第三話「虫と騎士」

    一  魔法八基


 

 ケーンという鳴き声が丘の掘っ立て小屋を軋ませる。真っ暗なあたりに不気味に響いている。

 外れた蝶番の金属音がからからと音を立てる。

 ノックの体制のまま固まったミシェルは、その奥にいる女性と目が合っていた。


 「あ?」


 見た目とは反して低い声が金属をも震わせるようだ。三人の下っ腹にも響いたのであった。

 「あの人が‘騎士デイム’の……?」

 「そうらしいですわね……」

 ひそひそと話すオデットとニコラは彼女の出で立ちをまじまじと眺めていた。

 「ここに帰って来たとお伺いいたしましたのでお目通りをと思いまして。私ミシェル・シュールズマンと申します。以後お見知りおきを」

 音も淀みもないカーテシーをしたために未だ気づかずに寄って話している二人の姿が現れた形になってしまった。ギクッとしたのか二人はすかさず習って挨拶をする。

 「なんだ? お前ら……ソングスか?」

 「なあニコラ、ソングスってなんだ?」

 「聖なる貴き少女らSaint Of Nobility Girl ’sの頭文字を取った呼び方ですわ」

 べちょりと音を立てて手に持っていた食べ物を皿に置いた‘ランプ街の悪魔’はひたり、ひたりと素足で一歩、また一歩と近づいてくる。正体不明の威勢が三人に重くし掛かった。

 「ここに来たってことは、アタシに教えを乞いに来たってことか?」

 「ええ」

 「そうか……そうかああ!!」

 そういいながら顔を上げて様子を伺っていたミシェルを、彼女は強く強く抱きしめた。

 ぐちゃりと手に付いたジェル状の何かが服に付くがお構いなしに揺さぶって抱きしめる。

 「そうかそうか、アタシにか! いや実はなあ、だあれもアタシのところに来ないもんだから寂しくてな! ほら、学校の規則上生徒からの接触以外で魔導師が付くことが無いじゃない?」

 ミシェルは苦い顔をしながら掴まれ肩に付いたジェル状のものに目を奪われていた。

 「‘騎士’デイムの称号を貰ったらもっと生徒を受け持てると思ったんだがな。いやはや見当が外れて困っていてな。丁度やけ食いしていた所だ! お前らも食うか?」

 すでに引き気味の三人ではあったものの、指さされた皿の上に乗ったグロテスクなものを見て、加えて気分も悪くなっていくのであった。

 「どうした? 顔色が悪いぞ?」

 「あ、ああ。その……お昼を食べていないからでしょうか。あはは」

 「ならなおさら食べるか!? 今朝獲れたての‘アカアメアゲハ’の幼虫だぞ。ハーブを乗せて軽くあぶったから表面がカリッと焼けて中はどろっとしているから美味しいんだ」

 「どろっと……い、いいえ、私は遠慮しておきます」

 「なんだ最近の若いのは少食か! ちゃんと食えよな。あ、荷物はそこに置いていいぞ」

 かっかっかと笑いながら奥の部屋へ「着替えてくる」と言って行ってしまった。オデットは置いていた荷物を近くの机に置いた。ミシェルはそれを見て「ちょっと!」というが、すでにオデットは彼女に夢中のようだった。

 「……なあニコラ。アタシ、あの人とは仲良くなれそう」

 「本気です?」

 「もう二人とも、しょうがないわ……くれぐれも失礼のないようにね」

 ミシェルは肩に付いたジェル状のものをハンカチで拭き払いながらそういった。そういうや否やバタンと奥から慌ただしく傘を持って上から赤いローブを羽織った彼女が出てきた。

 「おっと、そういえば名乗り忘れていたな、失敬! アタシはアリギュラ・ディエルゴ。アル先生とでも呼んでくれ。硬いことは無し! 早速実技の特訓だ! 外に出てくれ!」

 「いえアリギュラ先生……今日はお目通り願いたかっただけで」

 「お前たち、名前は?」

 「あの先生、無視しないでくださいまし」

 「私はオデット・アマンベイルです!」

 「ニコラ・ウォールディンです。以後お見知りおきを」

 「ああ、今後は深く関わるからよろしくな」

 「あのお三方、無視はやめてくださいましー」

 観念したミシェルはいつでも帰ることができるよう机に置かれた荷物を抱えて、ため息を吐きながら三人に付いて行った。小屋のすぐ近くの広場に来た。

 

 「魔法八基は知ってるか?」

 小屋から出る仄かな光が辛うじて灯りとなっていたが暗く、アリギュラの異様な圧も相まってただ不気味が増していた。

 「建物を建てる時は土台が大事だ。魔法を育てる時もまた土台が大事なんだ」

 そう言っている間、ニコラはアリギュラの持つ傘に目を奪われていた。何故ならその傘が何十年も使い古されていながらおおよそなんの手入れもされていない程すすけて真っ黒であって、辺り一面の黒色と同化して持っているかすら分かりづらい。そんな傘であったからだ。

 「お前たち、傘を出せ」

 そういうと荷物をもっていたミシェルは、その荷物の中から細長い箱を取り出し手垢の付いていない真新しい木の香りを小さく漂わせながら二人に差し出した。

 「ん、なんだ、お前たちさっき買ったばかりか? いいじゃないか。アタシもこの傘を買った時が懐かしいねえ」

 そんな言葉を聞きながら、二人は生唾を飲みながらその傘を大切に持った。

 「どれ、初めての傘こそ八基の出番だな! 見よう見まねでいいからアタシの言う通りにしてみるんだ。まずは『揃え』!」

 号令と共に二人は持ち手をしっかりと握り、かかとをぴったりとくっつけて向き直った。

 「ようし、次は上半身を斜めに。丁度あそこの木を見るようにすると良いぞ。そして腕と石突きを真っすぐにして地面に向けろ。常識として、石突は人に向けるなよな」

 言われるがまま二人は平行に傘を構えた。目線の先にある木をめがけて構えているようだ。

 「そのままゆっくり上げるんだ。地面と腕が平行になるまでな」

 すると二人は意識とは裏腹に傘全体に光が収束していく感覚がしてきていた。特にオデットはその勢いが早かった。

 「正しき形をもってすれば普通の事だ。そのままの感覚を維持したままそれを石突に集中させるんだ。ブレると光が漏れるからな。合図をしたら放て。放ち方は……感覚だ!」

 石突に光りが集中していき、その凄まじい光を蓄えたまましばらく待機した。その時、肩から手首にかけての筋肉が痙攣けいれんしており一刻も早く放ちたいと思うほどに疲労していた。


 「放て!」

 

 合図と我慢の限界が同時にあったため二人の放った光弾は木には当たらずも遠からず、木の太い枝をかすめて折った。オデットは大木にえぐった傷のようなものも付けていた。

 二人はへにゃりとその場に座りこんでしまって肩から息を流している。

 「よし、ニコラもオデットもお疲れぃ! だいたい分かった。ニコラは体幹を鍛えるところから始めよう。オデットはこのまま基礎の形を頭に叩き込めば充分に戦える」

 「あらあら、汗が落ちてるわよ。淑女ならハンカチくらい持っておきなさい」

 荷物を膝の上にのせて立て膝でオデットとニコラの額に浮かんだ汗を拭った。

 「あ、ありがとう、ございます」

 「痛み入ります」

 アリギュラは三人の元へ歩いていき手を差し伸べた。

 「また明日来い。みんなに合ったメニューを今日の内に組んでおくからさ! あ、ミシェルはレッスンな」

 驚きの表情をしたミシェルはそれを一瞬に留め、平静さを装って「わかりました」と返答した。楽しそうに傘を回すアリギュラは扉の無い小屋の奥へと消えていった。

 時折薄気味悪い声が聞こえてくる中で、三人は嵐にでも遭ったかのようにへとへとになりながら寮への帰路についた。



    二  きじん



 樹木に纏わりついた水分の匂いを纏わせている三人は分岐点に差し掛かっており片方は寮に、もう片方はランプ街に続く道となっている。あまねく道中は石畳で舗装され点々とした街灯が穴あきのチーズのように照らしていた。

 一方オデットとニコラは寮まで続く緩やかな坂道でさえ、登れないほどに疲弊していたのであった。ミシェルの両手はニコラの肩や三人分の荷物でいっぱいだったが、二人に対して不満を抱えることはなかった。何故なら『奇人と書いてアリギュラ・ディエルゴ』ともいうべき唐突な魔法八基の強要は暴走した馬車にかれたのような不慮の事故だったからだ。

 「あの、申し訳ないのだけれど先に帰っていてくれないかしら」

 「何かあったんですか?」

 「ええ。恩師にご挨拶に……と、思っていたのだけれど私としたことがすっかり頭から抜けていたみたい。ご挨拶へは私一人で大丈夫なのだけれど、ニコラを頼める?」

 「はい、大丈夫ですよ! でも……ランプ街での三つ目の要件になってしまうんじゃ」

 そう心配するオデットにミシェルは思わず噴き出した。

 「ご、ごめんなさいあなたそういうの真に受けるのね。意外だったからつい……ふふっ」

 「もう! 先に待ってますから早めに済ませてくださいね」

 「ええ、善処するわ。荷物も頼める?」

 赤らむオデットに荷物を引っかけ、なんとかニコラを引き渡した。お願いねと頼まれたオデットはミシェルを見送ってからようやく丘を登り始めた。

 「ニコラ、大丈夫か?」

 「すみません。昔から体が弱いことは自覚していたのですが……オデットは大丈夫ですか?」

 「人の心配してる場合じゃないでしょ」

 「そうですわね……しばらく肩を借りますわ」

 ゆっくりと坂を上がる二人はしばししの談笑を楽しんだ。少しばかり、いや濃密な一日は話に花を添えていた。



 霧がすっかり晴れたランプ街は相変わらずランプの光が作り出す影で造られていた。

 ランプの消えた店。それは閉店を意味する一種の表示方法なのだが、そんな閉ざされた一角のお店の中で平穏を脅かす事態となっていることは知る由もない。

 少しばかりの坂になった所に建てられたそこは忘れ去られた場所だった。かつては繁盛していたのだろうが今は見るもない。

 ランプ街では「暗い」か「明るい」かで、その店が「生きている」のか「死んでいる」のかを判別している。従ってずっと暗いままのお店などが記憶から無くなっていくのは必然であった。

 そんな点々とした通りをミシェルは足早に歩く。少し息を切らしながらも中央ではない脇の薄暗がりの道を淡々と。

 「五分で済ませましょう。‘あの方’にはそのくらいで充分でしょう」

 ミシェルの目的はかつて高等部の先輩として身分ではなく学院生の上下関係としてこき使ってきた人の様子を見る事だった。

 忘れることができないくらいの濃密な一年間だったことを思い出すミシェルは、すっかり苦虫を嚙み潰したような表情へと変わっていた。

 「この角を曲がれば」

 言い終わる前に背筋に悪寒が通った。寒さか暗いせいだろうか、はたまた悪夢トラウマに近づいているからだろうか、根拠のない不安が心臓をかすめていった。

 曲がった角にある古書店が元先輩の家だった。もともと家の地位が低かったがために虐げられており、それが高等部になり遥か高位のミシェル・シュールズマンという後輩ができた時、そういう鬱憤うっぷんが一気に爆発したのだろう。

 「……扉が開いているわ。でも明かりは点いていない」

 ミシェルが心配していたのは彼女が‘鉱虫’の擁護派だったからである。もともと戦闘及び実技は不得手で虫はおろか人間相手にすら手も足も出ないような能力だったのだが、発言からもそういった旨を語っては注意を受けていた。鉱虫も生命のひとつとして捉えて止まない彼女の過激ともとれる熱心な‘研究’は人知れず行われているかもしれない。そんな危惧がミシェルを動かしているのだ。

 「ブロアさんー? いらっしゃるのー……?」

 扉を少し開けて中の様子を伺う。さらに奥に続く部屋は真っ暗で声をかけても返事はない。

 手を光らせ掲げて周囲を確認すると、奥の部屋の床に倒れているのか細い足だけが見えた。

 「ブロアさん!? まさか強盗などに襲われたのでは……!?」

 急いでミシェルは奥の部屋の入口で立ち止まった。何故なら彼女の上半身が無くなっていたからである。それを確認してから、ミシェルがすぐさま手の光を消し口をすぐに押えた。それは吐き気をもよおしたわけではなく、その上半身の部分に二匹の鉱虫がたかっていたからである。

 「(これはカラスバチ!?)」

 大人の頭ほどの大きさの黒々とした胴体に黒曜石のような羽を複数枚持った鉱虫で、群れたりすることはないものの仲間意識が強く、その大抵はつがいで行動している。

 「(まさか……!?)」

 視線だけを動かしてみると、天井の隅に十個程の黒光りする卵が粘性の液体で固まってうごめいていた。

 「(も、もうこれだけ……およそ数週間も経ってないはず……この半身がブロアさんである確証はないけれど、この方を餌に繁殖と成長を繰り返していたに違いない……早く助けを呼ばないと町が大変なことになってしまう!)」

 音を立てずに後ずさろうとしているミシェルの視線はその二匹のカラスバチに注がれている。

 「(待って、今外に出て助けを呼んだとしたらどうなる……? ここら一体のランプが消えてしまう。そうなった暗さでこの鉱虫らを捉えることはほぼ不可能)」


 ――ギシ……


「しまっ」

 一瞬だけ鳴いた床に視線がこぼれてしまった。視線を戻してもそこに虫はいない。

 すかさず応戦するために傘を探すが見当たるわけがなかった。

 腹部に鈍痛を受け下部を見るとすでに虫が飛んできていた。羽音が耳に届いたときにはガラス窓は粉々に砕け散り、ミシェルは玄関の扉を破って道に放り出されてしまった。

 まるで花吹雪のように綴られた書物の紐が千切れひらひらと落ちていく。運悪く通りかかっていた人はその異常な光景を見て叫び声を上げた。それを皮切りに家にいたであろう人々が表に出てきて、ソングスの哀れな姿を目撃する。自分以外の誰が見てもこの光景を見た瞬間に逃走するだろう。やがて明かりに引き寄せられた虫が部屋から出てくる。

 瞬く間に阿鼻叫喚に包まれた。暗くなっていく中で、オデットを虐めていた三人の姿を発見した。わらにもすがる想いで痛みをこらえて助けを目で訴えた。しかし彼女らはうの体で逃げ出したのを見届け、痛みに耐えきれずありったけの力で叫んだ。


 痛みに顔を歪ませ体をよじるミシェルは暗くなっていく通りと聞こえ続ける悲鳴にすっかり絶望していた。

 すると近い所で子供の泣き声が聞こえてきた。涙が滲む視界には辛うじて腰を抜かした子供の姿と、その方へと無慈悲に進む虫の姿があった。

 「(くっ……私としたことが)」

 ミシェルは痛みをこらえながら手に光を灯した。ありったけの光を集めて煌々と光る。

 「こっちへ、来なさい……鉱、虫、ども……!」

 振り絞って出した声はか細く、子供の方へ目で『逃げろ』と訴えると子供は這いずるようにしてその場から逃げ出した。 

 「(骨が、肺に刺さっているみたい……アリギュラ先生はこれを何十体も相手に……ああ、ニコラ、オデット、あなた方にはまだなんにも教えられてないのに)」

 虫がもう目の前まで来ているのが羽ばたきで発生する微風で分かる。

 

 「さようなら」


 突如ミシェルのか細い声は虫の片翼と共に消し飛んだ。

 「ミシェルさん!」

 目の前に立った姿がニコラだと気が付いた時、その手にはミシェルの傘が握られていた。

 「あなた、がた……どうし、て」

 「傘を届けに参りました」

 ミシェルは握られていた傘を掴み、痛みを堪えながら直線の空に向かって光を飛ばした。そのはじける光弾は宙にウラシマソウのような軌道を描きながら散っていた。

 「大丈夫か……、ですか!? ミシェルさん」

 「オデッ、ト。先ほど、の魔法……」

 「大丈夫そうですね!」

 オデットがニコラと合流し二人はならんでミシェルを守る体勢をとった。

 「(足がそんなに震えているのに)」

 撃たれた鉱虫は片翼の羽でじたばたと不規則な動きをとっている。その音と心臓の鼓動が重なり不安を煽られるようだった。しかし、三人の息遣いが聞こえる安堵がそれを中和する。

 「(今日会ったばかりで、まだ一日と経っていないのに。私を守る義理なんてないのに)」 

 もう一匹のカラスバチが羽をカチカチ鳴らしている。一方で片翼のカラスバチが縄跳びの二重飛びのような激しい音を立て始めた。

 「ふせて!!」

 力の入らない足腰に鞭を入れ、激痛が内側から貫くことなど意に介さず体を起こして無理やり二人を背後から押し倒した。間一髪、烈波れっぱが背後の建物をなぎ倒す勢いで飛んで行った。

 「っぶねえ! ありがとうございま……ミシェルさん!?」

 ミシェルは痛みの限界を超え気絶していた。それを確認したニコラとオデットは目配せする。ニコラはできる限りの光を手に集めて体の患部と思われる箇所にそっと触れた。その間、二人を守るようにオデットが虫の前へと立ちはだかった。

 しかし二人の勇気をへし折るかのように空の光が消えていった。いや、かき消されていった。

 片翼の虫がカチカチと鳴らしていた音はいつの間にか輪唱のように複数に増えていた。その音速の羽ばたきがミシェル渾身の救難信号をかき消していく。

 「くそ……この暗さじゃ何匹いるのかわからない!!」

 黒光りする羽が周囲のかすかな光さえ反射して、そのきらめきがかく乱するのである。そして、四方八方から二重飛びの音がし始めていた。

 「(ああ死ぬ。こんなに理不尽なのか、虫って。聞いていたのよりずっと鬼強おにつよじゃん!)」

 「に、ニコラぁ……アタシ」

 その時、教会の鐘の音が響き渡った。低音と高音の二音がぶつかり合って不安を煽る。これはこの国特有の警鐘であった。緊急事態が起きた時に、その音程によって意味が変わる。このぶつかる不協和音が表すのは「襲来」だった。

 同時に烈波が、十数体分の音速の波動が空気を歪めながら衝撃波が飛んでくる。避けようのない波動がゆっくりと目に見えている。建物の屋根がガラスのように砕け潰れていくの様子が。

 咄嗟にオデットは二人に覆いかぶさった。爆風のような衝撃が無尽蔵に襲ってくる。土煙とがれきや石畳の破片が凄まじい速度でぶつかっては身を服ごとえぐって飛んでいく。

 しかしどの痛みも致命打になることはなかった。少し経ってオデットはゆっくり顔を上げた。そこには見覚えのあるすすけてぼろぼろの傘が開かれており、ほとんどのを衝撃を防いでいた。


 「遅くなってすまん」


 聞いたことのないような唸るような低い声で‘それ’は現れた。ゆっくりと歩いてきて、空中で開いた傘を掴んだ。そしてオデットらの代わりにかぶった土煙を払い飛ばした。

 「一分待ってくれ。な」

 それだけいうと先ほどミシェルが出した十倍の光量はあろうかという程の光を空中に飛ばす。それは夜空に擬態した虫を炙り出すのには充分すぎたのか、数体がひらひらと旋回しながら落ちてきた。視線を空から彼女に移すと、オデットやニコラが苦労した魔法八基の型をそのままに僅か数秒の間に一連の動作を行った。複数の鉱虫に的確に放ち、そしてそれは全弾命中した。

 それらの羽が根こそぎ燃え尽きると黒い胴体だけが落ちてくるのだが、先ほどの一発目の光弾で落ちてくる前に、今までの現象が起きたことにオデットは驚きを禁じ得なかった。

 さらに繰り広げれたのは、傘を持ち換えての柄の部分を虫の胴体に引っ掛けてぶん回しぐちゃりと音を立てて潰していくという荒業だった。瞬く間に、そして華麗に全ての虫を破壊し終わった頃にはちょうど一分といった所だった。

 「おまえたち、大丈夫か!」

‘騎士’デイムという称号よりも‘鬼人’デビルの方が腑に落ちる。しかし今の彼女は‘聖母マザー’のそれだった。

 「ごめんな、遅れて……ごめん」

 頭から飛び込んできたと思えば、ボロボロの三人に向かって泣きながら抱擁をしてくる。

 「怖かっただろう? よく頑張ったな……本当に、生きててよかった」

 「あ、あのアリギュラ先生……痛い」

 「せ、先生……ミシェルさんが!」

 「大丈夫。心配しなくても傷はほとんどふさがっている。見上げた応急処置のおかげだ」

 「はあ、よかったあ」

 アリギュラは打って変わって、唐突に傘を空中に向け光弾を飛ばした。

 「これは、これは、相変わらずの不躾な対応……変わっていなくて安心するよアリギュラ」

 「誰かと思えば、学長ですか。驚かさないでください」

 空中から姿を現したのは、月光を浴びて伸びた影のようなコートを纏った壮年男性の見た目の‘セイン・トルトット’学長であった。

 「ミシェル・シュールズマン。オデット・アマンベイル。そしてニコラ・ウォールディン……君たちの功績は計り知れないほどに大きい……我が校の星たちよ。これを知ったご家族は非常に喜ばれることだろう」

 「おっほん。お言葉ですがいろいろと不信点が多いように感じますが、褒めてはぐらかしているのではありませんよね?」

 「これは手厳しい。私なりの流儀というものがあるのでね。賛辞が先なだけで、もちろんはぐらかそうなどとしているわけではないよ。教会の不手際は私から直接疑問をていするとしよう。それに今回の事件の詳細まで追い、解決することを約束しよう。これでどうかな?」

 「いいでしょう。さ、手伝ってください。医務室に運びますから」

 「君は相変わらず不躾だな。当学院の卒業生としての誇りを持って行動を心掛けたまえ」

 「あなたにとって『他人への説教』は『けがをする生徒』より優先度が高いんでしょうか?」

 敵わない、とでもいうように肩をすくめると、学長は軽々と三人を宙に浮かせた。

 「あとは任せる」

 「放り出すんですか?」

 「違うさ、この場を収めなければならないだろう? 今、実技の先生方は出払っていてね。後のお話は私が直々に付けておこう」

 「ふうん……また不都合なことを消すつもりで?」

 「人聞きの悪いことを……。まあ気になるのならその子たちを置いて私についてきたっていいんだ。君の好きにしたまえ」

 その言葉を発した後、腑に落ちないような表情をしたアリギュラは気絶したミシェルたちを学院の方へと運ぶことを選んだ。

 オデットやニコラがアリギュラと話すことはないものの、目が合うたびに優しいまなざしをむけてくるアリギュラが印象に残ったのであった。

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