに座り、サッとフリルを払う。手を交差させ膝に乗せたままピタリと止まる。

 「やや、しかしながら少し寂しゅうございますな」

 「あらあら、少しなのかしら?」

 「これはこれはご勘弁くださせェまし……ミッシェル様を見ているとォ、奥様を見ているようで……ことあるごとに繰りィ広げる当主様との舌戦は見ていて楽しゅうゥございました。なにせあれほどの口を利けるのはお嬢様と奥様ただの二人でしたから」

 ふうんと、返事をするミシェルはまんざらでもない表情を浮かべてはいたものの、いわゆる母と言われている女性を幼少期以降に見たことがなかった。

 「お母様もやるじゃない」

 「はっは……きっと奥様もそうお言いになります」

 やがて、霧中をからりからりと音を立てて進む一行は魔法学院 ‘聖なる貴き少女らSaint Of Nobility Girl ’s’ へと到着した。

 「ではお嬢様、お気をつけて。学院とは話は付けております故、何卒」

 「言われなくても、ペレ爺も気を付けて」

 「ありがたきにございます」

 ぐわりと馬車を揺らし、その小さな足を地につけた。

 宵闇の中でも黒光するタイツを前へ後ろへとさせ、優雅に門をくぐった。



    二  ミシェルの部屋Michele 's Room



 寮の玄関は大豪邸のようで、いくつものシャンデリアの蝋燭がぼうぼうと光っている。

 「お久しゅうございます、ミシェル様」

 そういったのは寮の監督であった。揺れ薄い声や深くしわづいた顔がペレ爺に似ている。

 蝋燭の火が、シャンデリアごと揺れるたびに堀の深さが変わるようであって不気味だ。

 「まずはご進級おめでとうございます。お荷物とお金銭は預かっております。お日傘をお預かりしましょう」

 そういう監督の脇にはひとつの台車があり、そこに三人分ほどの荷物が乗っていた。

 眉毛を潜めてミシェルを待つ。持っていた傘を渡し、手ぶらで歩き始めたミシェルは監督の後ろを静かについていった。不気味なほど静かな空間だった。

 「ご進級につき、寮内には二名の下級生が付きます。アマンベイル家のご長女のオデット様とウォールディン家のニコラ様にございます。くれぐれも仲良くお過ごしくださいますよう……ご存じの通り階級のいざこざが絶えませんでして……」

 言いながらも暗いじゅうたんを歩いており、何回かの廊下を曲がった先の扉の前に止まった。

 どこからともなく年季の入ったステッキを取り出すとドアハンドルを三回コツコツと叩いた。

 するとカチリと音と共に扉がひとりでに開いた。シルバーのネームプレートには『Michele 's Room』と書いてあった。

 「今年はこちらにございます。昨年とは場所が違いますのでお気をつけくださいますよう……。では、ごゆるりと」

 荷物を受け取ると、一礼をして中へ入っていった。

 老人はふっと笑うとステッキを器用にひっかけてくるりと台車を回し、闇の中へと消えた。

 「はあ」

 扉を閉じてからゆっくりと息をした。

 ミシェルは額に浮かんだ汗をハンカチでトントンと拭うと、ベッドの方へと荷物を運んだ。

 内装は各部屋で少しづつ違うらしいのだが、この部屋は下級生の使う二段ベッドと、上級生の使う大きなベッドが置いてある部屋と、小さな暖炉のある談話部屋の二部屋の構成だった。

 下級生だったミシェルは常々、堂々と一人で寝られる優越というものに憧れていた。

 ベッドの上でかばんを開け、さっさと大きなクローゼットに寝間着などを入れていった。

 麻の巾着がどさりと置いてあったため広い上げ、紐を解いて中を見た。

 「まずまずってところね」

 金貨銀貨がじゃらりと入っていたが、確認すると再び袋を閉じた。

 そこで扉がガチャリと開くと荷物を抱えた二名の女生徒が溌剌はつらつと入って来た。

 「わあ! ここが宿屋ね!」

 「宿屋じゃないわ、寮よ。オデットさん」

 短めの優しいベージュ髪にそばかすを乗せた少し男っぽい小柄なオデットと、背が高く割に痩せ気味のシルエットと黒の似合うストレートヘアが特徴のニコラである。

 オデットはベッドにいたミシェルを見つけると、咳で払って近づいて挨拶をした。

 「ごきげんよう。私は、アマンベイル家長女のオデットにございます。これからひとつ屋根の下、よろしくお願いいたしますわ」

 「あら、アマンベイル家はカーテシー※    もろくにできないのかしら?」

 「なっ」

 ぎっと顔を変え、その場で固まってしまった。顎をくいっと持ち上げる。

 「ここはミシェルの名の冠した誇り高き部屋よ。みっちりと、マナーを教えてあげる」

 「ご、ごきげんよう。わわ、私は……」

 「ニコラでしょう? わかってるわ、さっさと支度をなさい? これからあなた方は ‘私’ の ‘時間’ を使って勉強するんだから、それ相応の成果は出しなさい。いいわね?」

 語気を強めたミシェルに、オデットとニコラは人形のように手足を掴まれ、手の高さから足の角度までを固定されていく。

 これでよしとされたときには、カーテシーのお稽古は二十分程。その間、立ち続けていた。

 ミシェルがお手洗いにと出るが良しに二人は肩を支え合った。

 「これってマジ……? 仲良くなれそうにないんだけど」

 「確かにこれは……」

 苦笑いでそう顔を見合わせる。

 「ここは友達になるところじゃないの。勉めて技を極めるための学び舎よ」

 「い、いつの間に」

 「ちょっとハンカチを忘れてしまってね。ほら、もう一度挨拶をしてごらんなさい」

 するとサッと、カーテシーをする。

 「及第点ね」

 そういって制服をひらりと舞わせると紅茶の香りをサッと振りまいて行ってしまった。



 「あーあ」

 お手洗いに行っている間のオデットの大きなため息には、パンドラの箱のようにあらゆる憎悪が詰まっていた。希望は解け消えてしまったようだ。

 「しょうがないわオデット。しばらくの辛抱よ」

 「外れよ、外れ! なによ『及第点ね』って、すました顔で!」

 「言葉が汚くなってるわよ」

 「ミシェルは、誇り高きシュールズマン家でしょ? もっと優しいお姫様かと思って期待した私が間抜けだったわ」

 「そうは言っても名実ともに、私たちを立派にしてくれるとは思うけど……確か歴代でも類があるかないかの早さで上級生に進んだって聞いたわ」

 「そうだと良いけど」

 「今帰ったわ」

 お手洗いから返ってきたミシェルは涼しい顔をしてソファに座った。少し硬い。

 「知っているとは思うけれど、この学び舎では三ケ月に一回 ‘季期きっきテスト’ があるの。それによって学校は金銭の援助をしてくれるわ。あなた方も家に迷惑を掛けたくなければ……いいえ、立派に自立するためには自力で稼いで家に仕送るくらいの気概でいきなさい」

 そういうと、クローゼットから三つの袋を取り出した。皆のお金が入っている麻の袋である。

 「開けなさいな」

 「開けてどうすんのさ」

 「ひとつにして私が管理します。月にお小遣いを渡すわ。それで生計を立てなさいな」

 渋々二人は袋を開けた。何を隠そう、この袋は自分以外に開けることができない特殊な魔法がかけられていたためである。

 「ガキじゃねえっての……」

 「何か言ったかしら、オデットさん?」

 「いいえ、別に」

 「はい、はい、確かに」

 そうして一つの袋に入れる前に、金貨一枚と銀貨二枚、銅貨五枚を渡した。

 「な、七千五百ルクスぽっち……」

 「十分持つはずよ。月にこんなに貰えるのだから有難く思いなさい。勉強に必要な道具は一緒に買いに行きましょう。もちろん、あなた方の頑張りによってはお小遣いは増えるから」

 「ありがとうございます」

 「ニコラ、話しが通じて助かるわ。くれぐれも二人は切磋琢磨なさい」

 「私はカリキュラムを決めなければなりません。しばらくは二人で過ごしていなさい。他の名家の方々と交流するのも良き社会勉強。在学する全ての貴族方々をご学友にする気持ちでね」

 そういうと、紙を取り出し何やら書き始めた。二人はというと寮外へと出ようとした。

 「お待ちなさい」

 「な、なんですか?」

 「カーテシーをしてごらんなさいな」

 ぎこちなくも二人は、先ほどみっちりしごかれたカーテシーを披露する。

 「よろしい」

 その一言を発すると再び紙にと向かった。オデットはツンとした表情を浮かべていた。



    三  ガラス細工



 丘の上の魔法学院 ‘聖なる貴き少女らSaint Of Nobility Girl ’s’ を下っていくと、そこには眠らないランプ街という建物群がある。当然、開いている店は明かりが点いており、閉まっている店は消えているのだが、それらが代わる代わるに店番をしているためで眠らないのである。

 「あーあ」

 再びのため息。麻袋を持っては下げ、持っては下げ、その軽さを確認する。

 「幸せが逃げますよ?」

 「もとからあったもんじゃないよ。もう実家が恋しいよ」

 そういいながら近くに雑貨やら飲食やらが露店をしている通りに出た。

 「そういえば、あなたはなぜこの学校にいらしたのですか?」

 「そりゃあ家が嫌になったからさ」

 襟元を崩れない程度に引っ張ると露出した褐色気味の肌の中でもが現れた。

 「照らし番ですか」

 「こちとら大富豪ミシェル様とは違って、令嬢だろうが修道女だろうが照らし番しなきゃ、いけない身分なのでね。おっと、わかってるとは思うけど他の奴には言うなよな」

 「ええ、ですがそれがくっきり写っているあたりお勤めを真っ当されていたのですね。素晴らしいと思います。尊敬致します」

 「……いいとこに嫁いただり強くなって国やどこかの御仁の用心棒でもして、家族に楽させたいっていうのがマジな話かな」

 「どうしたのですか?」

 「なんとなく」

 ふふふと笑いながら往来を渡っていると、少女の心をくすぐるような雑貨が売っているお店にたどり着いた。十字枠の窓からは煌びやかなガラス細工がランプの光を乱れに反射している。

 「こういうの好きなのですか?」

 「ん? ああ、下の奴らがな。割れたワインボトルの深緑の破片も宝物にするくらいだからな。まあその時は危ないからやめろと言ったが」

 「入ってみましょうか」

 「いや良いよ別に」

 言うが否やニコラは先に入ってしまっていたためやむを得ず入ることになった。

 小さな丸眼鏡をかけた老婆がしわがれた声で迎えた。足が悪いのかその場に座りっぱなしだ。

 オデットの目に留まったのはひとつの蒼いグラスであった。

 それは三つのガラスでもってして ‘ひとつ’ のグラスのようで、重ねてみると一枚の絵のようになるといった仕掛けであった。

 「まんざらでもなさそうですね」

 「べ、別にそんなこともないけど」

 「口元が緩んでますよ」

 サッと口元を隠すが、隠し通せないと観念したオデットは肩を降ろして値札を見る。

 「い、一万ルクス……」

 軽い袋を握りしめて降ろした肩をもっと降ろしたオデットは踵を返そうとした。

 「二人合わせれば足りますね」

 「いやあ、さすがに申し訳ねえって……。お金も五千ルクスしか残らないし、それじゃあおまんま食いっぱぐれちまう」

 「おま?」

 「あー、ご飯代の節約に困るよなって話だ」

 「大丈夫ですよきっと、節約を頑張って頑張って、もし足りなくなってしまったら最悪ミシェルさんにご相談いたしましょう」

 しばらく小さな唸り声をあげ続けていたが、決意して口を開いた。

 「ニコラ、恩に着る! 下の奴らの顔が目に浮かぶよ!」

 満面の笑みを浮かべて老婆の元へとその品を持っていった。二人は袋を開けじゃらじゃらと金銭を丁度に勘定して品が包まれるのをじっと待った。そして木の香る箱にそれは仕舞われた。 



    四  カーテシー



 小箱を前にして大切に抱えてご満悦なオデットは意気揚々と通りを歩いていた。

 隣を歩くニコラもまた少し歩幅が広がっていたのであった。

 「霧が深くなってまいりましたね」

 辺りの霧は朝に比べて数段濃くなっており、街の灯りが一層ぼわっと光を放っていた。

 「魔女でも出そうだな……」

 「寮に戻るにしても少し間を開けてからでもいいかもしれませんね」

 そういいながらも歩いていると前を見ていたのにも関わらずニコラがつまづいた。

 咄嗟にオデットが手を添えると間一髪、倒れることはなかった。

 ニコラがお礼を言うか否やで背後の方からくすくすと笑う声が聞こえた。

 ちらりと見やると、見覚えはないものの同じ学院生であることが分かった。高等部らしい生徒を中心に三人組で歩いているが、おそらく同じ部屋なのだろう。

 「あら、目上の身分に対してすれ違うだけなのかしら。とんだ礼儀知らずねえ」

 にへらと笑いながら手持ちの日傘を小さくブラブラとさせている所をみると、わざと足を掛けられたのだろうと、二人はすぐに思った。

 「あらあら、随分と時間にゆとりがあること。挨拶もできないのかしら」

 「仕方ないわよ、だって挨拶の仕方が、わからないんですもの」

 甲高い笑い声が霧の中に、悪夢のように響き渡った。オデットの顔は熱くなっていく。

 「あらあらあら、お二人ともおよしなさい。弱い者いじめは」

 高等部らしき生徒がその言葉を言うと、オデットは前へ出た。

 「あら? なあにその目は。穏やかじゃないわね……あ、弱い犬程吠える喩えのアレかしら」

 「黙って聞いていれば」

 そういうと取り巻き二人の日傘が両の足元をさらうように掬われると前に突っ伏す勢いで倒れ込んでしまった。木箱をぎゅっと抱えて倒れたため体制が大きく崩れてしまった。

 「あらあらあらあら、この子、身体に日焼けの後があるわ! 見てくださいまし!」

 着崩れによって肩や背中の日焼け跡が見えたのをみて、取り巻き二人は日傘の先でもって服を引っかけてさらに明らかにさせた。

 「あ、わかりましたわ! この子アマンベイル家ね! 通りでねずみみたいな目つき!」

 「照らし番がお似合いよ~」

 一層大きな笑い声が霧に木霊した。ニコラは足がすくみ、その様子をただ見ていることしかできなかった。

 口角を冷ややかに上げた高等部らしき生徒は木箱を見つけると日傘の先を器用に使い、ひょいと手元へと寄せた。オデットは奪われんと抗うも、取り巻きに妨害をされたのだ。

 「安っぽい品ね」

 中を開けてがさつに掴むと下から上から見まわす。何度も何度もオデットと品を交互に見て『安物』と、言葉を呟いていた。

 「あなたが私と同じ貴族と括られるのが不思議でならないの。庶民は庶民らしく、引っ込んでてくれないかしら」

 言い終わるとゆっくりとグラスを傾けた。重なった蒼いグラスが三つに分かれてサラサラと音を立てて落ちていく。


 「ごきげんよう」

 

 落ち割れるはずのグラスは、時間が止まったかのようにその場にピタリと留まった。

 笑い声はすっかり止んだ。霧のせいか、辺りはピリッと冷えた。

 声の方を見ると、見事なカーテシーをしているミシェル・シュールズマンの姿があった。

 「あ、あなたは……」

 「あら、あなたは目上の身分に対して挨拶もできないのかしら」

 ぐっと、下唇を食むと高等部、続いて取り巻き二人はカーテシーをした。

 それをしり目にグラスを引き寄せた。手元に来る頃にはすっかりと元の三つに重なっていた。

 「あら、なかなか見る目があるじゃない。これは上等な品よ。この蒼いガラスは‘硬虫こうちゅう’からとれる薄羽のそれよ? フランソワーズ・ドローレスさん?」

 高等部らしき生徒は顔を赤くしてカーテシーを続けている。

 「あらあら、フランソワーズさん。お足元にいるのは私のご学友なのですが、生憎、手がふさがっているの。是非、手をお貸しになってくださいませんか?」

 渋い顔をしながらそっぽを向きつつ、手を差し伸べてさっさと起こした。

 「ここは私の顔に免じて、お帰り願えないかしら。挨拶の仕方を教えるのにあまり時間を使っていられないの。あなた方と違って、ね」

 三者三様に悪態でも吐きそうな表情を浮かべている。そして、そのまま三人はミシェルの横をそそくさと通り抜けようとした。

 「お待ちになって」

 「まだ何か御用かしら?」 

 「お二人とも、挨拶のを」

 背中で語るミシェルに言われ、向き直ったオデットとニコラは見事なカーテシーを行った。



 ※クローシュ:釣り鐘型の婦人帽が語源。料理の鮮度や温度を保つためのドーム状のカバー

  キャリッジ:四輪の二頭、または四頭立ての大型馬車。

  カーテシー:上流階級の挨拶。膝折礼。膝を曲げ、スカートをちらと持ち上げる礼。

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