第九話「月の魔女」

    一  月の光



 暗い暗い森の中、けれども騒々しい森の中。

 星月の明りは届かずなんとなくの影の動きだけで周囲の状況を把握しなければならなかった。

 「(ああ、忌々しい月明りも、今だけはあってほしかったわ)」

 それと重要なのは音だった。常に耳元では弱く短い間隔でアリシアの吐息が、どこか遠くから鉱虫の関節のぎしぎしという音がしている。それでもおおよその方向や距離感は推察できる。

 「(距離が縮められている……それでも直線距離の最短で動いている訳じゃない……)」

 とはいえ相手は所詮は虫。縦横無尽且つ不規則に動き回りつかみどころがない。応戦するには絶望的な状況であった。もちろん背には手負いのアリシアが一人乗っている。

 「(速度も出ないし、足止めくらいはしないと……せめてアリシアの拘束魔法くもの糸があれば!)」

 前方には森の合間の広がった空間がある。狙うならそこだろうと、ほんのり頭の中にあった。

 「(今度こそは本当に、自分独りで解決しなければならないのね……)」

 やがてその場所にたどり着くと、少しだけ六ツ目蜘蛛むつめぐもの足が遠のいた。

 「(戦うなら今……!)」

 振り返り、森の方へと傘を構えた。月の光が傘の先端へと収束していく。それが綺麗な光弾を構成させそれがほぼ直線に、引っ張られるようにして向かった。

 二、三本の幹をえぐり、それが他の木に寄りかかるようにして倒れた。蜘蛛はまさに、散り散りになりやがて見えなくなった。


 と、思ったのが一瞬の隙であった。


 八方からの糸が瞬く間に半球状に空へと打ち放たれ、月の光を遮ったのである。

 粘性の高い五センチもの太い糸によって形作られたそれは、まるで木から木へと掛かる骨組みだけの大橋であった。

 「いつの間に……」

 絶望が声に出そうになるも耳元の吐息が現実に引き戻してくれるようで、脳が静かになるのを防ぎ、冷静に状況を判断するのである。

 「(数は……八匹、といったところかしら。上に二匹、下に六匹……満遍なく隙は無い)」

 この森の守護者と言わんばかりの佇まいで、単に捕食者としてそこにいるのではないと直感がそう思わせる。ただの虫が順序よく明らかな手負いを狙うのだろうか。いやむしろ虫だからか。

 傘に光を灯してくるくると回りながら牽制する。明らかな劣勢に荒々しくなるアリシアを小声でなだめる。そんな中で、何処か頭の中では現実逃避へと引っ張られる力が強くなっていった。

 「(ああ、口の中にモイラのポテトスープのこてこてした味がする……傘を持つ手がペレ爺のがさがさの手の感触に似ているわ。あ、そういえばちゃんとレコードのお手入れしているのかしら……前にわらでしていたのを怒ったけれど、ガチョウの毛にしてくれたかしら)」

 傘を構えながら地面に少し点火させて炎の障壁を形成させる。あわよくばこの大きな建築物を燃やせないかと思っていのだ。

 「(アリギュラ先生の虫料理、少しくらい食べておいても良かったのかもしれないわね)」

 その火は思惑通り八本の支柱の内ようやっと一本に燃え移り、黒煙こくえんを立ち登らせる。

 今度はその悪臭で逃げる脳の退路を断てた。

 「(このまま崩れ落ちて陣が崩れたら、その隙を縫っていけるかもしれない……!)」

 好機を思う瞬間が隙となるのか、背面から引っ張られるような感覚で咄嗟とっさに振り返るのだが、その咄嗟の時間が永遠のように感じる長い長い時間なのであった。

 なぜなら目の前から瞬きの二度打てるかどうかという速度で、蜘蛛の糸が飛んできているのが見えたからである。

 振り返る反動で奇跡的に前に出た傘にほんの少しだけ力が入り幸いにも蜘蛛の糸が弾かれた。

 「痛っ……た……」

 咄嗟とっさに手を伸ばすも、右手から左半身に掛けて一瞬走った激痛に視線を分けた。

 手首の許容できる曲がり方を越えてしまったのか、少し曲げれば小指が腕につきそうである。

 「(手首はもう使い物にならない!)」

 さらに傘へと伸ばした左手は、その道すがらで進むのを諦めた。

 なぜならその傘がひどくひしゃげていることもわかってしまったからである。

 顔を上げれば目の前には、既に二撃目が迫ってきていたのであった。


 「(もうそろそろ実技の試験かしら、オデットとニコラが心配……)」


 頭の中では、ほこりを被ってしまいぷつぷつと途切れながら流れるレコードの音で奏でられる「月の光」が流れ始めていた。



    二  蜘蛛の糸



 「静粛に。これは厳格な試験です。いかなる事情があろうと、静粛に行う義務があなた達にはあります。さあ、今一度机上へと向かい、筆を進めなさい」

 実技を除いた最後の試験につく前にあった緊急会議。緊急的に開かれるそれには学長と二十名全ての先生が学長室へと集められた。

 並々ならぬ緊張感で急ぐ先生方を目撃した星女らはその輝きを鈍らせた。もしくは光らせた。

 この大聖堂の上空を飛ぶ魔女、魔法使いは月明りに照らされて影を地に落とし、それを見たのである。しかしながらどういう訳か火のない所に煙が立ったのである。

 ざわつきは「自身の部屋の高等部が居ない」ということと「先生らが急いでいる」という事実が火起こしをしたのであった。しかし彼女らは年に四度の試験の最中。

 調べ、見聞きすることができないのが歯がゆい星女らは最後の試験に向かおうとしていた。

 ……なんてことは、うら若き淑女の前には関係は無く、どこか騒がしかった。


 「静まりなさい。聖女がみっともない……」


 そういうといつの間にか奥の扉が重く開いた。

 そこに立っていたのは法王、トリファ・チャズリックだった。

 「心配の一切は杞憂だ。しなくても今直ぐに関係することではない。それに気を取られているものは私の一存で失格としてもかまわんのだ。さて、それを望む者は喚くと良い。さあ」

 突然、頭から押さえつけられたような重圧が広大なその場の椅子に座る皆に降り注いだ。普通最後の試験に現れるはずのチャズリック法王は、毎年の試練とも言えるべき壁であり、その存在だけで正体不明の些細な失敗をし、点数を下げた者も少なくはない。これで上がる者などおらず軒並み下がるのだ。その地位にあたわず、毛嫌いする者もいるが、はなはだ迷惑な話である。

 そんな法王の静かな一喝いっかつによってちらちらと光り騒がしかった声が制されたのである。

 「(魔法……? 口が開かない……)」「(これが……法王……)」

 声に出ていなくとも、そういった言葉が頭によぎっていることは誰もがわかった。

 「最初からそうせい。未熟な屑星くずぼし共が……」

 その細い声をさらに小さくした聞こえるかどうかの声は、静まった教会に木霊した。

 「お前は警戒を怠るな。さっさと散れい」

 その声と共に、監督していた枢機卿はさっと出て、その扉が再び閉められた。



 「学長! これは一体どういうことですか!?」

 二十名の老若男女が一堂に会するのは、以前アリシアが独り呼び出された学長室であった。

 一同の視線は学長に集中しており、その一言を史政教師のスリドリオ・リッチカーンは放ったのであった。

 「生徒だけが森の中の、しかもよりによって六つ目蜘蛛の巣に行くなんて!」

 肘をついて手を組んだ学長の前に置かれている一枚の置手紙を指差しながらそういった。

 置手紙には『アリギュラ先生へ、生徒十名が森に。みな高等部、ミシェル』と書かれていた。

シェールズマン家傘下の高等部の一人が急いでこの綺麗な筆記体で書かれたから騒ぎが起きたのである。

 「その生徒には、混乱させぬように……と忠告しておいた」

 「そういうことではなくてですね、これが本当ならどうするのです?」

 被せるようにそう言ったのは語学の女性教師クレイベル・マンマであった。

 「実際、学院のガラス大球を通して見ても生徒ら十名は見当たらない様子ですし、応援に行かなければ生徒らの命が……」

 「慌てるな。生徒らが独断で森の中へ行くことはありえん」

 「ですが、ミシェル・シェールズマンが嘘を吐くとは……」

 「混乱を招くための、虚偽……その可能性を考慮しなければ、公平とは言えん。いくら五輝族でも肩入れは頂けない、慎重に確かめ」


 「理由ならここに在る!」


 扉がばしんと開き、その奥からは実技の教師アリギュラ・ディエルゴが眉間にしわを寄せて現れた。その傍には申し訳なそうな生徒が一人いるようだ。

 「生徒を疑うとは、それでも学長ですか?」

 「アリギュラか……君はいつも……おや? 君が連れている、それはなんだ?」

 「おお、こいつ何か知っているらしい! ほら、言うんだ!」

 「は、はいぃ! え、ええと……私、聞いてしまったんです。アリシア先輩が他の高等部の先輩たちと一緒に森に行って、蜘蛛を討伐するって」

 「それは本当なの!?」

 クレイベルが高い声で反応する。

 「は、はい先生。なんでもミシェル先輩に対抗して、とかなんとか……」

 「が、学長! ごき、五輝族の星女二名が森になんて、ま、万一のことがあったら……」

 狼狽するのは同じく語学教師のトリナラ・ヘンデイルである。いつもよりげっそりしている。

 「トリナラ先生! いくら五輝族でも、誰もがうちの大事な生徒です!」

 「こうしちゃしておれん! 今すぐにでも行くべきじゃ!」

 老いた数学教師コーダス・トートマンの年齢に似合わない元気な足は今にも動きそうだった。

 「待て、その生徒のあやふやな証言で迂闊に動くわけには……」

 様々な教師陣を何処か笑みを浮かべるように見つめている学長は、ただ静かにその様子を見守っていた。

 「学長、この場をいさめてはいかがです?」

 「なんだ、アリギュラ・ディエルゴ」

 「聞こえませんでしたか? ……んなに時間稼ぎしてんだっていってんだよ!」

 突如傘を構え突進するようにして驚異の跳躍を見せるアリギュラを回避するために、教師陣は二手に別れた。そして、その明確な攻撃は腕を組んだままの学長の顔面に向かって的確に飛んで行く。状況を理解したクレイベルをはじめとする魔女らはごく短い金切声を上げた。

 「相変わらず血の気が多いな、アリギュラ。その内に憤死※ふんしするぞ」

 涼しい顔でそれを傘の柄と添えた手のひらで受けていた。風圧で砂時計が倒れ、シャンデリアがちらちらと音を立てている。

 「あ、アリギュラ先生!、少し落ち着いてくだ、くださいよ……!」

 「そうじゃぞ、少々手荒が過ぎる! 淑女たるもの……」

 「セイン・トルトット学長、本当のことを言ったらどうです? あなたが噂を流して、それをアリシア嬢に吹聴したのでしょう?」

 「はっはっ……何のことだかさっぱりだ。君は……はて、いつから小説を書いていたのかな? さもなくばどこぞの研究員のように、陰謀論を説くのが趣味か」

 「ふん、私は行くぞ」

 「どこに行くと? まさか森になんていうんじゃないだろう?」

 「そのまさかだったら?」

 「私は君の愚行を取り締まらなければならない」

 光る眼がアリギュラを貫くが、それに呼応するように睨み返す。教師陣には緊張が走った。

 「トリナラ君、扉を閉めたまえ。たった今、アリギュラ・ディエルゴはミシェル・シュールズマンと協力し、五輝族を陥れる事件を起こそうとしていることが発覚した。証言はここにいる皆がしてくれるね?」

 皆が次々に目線を外したり落としたりする中、クレイベル、スリドリオの二名は旗を振る。


 「「できません!」」


 「ほう?」

 「嘘がどうだとかいいんです。さっきから五輝族だの、陰謀だの……森へと向かっているのが本当ならば、危険でも行くべきです! 嘘ならいいじゃないですか! 『杞憂で良かった』と、言えるじゃないですか!」

 「ええ、私はアリギュラ先生の言うよう程ではありませんが、にセイン学長が時間を伸ばしているように見えます。なにか、時を待っているような……」

 「そうか」

 セイン学長はどこか優しい目をすると、その目のまま声を発した。倒れた砂時計を起こす。

 「いいだろう、君たちがそこまで言うのなら行くと良い」

 アリギュラは舌打ちすると傘を引っ込めた。ほくそ笑む学長を見ながら懐に仕舞うと、閉められた扉を魔法で乱暴に開けた。廊下の星女は相変わらず立っておりその音にびくっとしていた。

 「茶番が……これで、ミシェルに何かあったら……許しません」

 「かね?」

 騒然とする学長室には少しの間があいて、閉められた扉の奥からは静かに声が響いていた。



 一方は森へと向かったアリギュラは空の上で、遠目からその様子を伺っていた。

 「くそっ……学長室から森まで、なんでこんなに遠いんだ!」

 悪態を飛ばしながら救難の信号が出ていないかを、まるで八方に大きな目があるかのように、そういった動物のように見渡した。

 すると木陰の隙間でほんのかすかに、動物でない何かが動いた気がした。その気のせいを頼りにそこへと降りていく。

 「ミシェル!」

 近づいた時、それがミシェルだと気づいたがその背には誰かをおぶっているようだった。

 「あ、アリシア!?」

 傘を降り、千切れた腕を持ったミシェルがひどくぼろぼろになった状態でよたよた歩いていたのを支えた。倒れる寸前であった。

 「一体、なにが……」

 アリギュラは二人を抱えきびすを返した。文字通り風を切って、月夜の街を駆け抜けていった。



    三  悪魔の契約



 まことしやかに、その光景が永遠に感じるようにして目の前へと迫りくる蜘蛛の糸を見ていた。

 「(あれ? でも避けられそう……)」

 ふわりとそういう考えが過るが、いやいやと遮る。しかし、その考えは目の前で打破される。

 少しだけ横にずれると、やはりその考えと事象は正しく、いとも簡単にその射線を逃れた。

 「(??)」

 そう考えていると、両性的な声が耳元で囁かれた。

 「ねえねえ」

 「ひぅ!」

 突然の声と耳にかけられた息に驚き、危うくアリシアを落とすところではあったが、不思議と水中にいるような安定感があった。

 振り返るとそこにはやや短い黒髪に紛れた赤髪をなびかせた、細めた目でミシェルを見つめる、上下烏からすのように艶やかな黒い発色の服を着た、おそらく女性が立っていた。

 「驚きすぎ! やあやあ、やっと君と話すことができた」

 「ええ……ええ?」

 「初めまして、ミシェル…………ん? 「久しぶり」の方がいいのかな?」

 「ええと、この状況と、あなたは一体? なぜ私の事を知って?」

 「ああそうだね。私は……」


――悪魔だよ


 「悪、魔……?」

 「そうだよ。君と、ずーっと機会を伺っていたんだけれどなかなかなくてね」

 「ずっと? 一緒になりたい……? ちょ、ちょっと待って、悪魔ってそんな冗談……」

 「冗談なんかじゃないさ! 僕は皆が言う所の悪魔だよ。あれはいつだったかな……あの日、ランプ街で君に助けて貰ったのを僕は忘れない。今際いまわきわでさえも君は自分を犠牲にしようとしたね……ああ今でも君のあの顔を思い出すとゾクゾクする……」

 「ちょ、ちょっと……あの時助けたのは子供じゃ」

 「僕は変身できるんだ。ちょっとしたがあるんだけどね。実力は今の姿じゃないと出せない。子供の姿は無力なんだ。なんで子供だったかは……ちょーっと言えないけれど」

 ミシェルは既に頭がぐわんとしていたが、そんなミシェルの頭を両手で優しく持ち、否応なく目を合わせさせられる。

 「そんな話よりもさ、僕は悪魔で君は聖女。僕とさ、契約をしない?」

 「ああ、悪魔となんて、嫌よ!」

 「ふうん……そっか……でも君は今、拒否をすることなんてできない」

 その悪魔はミシェルの顔をくいっと横へ向けると、その視線の先には蜘蛛の糸が先ほどよりも手前に来ているという光景があった。ミシェルの額にじっとりと汗がにじむ。

 この攻撃が当らなかったとしても、この現状ではどうせ長く持たないだろうというのは想像にかたくなかった。

 「こんなことをして君を手に入れたくは無かった。けれど、君は今直ぐに僕と契約して魔女にならなければ命はないだろうね。ちなみに僕は君が契約しないのなら、なんにもしない」

 「脅しじゃない!」

 「だから嫌なんだって! 手に入れるなら、骨のずいまで惚れさせて、口も身体も。君が悪いんだ……小悪魔め」

  顎に指を滑らせ顔を上げさせられたミシェルには、成すすべは何もなかった。

 「……わかったわよ、わらでも悪魔でも頼るわ。アリシアだけでも無事なら、その契約とやらをしましょう。その契約ってどうするの?」

 「ええっと、接吻だね」

 「……へ?」

 「知らないのかい? 悪魔と接吻することで契約成立! みたいな」

 「知らないわよ! ふぁ、ファーストキスなのよ!? 嫌!」

 「えええ! そんなはっきり言わなくても……後悔はさせないよ?」

 「そういう問題じゃ……そ、それにあなた女性じゃない」

 「気になるなら、君の思う姿になろう。男? 女? 小さいのが好き? それとも」

 「も、もういいって! 心の準備だけさせて……」

 「早くしないと、完全に時間が止まっている訳じゃないから、次期に痛いのくるよ?」

 「う、あなた狡猾こうかつね」

 「君という小悪魔に魅せられた天使さ」

 「その軽薄さ、なんとかならないの?」

 「雰囲気が大事なのさ。ほら、いいから……目、閉じて……」

 ミシェルと悪魔の唇がそっと触れ合う。ミシェルの口の中に甘く煙たい何かが絶え間なく入り込んでくる。思わずむせて離しそうになるも両耳を手で押さえられ、身動きが取れない。

 みぞおちの辺りに生暖かい空気が溜まっていくのがわかり、やがてそれが一杯になった時に、ようやく唇はそっと遠くなる。耳を押さえつけていた手は名残惜しそうに離れた。

 「ミシェル。君はもう……僕と離れられないよ」

 その声にこたえるように眼を開けたミシェルの前にはもうその悪魔はいなかった。

 「時間が動くよ、気を付けて。君はもう今までの君じゃない。僕の力で君の力を解放するよ」

 するとミシェルの目が、赤ワインを入れたグラスのように徐々に真っ赤に変わっていった。

 飛来する蜘蛛の糸はその動きを加速させていった。そして二発、三発と四方八方から、当れば

いとも容易たやすく人の体に穴が開くだろうという速度。


 しかし、「魔女ミシェル」の前には、ただの「虫けら」同然であった。



    四  目論見



 スリドリオ・リッチカーンは先ほどの集会が終わる際、学長からを出されていたのだが、それがあまりに不服の為、異議を立てるために再び学長室に向かっていた所であった。

 「此度の件はあんたの目論見だろう」

 聞き馴染みは無いものの、一度聞いたら忘れないか細い声。法王のものだった。

 学長と法王に何の関係が……? あらゆる可能性を巡らせているといつの間にか扉の前で意義ではなく、聞き耳を立てていたのである。

 「さあて。私には何のことだかさっぱりだ」

 「ふん、自分で築いた牙城だろうに……そんなにシュールズマン家が脅威なのか?」

 「いいや? パッヘルベルよりも、その奥方。と、その娘だよ」

 「まあそうか」

 「はっはっは、お前も言うようになったな。トルトット坊や」

 「いやはや歳は取りたくないもんだな」

 「選択は君の責任だろう?」

 「ふん、「せめてもの」というやつだ」

 「そうか、なんにせよ君の足元が常に照らされていることを願うよ」

 「心無い一言をありがとう」

 「っは! どういたしまして、坊や」

 「おっと、そうだ。いずれにせよ私は彼女に対して開かんといけんぞ」


 「魔女裁判を」


 「ふっふっふ、わかっているさ。その前に、ひとつ余興を挟みたい。どうせ一週間程度は準備があるだろう?」

 「まあ。なあ……また何を企むつもりだ?」

 「いいや? なにも、言った通り余興だよ」

 「ほう、まあいいさ。好きにすればいい」

 「おお、これはこれは寛大なお心でありがたい」

 「いちいちしゃくさわる」

 聞き耳を立てていたスリドリオ・リッチカーンの頬にはつーっと汗が伝っていた。

 その汗のしずくがぴとんと板張りの床へと落ちた。その時、僅かな音が鳴った。

 「おや? 今日は、予期せぬ学長室ここへの来訪者が多いようだな」

 息が止まる。動きたくても、足が動かせない。今から逃げればもしかしたらばれないかもしれない。そう思っていても足だけが金のように重く、元から接着されていたように動かなかった。

 

――ギィィガ、ガ、ガ……


 「これはこれは、スリドリオ・リッチカーン殿……早速、趣味を謳歌おうかしているようで、大変に素晴らしいことだ」

 「ええ、ああいやいや、これはその、丁度今、たった今、お話をしようと思いまして」

 「そうかそうか、走って来たのかな? お茶でも淹れよう、飲むと良い。さあさあこちらへ。ちょうどここに法王殿もおられる」

 「あはは、そうなんですか、いやあ奇遇ですね」

 

 「とても、有意義な話ができそうだ。スリドリオ君」


扉が独りでにゆっくりと閉まる。この学長室で起きることは、他の誰にも分らないことだった。



                             ※憤死:怒りのあまり死ぬこと

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