第十六話「ステロ座の怪人」

    一  箱庭の暴君



 「やめだやめ!!」

 軍隊のように正しく並ぶ無数の椅子に敷き詰められた赤いじゅうたん。青年の苛立つ声でちらちらとシャンデリアが揺れる。舞台上の疲れきった様子の演者たちはその声で背筋が伸びた。

 雨の降らない大きな会場とその中に建築された見せかけの宮殿とその箱庭の若い王子は、また怒りの一言を解き放つ。

 「今日は気が乗らない」

 漂う空気に重りを乗せる。らせんを描く白いかつらをかぶった男性は苛立ちに苛立ちで返す。

 「そんなこと言っている場合なのか? もう公演まで時間がないのに!」

 「しょうがないだろ? 闇は照らさないと明るくはならない。私の暗い暗い気を君たちは照らせなかった。ただそれだけだ」

 「ふん、お前がやったらどうなんだ」

 「そうだな。私がやろう。だから君は代わりにこの素晴らしい戯曲の続きを書いてくれ」

 「っく!」

 「もうやめて! 今は争っている場合じゃないわ。今はカステロ座長を信じましょう。ね?」

 それには答えず青年はそのかつらを道具係に押し付け、控室へと向かっていった。

 「カステロ! なんでそういう言い方しかできないのかしら。言葉を紡ぐのがあなたの仕事でしょう?」

 「それなら上手い芝居をしてくれ。それが君の仕事だ」

 「まあ酷い! ……ねえ皆心配しているの。あなたが寝ずにこの物語を書いているのは知っているの。でも、どうして突然物語を変更しようとしたの?」

 「納得できないからだ。なし崩しの物語は創作の域を出ない。現実的じゃない。もっとこう、あー現実に色を付けるのが仕事なのに。例えるなら水のキャンバスに油絵を描いていたようなものだった」

 「十分素晴らしいできだったわ」

 「それを決めるのは客だ」

 「そんな、まだ誰一人として見ていないじゃない!」

 「何を言っている?」

 隈のできた沈んだ目が笑ったように揺れる。

 「私が見ているじゃないか」

 その言葉を聞いて座長チェレカ・ステロは重そうな扉をもっと重そうに開ける。

 「カステロ、あなたが『悪魔デヴィル』に頼っていることは知っているの。そんなものであなたの人生が狂わされてしまってはもったいないわ。その一滴ひとしずくは血も涙もないのよ」

 「オーマイ! いいかい、あれは娯楽だ。私の実力に一切の誤差を生むことはないんだ!」

 そうして扉を勢いよく閉じた。シャンデリアですら申し訳なさそうにちらちらと鳴る。

 「ああステロ、あなた程の実力も心理的不調デヴィルには負けてしまうのね」

 そういってから高い天井から淡く見下ろすシャンデリアの明かりを消した。廊下からの光だけを頼りに靴音を残して舞台から降りた。外と同じように暗がりが天井に張り付いた。そしてチェレカ・ステロの後を追うように扉に向かった。

 「ああ、あなたにも止まり木があればいいのに」



    二  新しい部屋で一週間



 大都会の街外れ、風も止まるようなとても暗い森でこれもまた暗いランプを片手に持ちながら死んだはずのミシェルと眼帯をした老婆の二人は悪魔を背負いながら歩いていた。もっともこの悪魔は老婆からは見えていない。

 「メリーがここにいるなんて思いもしなかったわ」

 「私もだよ……またその名前で呼ばれるとわねぇ。ミシュくらいよ、そう呼ぶのは」

 「私もミシュと呼ばれるのは久しいわ! 何年振りかしら……会えてうれしいわ」

 「一つ疑問なのだけれど、なぜそんなに重そうにしているの?」

 「つ、疲れかしら」

 「空想のお友達イマジナリーフレンドじゃないでしょうね」

 「だったらとっくに挨拶をさせていたわよ『ほらご挨拶して』って」

 「はっはっは! ミシュならそうするさね」

 「そんなことより、メリーはなぜここに?」

 「ああ、腐れ縁から何年かぶりに連絡があってね。来てみればミシュが居たってわけさ」

 「腐れ縁って……恋人?」

 「馬鹿なことを言わないでちょうだい。でもミシュがそう言うなんて珍しい。好きな人でもできたのかい?」

 「あら、それこそお馬鹿なことよ!」

 「ふうん。ま、いつか聞かせてくれよ」

 「メリー。これからどこに行こうというの?」

 「ああ、そうさね……ひとまず隠れ家にでも行こうかね。知っての通り私はここにいていいような人物じゃないからね今は遅いし疲れもある。私のは酷く遠いし、そこで準備を整えよう。ただ一つ難儀な点があるとするなら……」

 「あるなら?」

 「ミシュには早い」

 「それってどういう?」

 「大人の世界ってやつさ」

 彼女は遠くを指を差した。その先には桃色の照明がぽうっと光る宿屋であった。

 「『天使たちの止まり木』? ああなるほど……? でも宿屋なら休める?」

 「あー、まあ本当は疲れる所だけれどねぇ」

 「?」


 やがて二人、いや三人は宿屋に辿り着く。ぼろい扉の取っ手を引きつる顔で見るミシェル。堪らずメリーが扉についた金具をがんがんと二、三度叩く。

 「こういった事にも慣れて行かないと、この先厳しいわよ」

 「そうね……善処するわ」

 「あらクラベス! 久しぶりじゃない、この店に来るなんて珍しい! 今日はどうしたの……ってその子誰? 新しく働く子?」

 「いいや、私の連れさ。間違っても店には出さないでおくれ」

 「でも……この店では働かざる者食うべからずって知っているわよね?」

 「そうだね。用心棒にでもなるかい」

 「華奢な子に見えるけれど……聖女じゃあるまいし」

 「ああ、まあ……そんなところさ」

 「ええ! じゃあなおさら用心棒より体を売った方が早いじゃない。お客さんそう言うの好きなのよ? お店も潤うし、繁盛するかも」

 「エミリー」

 「ああわかったわよ。じゃ、胸じゃなくて腕で稼いでもらうわ。それ以外は好きにしていいわよね?」

 「やっていけそうかい?」

 「ええ。きっと」

 「じゃあそれで。エミリーに任せるよ……泣かせるんじゃないよ」

 「メリー! 私もうそんな歳じゃないわ!」

 「うふふ、可愛らしい見た目にしちゃあそのお口は強そうね。アタシそう言うの好きよ。メリナード・クラベスに誓って、男どもには手を出させない」

 「助かるよ。あとを頼んだよ。私はまだ少しやることが残っているからね」

 そういうと少しハグをしてミシェルはメリナード・クラベスを見送った。そしてエミリーと言われる可憐な女性に向き直る。ひらひらとはだけた服をなびかせて、息がかかるほど近くに顔を近づける。

 「あなた本当にかわいいわね。もったいないわ……クラベスとの約束が無ければとっくに契約書を書かせてたところよ。あなたなら億万長者にだって成れたのに」

 「あはは、ありがとうございます」

 「まあいいわ。私はエミリー。受付とかやっているの。ここには男は働いていない。自分の身は自分で守らないといけないわよ。あなたが仕事をしてくれたら話は別だけれど」

 薄い布の間仕切りを通る。談話室のようなところに辿り着く。無気力な音楽が蓄音機から流れその中で四人の女性がお酒を飲んだり煙草を吸ったりしていた。ミシェルを一瞥いちべつする。

 「なあに? 新入り?」

 「クラベスの知り合いよ。仲良くしてやって」

 「随分かわいいけれど、奉仕するわけじゃないの?」

 「ええ、彼女は宝石のように扱うこと。いい?」

 「えー、私たちも宝石のように扱ってよ」

 「お客さんから扱われるんだからいいじゃない」

 「いやよ、あいつら雑なんだもん。大して気持ち良くもないし」

 「はあ……今のはダッチ。口が悪いけど根はいいやつ。話しているとスカッとするわ。あそこで煙草を吸っているのはリンダ。あの華奢なのはチムニー。あざがあるけれど気にしないであげてね、悪いお客に当たったのよ……ねえナシェットは?」

 「あいつは今、よ」

 「ああ、そう。まあもう一人いることを覚えておいてちょうだい。ここはお客さんに楽しんでもらうためにあるところ。楽しませたらその分対価としてお金を貰うのよ。歩合制でお客さんに指名された分だけお給金が上がるわ。ま、あなたには関係ないけれどね。この階段を上がれば各自の部屋に繋がっているわ」

 エミリーは階段を軽快に上がった。ミシェルはおんぶしている状態で手すりを持てなかった。壁を利用してゆっくり確実に上がっていると壁の向こうから淫らな声が聞こえた。

 「あんた大丈夫かい? ミシュって呼ばれていたっけ。あなたチムニーより脆いんじゃないの? 階段上っただけで顔熱くなっているじゃない」

 そうして手を伸ばしてミシェルを引っ張った。複雑な表情のミシェルを尻目に、角の部屋に案内した。

 「今日からここがあなたの新しい部屋よ」

 扉を開くと埃がぶわっと飛び出た。長らく使っていなかったのだろうと推測される。

 「といっても数日でしょうけど。別名「蒸発の部屋」。何故だかここの部屋にいた子は一カ月以上滞在しないのよねぇ。あー、だからベッドは綺麗なはずよ。この棚に前にいた子と前々回にいた子と……とにかく今までここにいた人の服が入っているから好きに使ってちょうだい。靴だけはないけど」

 ミシェルは中に入って小柄なベッドにイフリートを降ろした。ようやっと解放されたミシェルは少し背筋を伸ばした。

 「あら? あなた随分とその……軽くなったわね。階段のおかげ?」

 「あはは、そうかもしれませんね」

 「まあ下のらと仲良くなるも良し、ここでぐうたらするもよし。一つ言えるのはお給料が出ないってことは食べられないってコト。『男ども手を出させない』って言ったでしょ? 私たちの身の回り、この宿全体、とにかくためになることをしなさいな。そしたら多少気前よく、諸先輩方がお給金を恵んでくれるかもしれないわよ。つまり、ここでの生活は甘くないって話よ。あなたの境遇は知らないけれど」

 「わ、わかりました」

 「まあその手を見ると、本当に星女のような暮らしをしていたんでしょうね。まさか貴族じゃあるまいし。え、違うわよね?」

 「え、ええ。違うわ」

 「ならよかった」

 そうしてエミリーと呼ばれている快活な女性は階段を降りて行った。扉を閉めてから一息も二息もしてから背筋を伸ばす。そして裾とできたしわも伸ばしてベッドへ駆け寄った。

 「まるで寝ているみたい。はあ、私……眠くなってきたわ。狭いけれど、温かいからいいか」

 狭いベッドに横たわるイフリートを少し奥へやり、開いたわずかな隙間に横たわる。

 「気力のないベッドに薄い枕。天井も床も薄汚れている。傘もないし、魔法を使う力もない」

 そんな独り言が天井に向かって放たれるも、それは自分にしか届かない。目を閉じて息を吐く音に集中する。すると遠くから激しく淫らな声が薄らと聞こえた。

 「だ、だめね……なんでかしら。イフリートにく、口を奪われた時みたいに顔が熱くなる……変ね。これはヘンよ。新手の魔法なのかしら。だとしたらこの宿の魔法使いはきっと強いのね」

 むくっとベッドから起き上がると、窓を開けて外の空気を吸う。

 「う、寒い……ここは外側の方なのね」

 顔に向かって手でぱたぱたと風を送ると、遠くを見た。

 「あっちは町かしら、黒いわね……雨でも降っているのかしら」

 早々に窓を閉じて法王の灼熱の魔法によって黒くなった服を着替えようと棚まで行った。一度イフリートの方へ向いてから全ての衣類を脱ぎ落した。

 「ええっと、下着は……ええ、これ? これ下着なのかしら……まあいいわ。あとは……これドレスしかないのかしら。ちょっとぶかぶかね……これも大きいわ。ニコラみたいな人しかいなかったのかしら。これは小さめだけれどぶかぶかよりは全然いいわ……背中がすーすーする」

 鮮やかな青いドレスを身に纏ったミシェルはお腹が減ったために談話室へと向かった。



    三  天使達の戯れと悪魔の涙



 「あ! あんた名前なんていうの? 『ミシュ』って呼ばれてた、合ってる?」

 妙に陽気な大衆音楽に変わっていた談話室にミシェルは恐る恐る階段を降りて向かう。静かに降りていたのにもかかわらず、即座に短い赤髪の女性が気が付いて大きな声でそういった。

 「あ、合ってます」

 「おお! そっか、じゃあちょっとお願い聞いておくれよ。お駄賃あげるからさ」

 「あんたお金あんまないじゃん」

 すぐ隣で既に二瓶目のお酒と思わしき飲み物を空けているところの女性に苦言を呈される。

 「うっさい、良いからちょいとこっち来て。あ、俺リンダ。よろしくな!」

 「は、はい! (……お、おれ?)」

 「ふうん、結構かわいいね。ええっとじゃあね……」

 「アンタお願いあるから呼んだんじゃないの?」

 「水差すな! 暇なんだもん。あ、じゃあ賭けポーカーしようぜ」

 「ぽ、ポーカー? それはなんですの?」

 「『なんですの?』……っは! 貴族みてぇな喋り方! 面白いなお前! って知らないのか。教えてやんよ。これは見たことあるよな?」

 「すみません、ない、わ」

 「本当まじか! ええとこれは……カードって言って、一般的にはトランプって言われていて……スート、があって。それはその、四つあって」

 「説明へたくそか」

 「うるさい! ならダッチ、代わりに説明できんのか?」

 「できるわアホ。貸してみって……ええっとこれはトランプ。一から十とジャック、クイーン、キングの絵柄の描かれた十一、十二、十三のカードがあってこれが四種類あるの。合計でいくつかわかる?」

 「五十二枚ですわね」

 「そうです。算数はできるのね。この四種類にはスペード、ハート、ダイヤ、クローバーと呼ばれているわ。強さも今言った順ね。ええと絵柄は、んん……? これはなんだ」

 「飲みすぎだ! 大して酒も強くないのに」

 「るっさい! スペードはどれ?」

 「それくらいなら代わりにやる! へいミシュ、これがスペードでこれが……」

 無数のカードから該当する取り出し説明をする。マークの多さが数字と連動していることも添えて。ミシェルはなんとなくニコラを思い起こして、少し楽しくなっていた。

 「ふうむ。さて、これらを五枚使って役、いわゆる組み合わせをだな、作っていくのだよミシュ。ここまではいい?」

 「はい、ダッチさん」

 「よくできました。じゃあその役を覚えよう。なにすぐ覚えるさ……同じ数字が一組あればアペア。二組ならツーペア。同じ数字が三枚ならスリーオブアカインド。んで、アぺアとスリーオブアカインドが五枚のうちに揃っていたらフルハウス。一、二、三……とか数字が続いている「連番」が五枚揃っていたらストレート。五枚全てが同じ種類スートだったらフラッシュ。滅多にないが、同じカードが四枚全て揃えたらクアッズ。ってな具合でな、わかったかい? 嬢ちゃん」

 「な、なんとか」

 「おお、記憶力も良いときた。これは筋がいいね」

 「なになに? 面白そうなことやってんね」

 「おお、ニーナもやるか?」

 妖美なタレ目が口の端につきそうな程にやけている。ニーナと呼ばれた女性はダッチの隣に座った。

 「ふうん、ポーカーね。暇つぶしにはなるかな。イカサマは無しよ」

 「初心者相手にするもんか」

 「こいつ、酔ってスートも数字も覚束おぼつかないからやるなら今だぜ、ニーナ」

 「いいね、ダッチ。はめようか」

 「おいおい、こいつを忘れんなって」

 「ああそっか、可愛い方をはめればいい?」

 そういいつつリンダがカードを手際よく混ぜ始める。その間にニーナとダッチは数枚の銅貨を机に落とした。リンダはいつの間にやら銅貨を出していた。ニーナやダッチと同じ枚数だ。

 「いい? ミシュ、こいつらに負けちゃダメよ。忘れちゃいけないのは数字にも強さがある。十三まであるけれど一番強いのは一番エースよ」

 「へいミシュ。これから五枚になるように一枚ずつみんなに配っていく…………よし、したら自分だけカードを見るんだ。さっきの役は覚えているよな?」

 ミシェルの手札ではツーペアができていた。反応を見てリンダは続けて説明をする。

 「ここから勝負を降りるフォールドかどうかを選択する。降りたらそのカードは意味をなさなくなる代わりに最低限の掛け金ベットで済む。へい、ミシュはどうする?」

 「降りないわ」

 「よしきた。じゃあ、私も乗る。その前にミシュは続けるために相応の掛け金を払わなくちゃならない。大抵は同じコールそれ以上レイズ。ミシュは今手持ちがないから……服でもかけてもらおうか」

 ニヤつくリンダは同じ額を机に落とす。同様に貨幣がからころと響かせる。先ほどかかっていた大衆音楽のままのはずなのに、心臓とセッションを始める。

 「皆が勝負するかを聞いたら、手札の交換を一回だけ行えるんだ。捨てた分だけ山札から拾うだけ。猫でもできるよな。ミシュはどうする?」

 「ええ、じゃあこの一枚を」

 「じゃあこっから引いてみな」

 ミシェルが引いたのは運良くワンペアでできた数字と同じだったため、フルハウスとなった。

 「引いてもなお勝負するかい? ……そうか、じゃあみんなはどうする? 俺は乗るけど」

 「リンダが乗るならアタシも乗ろうかな」とニーナは言う。酔いどれ気分のダッチは「私は降りる。私の目が狂っていれば乗ったかも」と言った。勝負する者が出そろう。

 「ここで手札を公開オープンだ。私はスリーカード」

 「ふん、私はストレート!」

 「ミシュは……わお! フルハウス! 掛け金は全てミシュのもんだ!」

 「わーお、降りといてよかったかも」

 「ダッチはもう寝床ベットに行った方がいいね」 

 「なあにいってんのさ、ちゃんとしているから降りたのに!」

 「してないから言ってんの。だってこの手札もフルハウスだもん」

 「ええ? うそお」

 「はあ、この掛け金はミシュのもんだ、これは次回へのお駄賃掛け金として彼女を寝室に連れて行ってくれ。彼女の寝室は階段を上がってすぐさ」

 「私は、自分で、歩けるわ」

 「はいはい、よろしく頼んだぜ」

 「わかりました」

 ミシェルはお酒臭が口から耳に入っていくのをなるべく避けながら階段を上がっていく。ただダッチも意識はあるのか、多少自分の足を使い歩いているようで先ほどのイフリートほど大変ではなかった。やがて階段を上がってすぐの部屋を開けた。ベッドに放り投げると、吸い込まれるように横になった。

 「ねえぇえ、ミシュ、窓を開けて、ちょうだいな」

 喉元を声で撫でるようにそう呟く。ミシェルは窓を少しだけ空けた。張り詰めた空気が細く入り込む。その頃にはダッチはすやすやと眠っていた。はだけた部分に布を掛けて部屋を出た。


——がしゃん! がっしゃーん!


 一階の方で大きく騒がしい音がする。ミシェルは急いで一階へと降りて行った。

 「おいおい、いいじゃねえかよぉ!」

 「お前、飲み過ぎだっての!」

 リンダの荒げる声が木製の部屋を震わせる。あまりの怒声にミシェルの足は震えた。

 「うるせえ! 女はベッドで鳴いてりゃあいいんだよ!」

 「っく……こいつ、力強ぇ!」

 「(足が、動かない! 虫に出遭ったみたいに!)」

 「邪魔だ! こっちは散々待たされてんだ、犬じゃねえんだよ!!」

 「うわあ!」

 リンダがまるで手に絡みついた髪の一本を振り払うようにして、細い丸机のところへと容易く吹き飛んだ。叩きつけられた痛みで顔を歪めている。

 「いや! やめて! 衛兵! 衛兵!」

 「衛兵なんかいるもんか、ここには議会連中も来やしない! さっさと好きにさせろ!」

 「やだ、ダッチ助けて、いや!」

 服が破ける音が聞こえる。必死に抑えており乱雑に破れているが、食い込んだ爪が浅く皮膚を削り取りうっすらと赤みがかかってしまっている。

 「(くっ、今私がでないで誰が彼女らを助けるの?!)」

 「ま、待ちなさい!」

 階段から勢いよく降りるとその手にはほうきを持っていた。壁に寄りかかっていたのを拝借したのである。もっともばさばさの穂先ほさきでは魔法が分散するため、拘束魔法の応用でなるべく一点へと収めており、本来の用途では使い物にはならなかったが。

 「ん? おおなんだ? うおじゃねえか! ひっひっへ、壊しがいがあるぜ」

 「こないで、出て行って!」

 「嬢ちゃんは随分と若い、その透き通る白い肌に十分に含んだ水を飲ませろ!」

 足を引きずりながらその眼を真っ赤にしてほぼ真っ直ぐにミシェルの元へと突っ込んでいく。

 「なんだ? これは魔法使いのつもりか? はっは!」

 ばしんと穂先を弾かれ、それが思いのほか強かったのか大きくぐらついてしまった。そのまま暴漢はミシェルの肩を掴む。反射的に弾かれた箒を斜め下方から思い切り振り上げた。

 「いっ……いてぇじゃねえか!」

 顔に当たり怒りか痛みで顔が赤くなったのを確認したのち、強力なこぶしが飛んできた。

 「きゃ!」

 ミシェルは文字通り目が回転し、脳みそもその労働を止めることを余儀なくされる。

 気が付いたときには服が半分ほどたくし上げられており先ほど着た下着が露わになっていた。


  「へいミシュ! 目ぇ覚ませ!」


 がぎんと音が鳴り、その音は唯一ミシェルの目を止め、脳を働かせるに至った。

 「ううががが……」

 頭を押さえてよだれを垂らす暴漢とその上にはフライパンを握ったリンダが立っていた。

 ミシェルは箒を握り直し、上半身だけで何とかそれに魔法を伝わせる。するとその光はリンダのフライパンに集まっていき数秒で真っ赤に変わった。それを真上から振り下ろしたのである。

 「ぐはっ……」

 暴漢は脳天が少し焼け焦げ衝撃で気絶したようだった。そこでようやく音楽が止まっていたことに気が付いた。

 「素晴らしいブリリアント!!」

 リンダは伸びた男を押しのけるとミシェルに抱き着く。

 「お前、やるな! 用心棒として、第一歩だな!」

 「え、ええ……それは褒めてくださっているのよね?」

 「ああ褒めてる! 褒めてるとも! 頬は大丈夫か? 痛かったろ」

 「あなたも怪我をしているのでは……」

 「リンダ! ミシュ、後ろ!」

 「「え?」」

 二人が振り返ると息を荒げた暴漢が頭を抑えながら立っているのである。二人は息を飲んだ。

 「おおお、お前ら……俺を苔にしやがって!!」

 振り上げた手を振り下ろそうとしたその瞬間、そのままくるくると踊るように身体ごと回り始めた。男はもちろん動揺している。さらにその状態で玄関口の方までふらふらと回転していく。


 「『お手を拝借Shall we dance』は男から言うもんじゃないのかい?」


 しわがれた低い声と鋭い一本の眼光が男の目と耳を奪う。何もかも劣るはずの老婆と何もかも勝っているはずの暴漢には明らかな実力差があったのである。それがなんだったのかミシェルにはわからなかった。

 「ふん、悪魔に頼ってもこの程度かい。大衆は散った。帰りな」

 老婆はくいっと手をひねると、その男は回転しながら外へと出て行った。いとも容易たやすく放り出したのである。

 取っ手に触れることなく扉を閉め、魔法で器用に弾き寄せて全ての物の位置を元に戻す。

 「クラベス! ああ、クラベス!」

 隠れていたのか酷くやつれているエミリーとチムニーがメリナード・クラベスに抱き着いた。しわの多い手でその頭と背中をさすっている。二人の間から顔を出してきょろきょろと見渡す。

 「ニーナ、大丈夫かい。おおい! ダッチ、愛しい蝶の羽を撫でてやっておくれ!!」

 すると階段から騒々しい音がして、少し崩れた服のままニーナをあやしている。傷を指でなぞり頬に伝う涙も拭ってやっているようだった。

 「リンダとミシュ、お手柄アペアだ。とはいえ、この『天使たちの止まり木』ではしょっちゅうだ。慣れておくんだね。今後の為にも」

 「ええ」

 「……服が乱れているね、皆直してきな。休める羽を持たない天使が、どうやって気に止まるんだい。さ、ミシュもお行き。皆が集まり次第、今後について話をしておく」

 皆が各々の部屋へ戻ると、ミシェルも追随して最後に階段を登った。その時、未だに姿を見せない残りの天使の一人を探しに行ったのを見ていた。しかしそれを見たあとミシェルは足早に部屋へと戻っていったのである。

 がちゃんと扉を閉める。扉を後ろにしてへたり込む。息と共に涙もつーっと細く出ていく。

 「ミシェル……?」

 「イフリート?」

 遠くに聞こえたその声を確かに感じることができた。駆け寄ると淫らな青いドレスが月明かりに映し出される。

 「僕の天使……僕はずっと君を泣かせてしまっているね」

 「なんで大事な時にいないのよ」

 「その羽を、まだ僕で休めてくれるかい?」

 「……抱き寄せなさいよ。ただの木に止まるほど、やすくはなくてよ」

 「ふふ、おいで」

 イフリートは依然手や顔をあまり動かせないままであったものの、その出せる小さな声色だけでミシェルを精一杯抱きしめようとした。

 「僕は月から君の涙を隠してやることしかできない」

 ミシェルはイフリートの胸の中に目を埋め、ひたすらに濡らすことしかできなかった。生暖かい涙がじわりじわりと布に広がり滲んでいくのがイフリートにはわかっていた。しかし、余力の残っていない悪魔にはそれを感じ取ることが限界で、手を動かすことはおろかその乱れた服を直してやることすらできない状態であった。イフリートの目は赤く黒ずんでいた。

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