第八話「いちから」

    一  悪い魔



 「アリシア・フランソワーズ。フランソワーズ家の御息女にして、次期当主となる者を見定めなければならない重役を背負いしうら若き淑女」

 月明りの最も遠い所にある薄暗い学長室。吊られた小ぶりのシャンデリアがたったひとつだけでその部屋を照らしていた。甘ったるい茶菓子の香りが鼻の下に纏わりつく。

 セイン・トルトット学長の重く低い声が対面のアリシアの鼓膜を震わせた。

 「ああ、そんな君を憧憬しょうけいの眼差しで見つめる子らがいるようだ。モーリス・ヒルデガルド君とグレイシア・マドリード君……彼女らは随分と君に入れ込んでいるようだ」

 「……はい、セイン学長。存じております」

 「君は少々のようだ。ところでアリシア君は当院のモットーは知っているかね?」

 「……はい、『優しく、上品に、躾よく』です」

 「よく知っているね……勉強熱心で嬉しいよ。さて、私の言いたいことはわかるかね?」

 「はい」

 「ならばよろしい。これからも『五輝族』の名をより輝かせるように努めたまえ」

 言葉が詰まり喉から空気すら出ない中で、退室を促されたアリシアの表情は書くまでもない。


 かくも短い呼び出しの後、学長室から離れた月明りの廊下に心配そうにしている影がふたつ。

 「アリシア様!」

 「アリシア様……!」

 「あら、待ってていてくれたの? 先に戻っていても良かったのに」

 「私たちはいいんです。それよりもアリシア様は大丈夫ですの?」

 「ええ、私は無問題よ」

 「セイン学長はなんと……?」

 「『二人とも頑張ってくれているから、これからも頑張るように』と」

 「……え、それだけで呼ばれたんです? いやまあ、それならいいのですが」

 「ええ。いいのよあなた達は気にしなくて」

 一人歩き始めるアリシアを追いかける二人。アリシアの頭の中には父の影がちらついていた。

 「(ねえ、モーリス……これって大丈夫なの?)」

 「(知らないわよ……大丈夫っていうんだから大丈夫でしょ。何も無いわよ、きっと)」

 六回のかつかつという高い音がいつものように廊下で不規則に鳴り響いた。

 「アリシア様、ちょっとお時間よろしいですか?」

 声を掛けたのは後ろを付いて行く二人ではなく、また別の高等部の貴族の一人であった。

 「ええ、いいわ。二人は先に部屋へ。明日の季期テスト、抜かりのないよう念入りに復習しておいてちょうだい」

 「はい。わかりました」

 こくりと頷く二人はどこか心配そうな目で、角を曲がっていくアリシアを見ていた。

 二人は言われた通りにアリシアの部屋へと向かったのである。


 それを横目で確認したアリシアは自分を呼んだ聖女に向き直る。

 「で、話しは何かしら。季期テスト前だから手短にお願いするわ」

 「ええもちろん分かっているわ、アリシア様にいいお話がありまして……実は……」

 ニヤリと口角の上がった聖女の目は、どこか悪企みに似た形でアリシアを見ていた。



    二  季期テスト



 それは学院にある大聖堂で行われる神聖且つ公正な試験であり、年に四回行われる。

 成績上位者は高等部、中等部分けで張り出され共有される。それだけでなく、学院はその成績に応じて月の支給額が変動するのである。貴族間でも共有されるその成績は自他ともに将来にも響くのだ。

 ミシェルは先んじて大聖堂に入っており、要項を確認していた。

 「あら、ミシェルじゃない」

 「ん、アリシア? どーしたのよ。わざわざ声をかけてくるなんて……まわりにもいるのに」

 「いいじゃない……別に。たまには……」

 「どうしたの、本当に」

 ちょこんと鼻に乗った眼鏡がきらりと光り、アリシアを見やった。

 「いいえ、五輝族の親指様がわざわざ前乗りなんて……後輩に任せればいいものを」

 「? あなたもでしょ?」

 「私は、別に……後輩の為なんかじゃ」

 「ふふ、高等部は本来ここに来なくてもいいわけだからそれ以外に用はないはずだけれど?」

 周りには他の高等部が例年より多く前乗りしていた。が、要項の確認をしているのはミシェルくらいだった。他は井戸端会議で盛り上がっているようだ。

 「私はこれで」

 「あら、ごきげんよう」

 「……ごきげんよう」

 歯切れの悪いアリシアに首をかしげていると、反対側からニコラとオデットがやって来た。

 「おはようございます! 無事たどり着けました!」

 「おはようございます~。忘れ物もありませんわ」

 「おはよう。無事に合えてよかったわ。予習復習、夜遅くまでやっていたようね」

 「はい、ばっちりです!」

 はあ、とため息を吐いてオデットのにできたにきびを優しく撫で、ニコラの冷たい手を握った。

 「夜更かしは乙女の名折れよ。熱心は時に頭を狂わせるのよ。今のうちに少しでも冷ましておきなさい。そのために一夜漬けにならないようにしたんだから」

 そうして要項の書かれた紙を二人に手渡して説明を始めた。

 「いい? 試験の五分前にはここに座っていてちょうだい。一教科ごとに十分休憩があるわ。ことあるごとに小さな鐘を鳴らしてくれるから安心してね。語学、原理、数学、史政……最後に実技よ。史政が終わったらちゃんと移動するのよ」

 「大丈夫ですよ! 一番緊張しているのはミシェルさんじゃないですか?」

 「何言ってるのよ。あなた、私にもあなた達の成績が関わるんだから当然よ!」

 「ふふふ、手を握っていただいてわかります。緊張してらっしゃるんですね……もしかして、今日早く来たのってもしかして……」

 「あーあー! ほうら、無駄話してるがあったら早く準備なさい!」

 「はーい」

 「わかりましたわ」

 大聖堂で行われる格式ある試験は、神の名の元で執り行われる。そんな公正な試験を見守るのは三人の枢機卿とただ一人の法王である。四回あるうちの最後は必ず法王が見守り、その覇気にやられて実力を出せない者もいるがそれはまた別の話である。

 「不正は禁物よ。心してかかるように」

 そう言い残して、大扉の外へと歩いて行った。その時、目線だけで辺りを見渡したが高等部はいなくなっていた。

 「ねえ、あなた……アリシアを見なかった?」

 「いいえ? でもさっき、先生らが体調不良者が多数出てるって言っていたわね。それじゃないかしら。最近多いものねぇ」

 「え、ええ。そうね、ありがとう」

 「どういたしまして」

 少し不気味にも思えたがミシェルの気に引っかかることはなく、喫茶店に向かったのである。



——程なくして、はアウトグランを揺るがす大事件になる。



    三  死に音は無し



 アリシアは……いや、十名の聖女たちは十個の光を携えて森の中を真っすぐに歩いていたのである。大きな帽子をはすに被り、艶やかな黒装束に身を包んだ彼女らは小刻みに歩を進めており、まるで浮いているようであった。

 葉っぱとフリル同士の擦れる音が下の方で静かに騒いでいた。

 「だ、大丈夫よ。私たちにはアリシア様がついているんですもの」

 「そうそう、すぐに行って帰るだけなんだから。不安がることは無いわ……」

 擦れていたのは葉や服だけはなかった。声もである。

 「ねえまだ着かないの?」

 「もう少しよ!」

 苛立つ聖女もちらほらいる中でただ黙々と歩くアリシアを先頭に、背後ではそういった会話が交わされていた。

 この聖女らはどこへ向かっているのか。それは少し前のこと……。


 「ええ、実は……森の中に親に見捨てられた六ツ目蜘蛛むつめぐもの巣があるらしいのです」

 「まさかあなた……」

 「私だけじゃありません! あなたさえ来ていただければ十人います。五輝族であるあなたが居れば百人力です。このままあの女ミシェルだけに先を越されて溜まるもんですか!」

 慌てて声を抑え、そっと話を続けた。

 「明日、試験当日は枢機卿や法王、先生らでさえかかりっきりになります。実技の試験までには帰れる算段ですから、心配は限りなくゼロです。待っていますからね」

 場所と簡単な作戦の書かれた紙を押し付けられて、一夜明け、今に至るのである。


 「あ、あれよ!」

 聖女の誰かが指を向けるとそこにはまゆに包まれたが無数にぶら下がっていた。

 「あれが六ツ目蜘蛛の繭? 足くらいならすっぽり入りそう……」

 「気持ち悪い……」

 「親蜘蛛は確かに……どこにもいないようね」

 「今のうちに全部落とすわよ!」

 そうして未だ喋ることのないアリシアは、淡々と繭と巣を繋ぐ糸を焼き払っていく。聖女らがそれに続いて焼き始める。どさりどさりと落ちていき数分も経たない内にそれらは全て落ちた。

 「不気味ね、早く行きましょう」

 落ちて潰れた繭を見て初めて喋ったアリシアは今度も先頭に立ち歩いていく。

 「私たち悪魔の芽を摘んだわ! 摘んだのよ!」

 「これは勲章ものよ!」

 確かに、鉱虫やその幼虫でさえ殺すことは困難であるため、数匹でも殺せば勲章……とまではいかなくても大々的に表彰されてしかるべきであろう。

 誇らしげに帽子を触ると揚々ようようとしていた。歩幅も心なしか大きい。

 「あの女ミシェルずっと進級初日のことでちやほやされちゃって……ほんっと腹立たしかったのよ!」

 「そうそう、いつもいつもお高く留まっちゃって。蝶のつもりかしら!」

 「っは! 鉱虫よりところの出ですもの。お似合いよ、アリシア様もそうお思いで?」

 「え? ええ。そうね。お似合いよ」

 「アリシア様? 体調でも? 最近流行の病気じゃなくて?」

 「やめてよ、私は大丈夫。ちょっと……木々の音を聴いていたの」

 「木々の音なんて……って、そういえばこんなに少なかったかしら?」

 木々の音が大きく聞こえるほどに、息の擦れ合う音が少ない。

 「え、ちょっと……やめてよ。冗談じゃないわ」

 「でもいないわ。いない!」

 肩が息を激しくする。それを聞いているはずのアリシアが歩みを止めることはない。

 「ちょ、ちょっとアリシア様。少しお待ちになって!」

 「待たない。気のせい。ちょっと歩くのが遅かったのよ。気にしなくていいわ」

 「そんなこと……少し待っても」

 「待たない!」

 アリシアには、ツーっと頬を伝い首筋にまで流れるしずくがいくつかあった。

 「もう、いい加減に」

 「……え? ちょ、なんで突然何も言わなくなるの……?」

 そうして恐る恐る振り返ったのである。しかしそこには誰もいなかった。ただ帽子が髪の毛を残して落ちていたのである。

 「え?」

 溜まらず金切声かなきりごえを上げ、走り出した。

 「(いやだいやだ……こんなところで……訳もわからず死ぬのなんていや!!)」

 笑うように大きく大きく枝葉えだはが揺れ、自分の息の切る音もかき消した。

 「(怖い怖い……コワいよ……)」

 背丈のある草か、はたまた小ぶりの木にドンとぶつかって大きく転んだ。しかしそのまま体勢を強引に変えながら再び走り始める。すでに足は捻っていたが、痛みは感じなかった。


——シュッ……


 耳元で確かにシュっという音が聞こえたのである。それは耳元ではなかったのかもしれないがアリシアの耳にはいずれも耳元で聞こえてくるのである。

 「ひ……」

 非日常な音色に思わず腰が落ちた。視界が一気に揺らぎ、足元の草と同じ様な高さになった。

 「あ、ああ……あ……」

 それでもなお起き上がろうとした。腰が抜けており動けない。だからこそ何かを掴もうとするがそれは空を切った。


 いや、手が無かった。


 それに気が付いたアリシアは辺りを見渡す。確かにそこに手が落ちていた。

 自分の腕を残った腕で手繰り寄せる。一方で鼓動の分だけ勢いよく流れ出る血液が肩から出ていた。手を持った手で土を掴み、枝を、草を掴んで手繰り寄せる。それは軽く動けなくなった腰を動かす唯一の方法であった。

 やがて大きな幹にできた小さなうろに背を預けることができた。しかし彼女の鼓動と冷や汗は、止まることは無かった。綺麗な生地は汗で白い肌にぴったりとくっつき、薄っすら透けていた。帽子は取れかかっていたが、糸でも掴むようにぎゅっと握っていた。


——シュピピピ……シュー


 一体ではない、聞いたことのない音がそこかしこからする。それは自然の音ではないが、自然の怒りを感じるような音であり、擬音が頭の中につづられるがどこかで見たような文字であった。


——シューピピ……シュキュー


 冷や汗がピタリと止まったのである。あれほど出ていた汗と息が出なくなったのである。

 慣れない方の手で傘を構えはするが、もう視界は白黒であった。その中でも遠くから怪物がのっそのっそと歩いてくるのが見えていた。死ぬのはもうすぐであった。


——バギッ


 傘は軽々と弾かれた。傘はそのまま上の太い枝に刺さる。手ごと肩ごと持っていかれ、片手をあげた風な恰好になっていた。じんわりと下腹部が少し湿る。

 ぎゅっとつむったまぶたの裏で、脱水症状に似たちかちかと明滅するような感覚になった。

 「(ミシェル……お母様……モリ―、グレイス……)」

 やがて来る衝撃に備えて、お腹に精いっぱいの力を込めた。

 ドスン。その衝撃がやはりお腹に来たような気がした。しかし、思っているよりは優しい。

 アリシアは少しだけ目を開けたのである。


 「救いようのない馬鹿ね。アリシア」


 金色の髪が鼻に当たってくすぐったい。石鹸の様な匂いがふわりと香った。


 「ミ、シェ……?」


 傘からは煙を出しており、ミシェルは既にアリシアのもげた腕を抱えていた。どうやら六ツ目蜘蛛の不意を打ち、射貫いたようだった。

 「動ける? ……っていうか動かないと死ぬわよ」

 「うご、く……」

 「なんて酷い顔、いろいろとわよあなた」

 「う、るさ……ぃ」

 「ほら掴まって。まずは生きて帰るのよ」

 言われるままに首に手を回し、金色の髪に頬を埋めるようにしてアリシアはおんぶされた。

 「揺れるけど、もう乗り心地なんて気にしないわよね?」

 「うん……」

 「赤ちゃんみたい。も換えないと、ね」

 「は、たく……わよ」

 「なんだ、元気そうじゃない。ちゃんと掴まってなさいよ!」

 

 少しゆっくりになった鼓動を背中に感じ、耳元で息を感じ、ミシェルは走ったのであった。

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