第十五話「影」

    一  追い影



 また少し前のはなし。それはアリシアの元へと訪れたふたつの星の小さな手が尊く傷ついた時のはなしにまで戻る。煌々とした照明灯ですら遠くでぼおっと光っている。今日の天井は低い。

 ひと時、雑談を茶請けに束の間を楽しんだ後に肩を支え合いながら見送った後であった。主治医はアリシアの歩行を手助けする。

 「お嬢様……どうなされますか?」

 「どうするもなにも、私が何しようとお父様はお父様の思った通りにするはずよ。私にできることなんて」

 そう言うとアリシアは薄ら血の滲んだ包帯を痛ましそうに見つめた。

 「……包帯を交換しましょう。たくさんありますので」

 「そうね」

 玄関の大扉を閉め、二人は寝室へと向かった。アリシアがベッドに座ると主治医は包帯をとてもゆっくりと取る。患部に近づくにつれてアリシアの表情を元に取っていった。

 「いっ……いえ、大丈夫よ。そのまま巻いていってちょうだい」

 「かしこまりました」

 「……」

 「お嬢様」

 「なに?」

 「その……傘をお使いになられますか?」

 「そうね、散歩には使えるかもしれないわね。でも……もう、私は……」

 アリシアの言葉が詰まる。このアウトグランにおいて彼女の様な存在は落ちぶれていくのだ。事故や病気のたぐいは差別の対象だ。完璧を求められる階級社会においてはどれが無くなっても登っていくことができない。それどころか掴まってその場に留まる事すらできないのである。

 「お供しますよ。散歩……きっと風が気持ちいいことでしょう。きっと世間が綺麗に見えるでしょう。そしたらきっと身体も良くなります」

 「でも腕は生えてきやしないわ」

 「そんなことはありません。まだアリシアお嬢様はお若いですし、なんとかなりますよ」

 「ふふ、さすがに慰めにもならないわよ? でも……私はいつまで経ってもお父様の思うがままの駒なのね。せっかくの後進も、もうみれない。ミシェルにはどこまで行っても話されるし、我ながら散々ね……せめて……」

 「……せめて?」

 「私は、お父様に恥をかかせてやりたかっただけなのかもしれないわ。グレイシアとモーリスを言い訳にしてしまった。彼女たちは私なんかよりも才能もあるし、技術もある。ただ、どんな道を歩めばいいかの道を示したかっただけなのに、たくさんの人を見殺しにしてしまった。あげくに渡しを助けてくれた友人でさえ、見殺しにしようとしているのよ。自分のせいで多くの人の人生を狂わせてしまった。そんな私が『せめて』なんて言うことなんて……」

 「そんなことはありません。あなたはご主人様含め様々なところから心を殺されてきました。その結果が生んだひとつの悲劇です。アリシアお嬢様はただ、その心の開放の方法を間違えただけなのです。ですので、お嬢様……その言葉の続きを私めでよろしければお聞かせください」

 「……せ、せめて……ミシェルを救いたい」

 「さようでございますか。では、救いましょう」

 「そんなことできるわけ!」

 「私がお供いたします。ご主人様はあなたに対して求め入ていることは何もしないこと。おそらくご主人様があなたに代わって何かをしでかすはずです。ですので直接乗り込んでしまえばいいのです。本人の証言があれば、法王様も御認めになるはずです」

 しばらく黙ると決した表情で立ち上がる。白い服を脱ごうとする。

 「おお、お嬢さま……!?」

 「当然でしょう? こんな寝間着みたいな恰好で出ていられないわよ」

 「め、メイドを呼んでまいります、少々お待ちを」

 「あらそう? でも大丈夫よ。私一人でやらなくてはならないのよ」

 「お心意気はとても素晴らしいのですが、コルセットが巻けないのでは……?」

 「……」

 「……」

 「なにを突っ立っているの、早くセラを呼んできてちょうだい!」

 「は、はい!」

 慌てて駆け出した主治医は使用人メイを呼んでくる。若いメイは手間取りながらも美しくドレスを着させる。そして気を利かせたのか、ストールを肩にかけた。

 「お寒くはありませんか?」

 「大丈夫よ。ありがとうメイ」

 「お嬢様……」

 二人は馬車へと向かう。玄関外には既に待機しており、老いた馭者がアリシアを見ていた。

 「アリシア様」

 「あなた達、ごめんなさい。迷惑を随分とかけてしまったし、これからもかけてしまうわ」

 「何をいまさら! 今の私があるのはお嬢様のおかげですから」

 「そうですとも……生きてくださって私は本当に嬉しゅうございます……これからもあなたを乗せて遠くへ行ける機会がまだまだあるのですから」

 老いた馭者と使用人がそう言うとアリシアの目には涙が溜まった。

 「でもあなた達、私と過ごしているとお父様から何をされるかわからないわよ?」

 「「望むところですとも!」」

 「とのことです、アリシアお嬢様。私も同意見です。何があろうと我らは味方です」

 「私はお部屋をうんと綺麗にしておきます!」

 「ふふ、楽しみにしておくわ」

 「オン婆、じゃあよろしく頼むわ」

 「お嬢様……手を」

 主治医は馬車の中から手を差し出す。見送られながら彼女は乗り込んだ。

 御令嬢を連れて、馬車は静かに暗闇の中に溶けていった。



    二  黒より黒い赤



 雨の降りこめる大聖堂の内部は晴れていた。しかし今は誰も眼中になどなかった。その存在はこのグラン・セレナ―ロ大聖堂に限らずアウトグラン全土を揺るがす大事件となっていた。故に誰も雨が強く降っていたとしても、雷が落ちようとも目の前の魔女が裁かれるか否かに注力されていた。

 そして今、その視線は大聖堂の入り口にあたる大きな鉄扉に注がれた。


 「ごきげんよう。その私からの手紙、異議がありますわ」


 ざわつく場内は降り始めの雨のようで、それはアリシア・フランソワーズ嬢のみに降り注ぐ。

 「私はあの時、私を先頭に森へ向かいました。ミシェル・シュールズマンはその時いません。あとから助けに来てくれたのです。私は……」

 矢継ぎ早に言葉を発するアリシアの額には薄ら汗がにじんでいる。

 「皆を置いて逃げるつもりでした」

 さらにざわつく。それは悲鳴に似た声だった。

 「隣でご学友、というのもおこがましいわ……隣で声がなくなっていって、どんどんね……私一人になってから走って逃げたわ。必死に抵抗したのだけれどこの通り」

 通っていない袖を片腕で押さえた。そして前へと進む。聴衆はまるで大きな獣に怯えるように道を開けた。今度の目線は彼女ではなく彼女の袖に繋がっている。

 「ああ、ついに私はここで罰を受け入れなければと思ったその時に、私の手を取っていただいた方がミシェル・シュールズマンです。逃げるのに必死でした」

 魔法でできた金色に輝く手すりに片手を置いて法王を見た。

 「ミシェルが悪魔と契約している時間なぞ、あろうはずがありませんわ」

 ざわつく場内は喧騒に似た大きさにまで膨れ上がり、それはミシェルという魔女の存在を忌むものや五輝族としての地位を妬むもの。そしてになってしまったアリシアを貴族として見ていないものらの罵詈雑言である。

 「静粛に……」

 その言葉が発せられて初めて雨音が聞こえた。雷が遠くで響いていた。

 「ち、チャズリック法王……いかがなさいますか」

 「ふうむ……しょうがない。その手紙、証拠に当たらず。してその証言も、証拠に当たらず」

 「いいのですか?」

 「ああ」

 「そ、そんな! そんな手紙……私、書いた覚えなどありません! 私こそ、私のこの言葉こそお聞き入れください!」

 「……」

 「法王!」

 「お嬢様!」

 「捕らえろ!」

 背後の鉄扉の奥から怒号が聞こえる。そしてその扉が少し開き、主治医が半身を乗り出した。その半身の持っていた傘を掲げるとアリシアはそれを金の糸で手繰り寄せた。そしてその傘によって手すりを消滅させたのである。これらは一瞬の出来事であった。

 「待て御令嬢! それ以上は法に触れるぞ!」

 三人の枢機卿の内一人がそう叫ぶ。「だ、誰か止めんか!!」と太った枢機卿がたじろぐ。

 「こうなったら私たちも……!」

 「行くわよ、これに乗じてミシェルさんを……!」

 板金を切るような声をあげる貴婦人と身を守ろうとする男爵が蠢く。アリシアにならってオデットはグレイシアと共に行こうとする。

 「「まって、危ない……!」」

 ニコラとモーリスがそれぞれの腕を引っ張った。直後、法王の鎮座する遥か高みから強い光が放たれた。その一瞬の眩しさは瞬時に伸びる糸だということに気が付くのに時間がかかった。

 それらはまるで操り人形マリオネットのように手足を縛りつけられ、あたかも時が止まったかのように皆を制止した。ミシェルと寸でのところで止まったニコラ、オデット、グレイシア、モーリスを除いて全て。一同はその魔法は金縛りのように協力であったのを確認した。

 「騒ぐな。私がそう判断を下したことに逆らうな。今は裁判の真っ最中。そしていま重要なのはアリシア嬢ではない、ミシェル・シュールズマンが魔女か否かである」


——かん! かん!


 大きな杖を二度鳴らす。依然として視線を合わせ続けるミシェルと法王。

 「いや! やめて!」

 背後からアリシアの声がする。駆けつけた警備隊がアリシア唯一の手を強引に引っ張り転倒させようとしている。そしてこの光景を見るためにミシェルは視線をのである。

 「アリシア……!」

 その声が彼女の最期の言葉である。

 突然、ひっそりと掛かっていた重圧が何倍にも膨れ上がり、ミシェルはひざまずく。

 張りつめていた空気の調和が乱れ、真下へと圧がかかっていく。その圧に巻き込まれた最前列の貴族連中は発狂した。ニコラ一行はなんとか正気を保つことができたが、目を開けているので精一杯で、この台風の目の中にいるミシェルだけがただ拘束されていた。

 法王が杖を重そうに振ると杖の先に着いたガラス球の光にさらに光が集まっていった。眩さは眼球に痛みを覚えるほどに強くなり、そして熱くなった。蓄えたそれらはガラス球の中で漏れ出し、まるで生きた炎のようになる。大型の動物のように吠えるように燃え盛ると、それは幾層にも重なりミシェルを取り囲んだ。彼女が身を護るので精一杯であった。

 「悪魔よ姿を現せ」

 そう唱えると炎はミシェルに巻き付き、まるで噛みつこうとするようにうねっている。それをイフリートがいなしていった。はたから見ればそれは炎がミシェルに跳ね返されている様にも見えた。

 「二度は言わない。悪魔よ、姿を現せ」

 するとイフリートは苦しみ始める。

 「(イフリート!)」

 「(なんだこの、力は……!)」

 二人は目くばせをするもお互いに何が起こっているかわからなかった。それどころか、苦しんでいるイフリートは溶けだしたのである。

 「(い、イフリー……)」

 心配したのもつかの間、その解けた粒子はミシェルに反応し、身体が熱くなっていく。

 「(いけない、あの時のように……自我が……)」

 炎はまるで自分の興奮を誘うように、同時に理性はまどろんでいく。どんどんと目の前の炎がなぜ燃えているのかすらわからなくなっていく。

 「め、目が赤い……これは魔女であるという無二の証拠!」

 枢機卿の一人がそう言うと、慌てて三人が協力し拘束をさらに強める。

 「十秒耐えろ」

 法王が念じ始めると先ほどの炎が苦しむようにして吸収されていく。さらに、強くなっていき紫色のようになっていく。目の赤くなったミシェルは枢機卿三人の拘束を解こうと暴れた。

 「なんという強さ! これが魔女……!」

 「集中しろ。これは、危ないぞ……ピオーネ」

 拘束が解けるたびに三人が次々にかけ直す。

 「ま、間に合わない!」

 「じゅ、十秒も持ちません法王!」

 その獣に似た動きで暴れるミシェルにさらに強い拘束をかける。しかし拘束魔法はその強さに応じて操作難度が上がる。半端に強い拘束をかけるとそれが解かれた時、暴れるのである。それは例えるならば船をつなぎ留める係留縄が圧倒的力によってはじけ飛ぶようにである。いつの間にか周囲に掛かっていた重圧は消え気絶者を除き聴衆は燃え盛る少女を目撃した。そして叫ぶ。焦げた臭いが立ち込め、阿鼻叫喚の騒ぎになる。縄のように太い拘束魔法があたりにぶつかり傷をつけていく。または貴族に当り周囲の白い床に血の模様をつける。

 次いで人ではない奇声を発しながら、拘束を解いて法王の首元へと飛翔した。

 あと少しのところで彼女の手が喉元へとかかるところで法王の杖から熱線が放射され、その手さえ貫通し、小さな胸を貫いた。熱線と飛翔の勢いが消え、ぽっかりと空いたその穴から火が噴き出る。高炉のように焦げる臭いと共に火が出る。内から出でる業火に対しミシェルは胸元を掻きむしるも、その手に纏わりつくばかりで成す術もなく火に包まれていく。

 「うぐ……うが……」

 華奢なミシェルが燃え尽きるのは時間がかからない。

 「「ミシェル!」」

 その声がミシェルの理性をほんのわずかな時間だけ元の位置へと戻した。

 黒く炭化した首を崩しながら彼女はその声の方を向く。ニコラとオデットを確かに目にすると涙を流しながら小指を立てた。そのまま血を全身から吹き出しながら火に溶けていった。

 そしてアリシアを見ると唇だけを動かしてこう伝えた。


  「あ・と・は・お・ね・が・い」



    三  許されたもの



 三十秒と満たない時間が何事もなく過ぎ、雨の音だけがずっと遠くで鳴り続けていた大聖堂。

 「彼女は神の名の元に許された。巨悪はいなくなった」

 文字通り消し炭になったミシェル。法王は汗ひとつ落とすことなく床に向かって静かに言う。


 あまりにあっけなく彼女は死んだのである。


 「あ、ああ……」

 ニコラはオデットの肩を借り小さく濡らしていた。オデットもまた目に涙を溜めていた。

 「アリシア嬢、此度のお前の行動のすべては神の元に不問とす、以後気をつけよ」

 その答えを待たずに法王は振り返って扉の奥へと消えて行った。枢機卿は手すりの魔法を解消させ、法王に続きその場を後にする。

 みすぼらしい清掃員がその炭汚れを消しにやって来る。

 「消すなよ!」

 「オデット待って!」

 ニコラは自暴自棄になるオデットの手を引っ張る。

 「そんなことしても、ミシェルさんは帰ってきませんわ!」

 「わかってるけど……そんなこと……」

 少しぎょっとした清掃員はオデットをいぶかしむと床に水を撒き始める。

 「くっ……なにもできなかった」

 「ええ、すぐそこにいたのに、なにも……できませんでしたわ」

 「お二人さん、もう行こう」

 モーリスがかけた声で周囲に人が居なくなり始めていることに気が付いた。

 「あ、ああ。そっちの二人はいいのか? アリシアのところに行かなくて」

 「ええ……アリシア様は泣いていたわ。そんな状態で話しかけに行けないわよ」

 「それに声をかける気力も私たちにはないし……あくまでも私たちは非公式で来ているわけだから高等部として叱らなきゃだからね。まあたぶん気が付いていると思うけど」

 清掃員がきっちりとその仕事を終えるのを見届けてから一行は大扉を抜けて外へ出る。、暗雲は変わらずとどまっていたが雨はもう降っていなかった。


——がらがらがら……


 馬車が一行の行く手を阻んだ。中からはモイラが出てきたのである。

 「みなさん!」

 「モイラさん……いらしていたんですか」

 「ええ」

 モイラの目は赤く腫れておりある程度の事情を把握していることがわかる。皆の様子を伺うと扉を開けてみんなを後ろから押した。

 「……とにかく、乗りなさいな。話はそれからよ」

 モイラに促されて乗り込んだ。大きく静かで煌びやかな馬車は、一行が来るときとは違い乗り心地が良かった。

 窓の外を眺めるモーリスに、その肩を借りているグレイシア。俯くニコラとオデット。そんな空気間の中でモイラは口火を切る。

 「みなさんはどうやってこられたのですか?」

 「ええと、グレイシアの用意した馬車でセシル……さんと共に」

 「セシル……もしかしてセシル・レインブラックさん?」

 「知っているんですか?」

 「ええまあ。昔お嬢様からいろいろとお伺いいたしましたので。お嬢様が中等部の時、お屋敷に帰ってくるなり愚痴を聞かされたものです」

 「え? ミシェルさんが中等部の時もセシルさんは高等部だったんですか?」

 「ええそうですよ。ご存じの通りソングスは実力主義ですので学力が規定を越えさえすれば学部は上がっていきます。やがて順当に試験に合格し晴れて卒業するはず……なのですが、お嬢様がどんどんと登り、彼女は牛歩の極み。やっとの思い出高等部に進学なされたのにも関わらず、いとも簡単に学部を上げていったミシェル様に執拗な嫌がらせをしていたようです」

 モーリスが窓を見ながらそう呟いた。

 「その頃から嫌な奴だったんだ……」

 「そうですね、実力として腑に落としていただければよかったのですが……どうやらセシル様は背景にある階級の差だと思ったらしいのです」

 「あーね」

 「そういえばセシル様と来られた理由は……?」

 「ああその……今回の件で高等部がいなくなった為に全ての部屋が再編されたんです。それで私たちの部屋が一緒くたになり、監督する高等部がセシルになったんです」

 ようやく立ち直ったグレイシアは力なくそういった。

 「グレイシアもういいの?」

 「ええ、ありがとうモーリス」

 「なるほど、そういった事情で……仲がいいからみんなで来たというわけではないのですね」

 「私はセシルに監視されているので」

 「あら、物騒ですね! それはなぜそう思うのですか?」

 「セシルはレインブラック家で、レインブラックが傘下になっているのはあのトルトット家。トルトット家はセイン学長のお家だからというのがあります」

 「学長はあなた方に厳しいのですか?」

 「いえ、ただどうにもアリシア様がああなったのも、ミシェル様が……ああなってしまったのも全て学長が絡んでいるような気がして……」

 「まあ私にはわからないことが皆さまの視点からは見えているのでしょう。それに貴族間の権威争いは今に始まったことではありませんし、そう思うのも無理はありません。私はお嬢様とはほとんど会えませんでした。死に目にもあえず……これらが本当に学長と関りがあるのであればお気を付けください。彼にはいろいろな、オカルトじみた噂が流れていますから」

 その時、馬がいなないた。そうでなければ止まったことにすら気が付かない程緩やかに停車したようだ。

 「着きましたよ、宿に」

 そうして彼女らは一礼をし、外へと出た。馭者にも一礼をしてから馬車を見送る。

 「それでは帰りもお気をつけて。あと体調にもくれぐれも……ここはあまり良くない空気がただよっておりますので」

 いつの間にか発生していた黒い霧の中へと馬車は消えて行った。

 「さてと、セシルを起こさないといけないわね」

 グレイシアがそう言うと四人は宿に入っていく。

 黒い霧はしばらく空に張り付いて、晴れそうになかった。



    四  死が彼女を分かつとき



 「んん……」

 真っ暗で埃塗まみれのここには音が発生することなど一切なく、二人の呼吸だけが小さく響いていた。

 「ここは……地獄なの? 私は死んだの?」

 返事はなく、ただ不気味に自分の声が何度も返って聞こえるだけであった。近くには倒れた影があった。胸に手を置くと呼吸はしていたが、揺すっても起きそうになかった。

 目が慣れてきて、薄っすらと辺りの姿が見えてくるとそこが石材に囲まれた寒い場所であると分かった。細長い通路のようで腰ほどの高さしかなくしっかり立てそうにはない。

 「力……入るかしら」

 中腰になりながらその人物は倒れた影を抱えてすり足で前へと進む。

 「後ろかしら、重いわね……私と同じくらいかしら。早く起きてくれると助かるのだけれど。まあ誰もいないよりね」

 風が吹いてくるたびに身震いをする。そのたびに手に力を入れてほんのり暖を取る。前方から吹いてくる風が強くなってきて、植物がちらほら現れ始める。

 「外に近づいているのかしら……いずれにせよ真っ暗ね。魔法を出す力もないし……はあ……月明りに頼ること、最近多いわね。忌々しいけれど」

 そんな独り言を寂しまぎれにそう言っているとずっと遠くで人の気配を感じた。

 「……? 誰か入らっしゃる? 返事をしてくださるとありがたいのだけれど!」

 「……」

 「もうしばらくの辛抱ね。大きな獣だったら、おしまいね」

 やがて企み通り外へと出た。何処かの森である。

 「二十分くらいかしらもしかしたらもっと? にしてもなぜここはこんなにも寒いのかしら、まさに地獄だったわ。でも死んではいないようね」

 背筋を伸ばしてから辺りを見ると、適当に声を掛けた。

 「先ほどの、いるのなら助けてくださいませんか? まだ近くにいらっしゃるのでしょう?」

 「その声は……ミシェルかい?」

 老婆の優しい声色がミシェルのすっかり冷たくなった耳に温かく響いた。

 「その声こそ……まさか」

 そこには眼帯を付けた白髪の老婆が腰を曲げながら立っていた。

 

 「メリー!!」

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