第十七話「悪魔の血」

    一  黒い雨は全てをさらって



 私の父は炭鉱夫。母は王族の遠い血縁。二人は駆け落ちして、貴族街を抜け出した。

 暗い暗い空の下。二人は出会ったのだ。

 「見てあなた! この子、笑ったわ。ほら撫でてあげて……」

 「俺が触ると黒くなっちゃうよ……ああでも、可愛い。すごくね」

 黒い雨の降る幸せな集合家宅の屋根の下。ここはいつも晴れていた。あの日までは。


 「あなた!」

 悲痛な声は炭鉱の潰れた入り口だったところに木霊した。轟音と立ち上る黒い霧の濃さで異常を感じた人々が炭鉱にこぞって駆けつけた。しかしそこに入り口は無かった。

 岩石の僅かな隙間から焦げた臭いと赤白い光が漏れ出ていた。

 母はしばらく他の人々と同じように岩石を退かそうとしていたが、やがてその場を離れて声が枯れるまで探し回った。しかしわかったことは、炭鉱で崩落事故があったことと、助かった人間はだれ一人いなかったということだけだった。

 数時間だけの滞在だったのにも関わらず母が随分と歳を取ったように見えたのを覚えている。


 父が居なくなってから貧困はその歩幅を狭めた。住むところはさらに小さくなり、母との時間も減っていった。なぜなら母は身体を売っていたからである。

 酷くボロボロになっていく母を私はただ眺めることしかできなかったが、そんな私をへとへとの腕で抱きしめてくれた。薄着で冷えていたであろう母の背中に手を回した。時に赤く、時にあざになりながらも笑顔を絶やさずにいてくれたのである。

 この時も黒い雨が降っていた。ボロボロの傘を差してはいたがその振る舞いは王族の名残りを残して、貧しさの臭いを一切感じさせずに仕事へと向かっていたのである。


 そんな母にも毒牙がかかる。病気である。無理をし過ぎたのだ。

 力なく細っていく母に代わり、水仕事をする。あっという間に手が荒れた。指の間の水かきが切れて痛む。関節は油の塗っていない機械のようにぎしぎしと音を立てる。

 「誰かが代わりにやってくれたらな……」


——ドンドン


 扉が叩かれる。ただでさえおんぼろな木の扉は、より大きな音を立てて私を呼ぶ。

 「医者のジェルマンです」

 「ああ。母に?」

 「ええ。薬の残りと、調子を見にね……おや、手が荒れていますね。これを使いなさい。この軟膏を患部に刷り込むと良い」

 「ありがとうございます。でもお金が」

 「はっはっ、そんなものはいりません。もとより余りですし、それでよければ。富豪の皆さんは使い方が雑把ですからよく余るのですよ。代わりに余分にお代を頂くこともありますが」

 ウインクで中に入っていく中年男性の背筋は伸びており、ほとんどただの棒にコートと帽子を掛けた。

 「それ、少しだけ肌が白っぽくなってしまうので塗り過ぎには注意してくださいね」

 しばらくすると彼はにこやかに出て行った。薬を余分に置いていった彼の背中を見届けてから軟膏を早速塗ってみた。べとべとしており患部にじっと沁みる。美しい肌をランプの明かりに照らし見た。


——ドンドンドン


 「今度はだれ?」

 再度叩かれた扉。来訪が珍しいことだけに体が思わず震えた。いらつきながら扉を開けた。

 「やあ、初めましてお嬢さん」

 先ほどとは打って変わって近寄りがたい程の強面の壮年男性だった。背も大きく、全体的に黒色を纏っていた。跳ね返すような黒い衣服と杖に見惚れていると男性は話を続けた。

 「君のお母さまと知り合いでね。前に世話になったことがあるんだ。だからこそ、窮地に陥る君に手を伸ばしたわけだ」

 「ええと、中に入ります?」

 「いいや……これを君に」

 何処からともなく美しく丸まった紙を取り出した。金色の百足むかでの様なリボンで止められたそれを手渡すと、会釈をしてから踵を返す。

 「学院への入学願書だ……学費は私が担保しよう。おおっと、そうだった。私の名前はセインだよ。セシル・レインブラック君。私の期待に応えてくれることを願うよ」

 彼は傘をさすことなく、黒い雨の降る住宅街の陰に消えて行った。



    ——セシルさん……! セシルさん!



 「強く打ち過ぎたか?」

 依然として黒い霧が立ち込めるローゼンドーンのとある宿。先日ニコラのフライパンによる痛烈な打撃により気絶したセシル・レインブラックを囲う様にしてその様子を伺っていた。

 「うう……ん」

 「セシルさん。大丈夫ですか?」

 「ええ。ありがとうオデット……う……頭が……」

 セシルは頭を押さえてはいたもののその場からゆっくりと立ち上がった。

 「私は一体……というか私たちはなぜここにいるの?」

 「え! もしかして覚えていないんですか?」

 「(おいおいモーリス! 薬の配合間違えたんじゃないか?)」

 「(いいや、断じてそんなことはない! そんな副作用もないはず。なにかおかしいよ)」

 「何をこそこそしているの? うう……頭が痛いわね」

 そう言いながらをさすっており、気絶前の様な覇気はどこにも無かった。

 「気分が、悪いわ……ひどく……」

 力無くへたり込む彼女が床に衝突しないようにオデットは足をさっと動かして、落ちるよりも早く肩を掴んだ。がくりと首がもたれた。

 「あつっ! これ熱があるんじゃないか!?」

 その言葉を聞いてわたわたしていたニコラはその細い指を喉に這わせた。

 「確かに随分と腫れているようですわ。早くお医者につれていかなければ。馬車へ!」

 オデットは短い掛け声とともにひょいと担ぐと、そのまま宿を出たところにある馬車へと手を使わずに乗り込んでしまう。続くニコラもまとめてあった荷物をいつの間にか持っており、気が付いたときにはもう出てしまっていた。あっけにとられるグレイシアとモーリスは二人の後を追いかけた。



    二  悪魔の血



 「集まったね」

 分厚い黒色の天井が低くその足を延ばすアウトグラン。それは今にも泣きだしそうな表情をしていた。過密な三階建て店舗街の外れに位置する「天使たちの止まり木」に、新たな天使ミシュことミシェル・シュールズマンを迎え、つい先ほど起きた事件が落ち着いたところであった。

 「ミシュは、落ち着いたかい?」

 「ええ。おかげで」

 「そうかい、流石だねぇ。じゃあ今後についての話をしようじゃないか」

 元に戻した丸い木の机の上に小瓶をひとつ置いた。

 「これはなんだかわかるかい?」

 「姐さんまさかこれって……」

 男勝りなリンダはメリナード・クラベスの閉じていない方の目をじっと見つめた。彼女は先程の事件などなにもなかったかのように煙草をふかしていた。

 「やはり知っているものもいるのかい。これは最近出回っている『悪魔の血』だよ」

 「なにそれ、新しい赤ワイン?」

 「ダッチ、惜しいが違うね。これは人の性をもてあそぶ、所謂いわゆる媚薬びやくってやつさ。最近の野郎どもが節操が無いのはこいつが出回っているからなんだ。恐らくさっきの奴もそのたぐいだね」

 「へえ、それって私のあざと関係あるの?」

 「チムニーは……加虐心かぎゃくしんを煽るのも得意だからそうとは言い切れないけど、半分くらいはそうじゃないかね」

 「オーマイ……」

 「残念だったねチムニー」

 「うっさいわねナシェット。あなたは一番お客様からのが多いんだから何か聞いているんじゃないの?」

 「まあね。皆の代わりになってあげてるのよ、これでもね。でも君、痛いの好きでしょう?」

 「はあ? 本気で言ってるの?」

 「こらこら、チムニーもナシェットも落ち着きな。ミシュのお淑やかさを少しは見習った方がいいね。話を戻すけれど、この悪魔の血はこのローゼンドーンを中心に出回っている、製造方法が不明な怪しい薬品だ。飲めばさっきの男のようにあからさまにおかしくなる。エミリー一人に任せっきりにせず、みんな容赦なく反撃すること。いいかい?」

 「それはわかったけれど、お客の相手をしているときは?」

 「いい質問だよニーナ。これからはそれを踏まえて対応するお客は三人までとする。ミシュは店番としてさっきみたいに用心棒を頼むよ」

 「ミスクラベスは港へ帰るのかしら?」

 「いいやロンドンが眠らない内は資金調達と見回りを。しばらくしたらミシュと帰るさ。それまでダッチ、よろしく頼むよ」

 「まあ、楽しめそうだから、よろこんで」

 頬を膨らませるニーナはそう言ったダッチの腕に絡みついた。

 「はあ、まあ……二人ともよろしく頼むよ。あとこの「悪魔の血」は貰っていく。これは赤ワインに混ぜて飲ませてくることもある。くれぐれも客の勧めるものには用心するように。あんたたちも例外なく豹変ひょうへんするからねぇ。飲んだら目が赤くなるから見たら警戒するよりまえに追い出すこと。いいね?」

 クラベスのその一言に各々返事をする。ミシェルもまた返事をするも声は出ていなかった。

 そうして彼女は生ぬるい風の吹く扉の奥の闇へと消えて行ったのである。リンダが新たな煙草に火を点けエミリーは受付のカウンターに、ダッチとニーナは奥の部屋へと消えていった。

 「へい、ミシュも休んだらどうだ? なあにこのリンダさまが見張ってやるからさ」

 「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて」

 「おう、甘えとけ甘えとけ」

 ミシェルは階段を上がり、自分の部屋に向かった。突き当りの角部屋である。


 「やあ、話は終わったかい?」

 ベッドの上で暇そうにごろごろとしているイフリートが上半身だけ起こした。少しだけ体を動かして空いたところを手でぽんぽんと叩いた。ミシェルはまんまとそこへ座る。

 「ええ。疲れたわ……」

 「その話は聞いてもいいことかい?」

 「ええ大丈夫よ。なんでもちまたで『悪魔の血』が流行っているらしいの」

 「『悪魔の血』? 僕の?」

 「まさか! ただの比喩だと思うけれど……飲むと、なんていってたかしら、たしか媚薬って言っていたけれど」

 「ふうん」

 「さっき私が相手をしていた暴漢もそれを飲んだとか」

 「媚薬なのに? 狂暴になるのかい?」

 「さあ……でも怖かったわ。すごく」

 ぶるっと身震うミシェルの手を握る。金色の毛先をちろちろとする。「やめて」と手を払うミシェルの表情は解けていた。

 「イフリートはそういったものに心当たりはないの? どうやら製造する方法も場所も不明瞭らしいのだけれど」

 「さて、よくわからないな。僕自身、血が出るわけではないし」

 「そういえばあなたは私には触れているし、私も触れられるけれど他の人はあなたに触れられないのかしら。見えないだけ?」

 「それは僕の思うがままさ。実態は、無いと思う」

 「曖昧ね」

 「なにせ触れられたのが君が初めてだったからね」

 「胡散臭いわ」


——コンコンコン


 「おっと、来客だね」

 「おーいミシュ! アタシだ。リンダだ。入っていいか?」

 「いいわよ」

 「よお」

 「う、煙草臭い」

 「あっはっは! お子様だなぁミシュは。なあなあ、ミシュはどこ出身なんだ? 本当に貴族なのか? ミスクラベスとの出会い、いろいろと教えてくれ!」

 「え、ええ。ともかく座ってちょうだい」

 「ありがとう。じゃあ遠慮なく」

 リンダが豪快に椅子に腰かけると大きく胸元が揺れた。ミシェルは目のやり場に困っていると、彼女がにんまりとしながら話しかけてくる。

 「で、ミシュはどっから来たんだ?」

 「どこからといいましても……はあ……ランプ街、スコッティフォーレからですわ」

 「おお、ってことはやっぱり貴族なのか?」

 「ま、まあ」

 「おおおお! すげえ! 溢れ出る品性ってやつだな。ここいらじゃ貴族なんて羨望か嫉妬の対象でしかないからなぁ。どんな暮らしなんだ?」

 「大したものでは」

 「まあまあそう言わず! 今度スコッティフォーレに連れてってくれよ!」

 「気が向いたら」

 「本当の名前は?」

 「え、ええ?」

 「だから本当の名前だって。ミシュって愛称だろ?」

 「ええ、まあ……でも……」

 言葉を吐き切る前に矢継ぎ早に話しかけられるミシェルは感じたことのないやりにくさを感じたのである。つい本当の名前を言いそうになるも、つい先日のことをかんがみるに本当の名前は言わない方がいいのだろうと思ったミシェルは言い淀んだ。リンダのきらきらとした目が痛む。

 「そ、そうだ。あなた……り、リンダさんはお客様の相手をしなくてもよいのかしら?」

 「ん? ああリンダでいいって。店番は……うーん」

 「なにか?」

 「いやまあ別に、この仕事が好きってわけでもないんだけど、あんまり客からの評判が良くなくてさ。暇なんだ。アタシ」

 豊満な見た目とは裏腹に快活な性格と容赦のない会話術からその評価をなんとなく察することができた。嘘の付けない裏表のない性格が彼女の手足を自由にしていた。

 「あ! 今『だろうな』って顔しただろ!」

 「いえ別にそ、そんなことは……」

 「いいやアタシはこう見えてカードゲームが得意だからな、表情を読み解くのは得意なんだ」

 「ち、近いです……あと、煙草の臭いが強い……ごほっごほっ」

 「ああわりわりぃ。と、まあそういうことだ。ダッチとニーナもああだし……エミリーは受付だろ? チムニーもナシェットもうちの稼ぎがしらだからな。とっつきにくいし。ミシュと一緒にあの暴漢と戦ってわかったんだ。『こいつとは馬が合う』って!」

 「そ……それは、光栄ですわ」

 「なあミシュ。今度店を抜け出してローゼンドーン大観光に行かないか?」

 「あら、折角ですが私は用心棒ですし……」

 「おいおい、クラベスさんの話を真に受けるのか? まるで人形みたいな体しているのに?」

 「失礼な。私はこう見えても多少心得がありましてよ! さっきだって一緒に……!」

 「まあまあ怒んなって、ちょっと揶揄からかっただけだって。うーん。でもさあ、敵情視察ってことにもなるんじゃないか? 用心棒が用心する対象を知らないのはいかがなもんだ?」

 「う……返す言葉はないけれど」

 「じゃあ決まりで! 先輩として手取り足取り教えてやんよ。しっかり寝とけよな!」

 「ええ」


——ばたん!


 「……あー、喋っていいかい?」

 「ええ。静かにしてくれてありがとう、イフリート」

 「どういたしまして。まるで嵐のような人ね」

 「随分強引だね」

 「ええ、あ、ちょっと……暑苦しいわ。あと服を引っ張らないで。着崩れちゃうじゃない」

 「いやだね。僕の可愛いミシェルがあいつには取られたくないし、この服は少しはだけすぎ!」

 「ああもう、別に取られたりしないし、服に関してはしょうがないじゃない」

 「だったら僕も付いて行く」

 「ええ!?」

 「いいだろ? 変身できるし」

 「都合がいいわね」

 「それは誉め言葉?」

 「もちろん」

 「ああそう。ありがとう」

 ふああと欠伸あくびをするミシェルはささっとイフリートを振り払い無防備にもベッドに体を放り出した。

 「ちょっと、流石にそれは無防備すぎるって…………もう寝てる。はあ。君、貴族だったよね? すっかりなじみ過ぎじゃないかい? に」

 そういって隣に座るイフリート。何のためとも限らずそっと掛け布団を乗せる。すうすうと寝息を立てるミシェルを愛おしそうに見つめていた。たまにイフリートがミシェルの頬を撫でるたびに無意識なのかその手を力なく振り払おうとして握ってくる度に頬を緩ませるのであった。



    三  取引



 ローゼンドーンの路地裏。アウトグランの広大な地の中で生活可能範囲等の理由でそれほど広くはない街の都合上二階建て以上の家屋が多く建てられている。必然影の占める割合が多くなってしまうのであるが、それはこの街にとってかえって都合がよかった。

 「ほ、本当にここでいいのか?」

 今日も一人……有名であろうがなかろうが、貴族であるかあるまいかの関係がまるでないこの街に、とある人物が無数有る路地裏のどこかにやってくる。

 「くれるんだろ? 『悪魔の血』を」

 いつも隠し事は暗がりに。ランプの光さえ届かないこの場所でいつも不穏は始まるのである。

 「君ほどの者が、本当に。求めているとは」

 こらえ笑いをする謎の男がちろんちろんと小瓶を揺らす。

 「ツェレカ・ステロ……取引だ」

 これは霧の中の暗がりの、悪魔との取引である。

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