第七話「聖論」

    一  星女せいじょの為の休日



 星女の為の休日……それは学院生の間にのみ存在する祝日である。

 この日はセイン・トルトット学長が制定した休日で、隔週日曜日のことであった。

 そしてこの日は原則参加として大聖堂での「祈り」という行事が存在するのだ。

 カリキュラムを組むことを禁じられたこの日は学院生にとっては年頃の女の子を演じることを許された唯一の一日であり、週四日の貴重な日なのである。なお、意識の高い学院生らは自主的に学びを得ているものも少なくはない。

 現にニコラやオデットはアリギュラ・ディエルゴの指南はそういった日にも組込まれている。


 さて先日アリシアを含むミシェルらが襲撃を受けた後だがアリギュラと共に学院に帰り、別段事を大きくすることなく帰路へ付いたのであった。そうしてアリギュラは学長の元へと行った。

 そうして今日は星女の為の休日である。


 「おはようオデット」

 先に起きていたミシェルは眠たい目を擦る振動でボサボサの髪がゆさゆさと揺れるオデットにそう言った。ミシェルは優雅に紅茶を飲みながら小さな眼鏡で本を読んでいた。

 「おはようございます。ふああ……あれ、ニコラはもう居ないんですね」

 「何言ってるの? もう高い鐘の音がなってから数時間は経ってるわよ」

 高い音の鐘は朝、低い鐘の音は夕方の知らせだ。そしてたった今、オデットのお腹からも短くはっきりと高い音が鳴った。

 「うう……アタシ、今日は暇なんですよねえ」

 「そう。でなければこんな時間まで起きない事ないわよね」

 「ああ、はは。確かにそうですねはは……ど、どこか行きますか?」

 「遠慮しておくわ」

 「そ、そうですか……もしかして、怒ってたりします?」

 「いいえ? ただ本の中の世界観に浸りたいだけ」

 そういうミシェルの持つ本にはびっしりと数式が描いてあり、とても小説の様な文学的風体には見えなかった。

 「たまの休日くらいゆっくり休みなさい。昨日はいろいろあったのだし、疲れているでしょう? アリギュラ先生も用事があるって言ってたし……ランプ街で羽目を外してみたら?」

 オデットの偶のこういう日は、アリギュラ先生の元で筋力を鍛えたり魔法八基の練習をしたりしている。ニコラはそういう時、大抵は別に用事があるということで外している。

 「ニコラも自分の時間を過ごしているのだから……乙女を磨くのもまた教養のためよ?」

 「うう、まあ行ってきます」

 そういいながら麻袋の中を見ると、しばらく何にも使っておらず溜まりに溜まった金貨銀貨が入っている。最後に使ったと言えば、それこそニコラに借りたグラス代くらいだった。

 「『最初は使うと思っていたけど案外使ってないな』なんて思っているんでしょう?」

 「なぜそれを……!」

 「顔に書いてあるわよ。まあニコラのようにご実家に送って余りは自分に取っておきなさい。私のように趣味に使うもよし、そう言ったことに使ってもよし、好きに使いなさいな」

 そういって眼すら合わせずに読書を続けるミシェルを後目にした。

 傘と袋を携えて、オデットは不安げに出かけたのであった。


 ランプ街はいつも通りの暗闇と珍しい月明りによって比較的明るく照らされており、どんなにひと気の居ない店であっても、上からの淡い光によって化粧が施されているのであった。

 「(と、来たのは良いけどこういう時ってどこに行けばいいんだ? 化粧品店とか?)」

 そう言いながら足だけは独りでに歩いていき、やがて香水のお店にたどり着いた。

 「いらっしゃいませ、どうぞごゆるりとおくつろぎください」

 妙齢の受付嬢のゆるやかな笑顔がオデットのがちがちの顔を少しだけ溶かした。

 辺りには酸っぱい匂いや甘い匂い、花の香りや森の香りがあちらこちらから漂っており馴染みのない強い香りばかりが鼻から脳天へと突き抜けるため、あまり気分が良くなかった。

 「(うわ……『こういう時は表情に出さないものよ』ってミシェルさんなら言うだろうな)」

 そう思いながらまず自然をモチーフにした香水売り場方面へと向かった。そこには白っぽい液体の入った小瓶がいくつか置いてあり「木の葉」と書かれた板が手前にあった。

 「(んん……この匂い良いな。土っぽいのが落ち着くな)」

  そうして小瓶を手に取ろうと手を伸ばしつつ、名前と共に板に書かれた値段を見た。

 「(いや高っ!! ええ……これひとつで紅茶葉何包分なんだ……? ひとつ三百ルクス、いやそれでも高いけど、仮にだったとしても十包分はある……うちなんてひと包分を家族全員で使いまわしたうえで干して使ってたくらいなのに……うええ)」

 「あの……お気に召しませんでしたか?」

 と、言葉はには出ないものの表情豊かにしているのを見て店主らしき人物がいつの間にか傍に立っており、申し訳なさそうに話しかけてきたのである。

 「は、はい!? いえ、いえいえいえ、滅相もございません! かかか、買います!」

 「ああ、そうですか! よかった、当店の香水は『石炭寄らずの安心天然もの』ですので! 一品一品にこだわって手作業で作ってるんです。少々値は張ってしまうのですが、再購入をしてくださるお客様が多いのも事実。嬉しい限りではありますがやはり成分や抽出方法などを疑念に思う方々も多いのでそう言った方がいらっしゃる場合は一人一人懇切丁寧に……」

 「へ、へえ! それはすごいですねあはは! ええと、もう行かなくてはー!」

 「そうですか! いやはや自分語りが自分の悪い癖でして、申し訳ない。……ではこちらへ、ああその小瓶は私がお持ちしますよ。ええ」

 そうして小瓶を片手にした店主らしき人物は受付嬢に代わって清算を済ませる。オデットは袋から出て行く数千ルクスの貨幣を見て少しだけ眉をひくつかせた。

 「またのご利用を心よりお待ちしております。ご健康にはお気をつけください」

 「ありがとうございます。友人に自慢します」

 そう言いながらオデットは小さな箱とそれを入れた小さな紙袋を下げて店を後にした。


 「(ニコラなら『買わずに損するより、買って損した方がかえってお得ですもの。いい買い物でしたわね~』なんて言うんだろうなあ……よかったって思おう。歳頃の女子としての仕事なんだこれは。そう思おう! さてどうしようかな……そういやお土産とか欲しいよなあ)」

  特に買いたいものが決まらず、無意識的に川辺を行き続けた結果気が付けば二番街と三番街の境へとやって来ていた。ここはいつぞやの紅茶店の前だった。

 「(そうだ『紅茶の買い出しもうすぐ行かなきゃ』ってミシェルさんが言ってた気がする)」

  談笑する貴婦人たちに交じってからんころんと鳴る扉が閉まる前にすり抜けると、いつもの香りがして落ち着いた。

 店主クリント・リッチカーンは別の客に付きっきりで、オデットの来店に気が付いていないようだった。何度かミシェルに同行したことがあるのだが、いつも気が付けば終わっていた。

 「(ええと、ポットの棚……あっ!)」

 ポットの中身を寸前で取られ無くなってしまったのだ。ふと棚を見るとミルクすらなかった。周りを見ても繁盛しており、そういえばそういった時間帯であったことに気が付く。

 「(いつも店先の掃除中に挨拶するくらいに行ってたからなあ……)」

 「あら、あなた……もしかしてミシェル様の部屋の……えーっと、オデット様ですか?」

 そう言われ振り返るとメイド服を着た使用人らしき女性が立っていた。オデットは名指しされ戸惑ったが、思い返せば数カ月前にミシェルがランプ街で事件に巻き込まれた時、モイラという女性がお見舞いに来ていたのを思い出した。

 「はい、オデットです。もしかして……もいらさんですか?」

 「あらあら、名前を憶えてくださったんですね。お久しゅうございますね、お買い物で?」

 「そうです……けど実はもう売り切れみたいで」

 「まあ! そうなんですか、それは不運でしたね。でしたらこちらをお分けしますよ!」

 「いいんですか!?」

 「ええ、だってミシェル様の為でもあるんですもの。むしろ本望ですわ」

 「た、確かに! ではお言葉に甘えて……」

 そうしてモイラは抱えていたバスケットからオレンジの皮や果肉、ミルク瓶や菓子まで分けてもらい、紙袋に入れてもらったのであった。

 「ルーナの茶葉とかって持っていたりしますか?」

 「ルーナ……? シュールズマン家の茶葉でなくて?」

 「はい、ルーナの茶葉です……ありませんか?」

 「そうなのね、お嬢様はご主人様の茶葉を……ええ残念ながらこのシュールズマン家の茶葉しか持っていないの。それでよければ渡してあげられるのだけれど……」

 「(確か、茶葉もなかったから……まあなんでもいいよな!)構いません! 是非いただけませんか? その、シュールズマン家の茶葉!」

 「え、ええ。はいどうぞ。ミシェルお嬢様によろしく伝えておいてくださいませ」

 「わかりました。なにからなにまでありがとうございます!」

 「いえいえ、では」

 そう言ってモイラは扉を開けてさっさと行ってしまった。オデットは様子を見て、クリントに挨拶をと思ったのだが、そういう余裕もなさそうであったためしばらくしてから店を出た。



    二  善と義



 合間をみて逃げるようにしてその店を出た。ほんの十数分のことながらオデットは酷く疲れていた。外は未だ人通りが多く、三番街からの往来が特に激しい。

 「(何かあったのかな……)」

 気になりつつも精神的疲労が溜まっていたためもう寮へと帰ろうとしたのだが、どすんと誰かと肩がぶつかったのであった。

 「おっと、すみません!」

 「ん? ああ、あなた……ミシェル・シュールズマンの照らし番ね」

 ギクッとした時には遅く、すでにグレイシアは目の前におり高めの位置から見下されていた。

 「ふーん、一人前にでもなったつもり? シュールズマンの御息女だかなんだか知らないけどどうせぬくぬく育ってきたんでしょ。部屋でも大変なんじゃないの? 接待とか!」

 高らかに笑うグレイシアに負けじとオデットは反論した。

 「そっちこそ、いちいちアリシアさんの顔色ばっかり見ていて窮屈そう!」

 「はあ!? なによ、ずっとシュールズマンの看板にすがってて恥ずかしくないのかしら!」

 「すがるも何も、ミシェルさんは私を対当に……」

 「お笑い! あなた冗談ジョークの才能あるみたいね。いい? 対当ってのは同じ境遇で初めて対当になるの。あなたの言っているのはただの接待! 忖度してるだけ!」

 「ぐ……(確かに足並みを揃えてくれてるというか、実力を合わせてるところはあるけど)」

 「ほうら、反論の余地なしね。所詮は足を引っ張り合って落ちて行くだけの部屋よ!」

 「それは季期テストでわかることです。私たちのカリキュラムに首を突っ込むような方々に、負ける気なんてさらさらしませんが!」

 「なっ! 言わせておけば……!」

 「それに、ちゃんと勉強は教えられてるんですか? 記憶が正しければアリシアさんに怒られている所しか見たことないのですが」

 「アリシアさん、アリシアさんって……いち照らし番風情が軽々しくアリシア様の名前を呼ぶんじゃないわよ!」

 そう叫ぶと周囲にいた通行人は野次馬へと変わり、反発する磁石のように二人の周りから人はいなくなってしまった。

 「あなたにアリシア様の苦悩の何をわかっていらして? あの方はずっと孤独に耐えてきた! (私たちと同じようにね……)ここいらで立場ってものをおく必要があるようねえ。二度と口答えできないようにしてあげる!」

 そう言うと蜘蛛の足の様に屈折した骨組みに水かきの様にてらてらとした生地の傘を取り出し光を集め始めた。その光の玉からはいつぞやにアリシアが出したような糸が紡がれており、徐々にこちらの方へと伸びてきていた。

 オデットは咄嗟の出来事にうまく反応できず荷物を抱えたまま傘を取り出す形となった。

 「その忌々しい香りの茶葉を、ここでぶちまけてあげるわ!」

 そういうとオデットの持つ紙袋に向かって糸が伸びてくる。それを傘を開いて防ぐとその糸は別の方へ飛んで行く。小さな悲鳴と共にそれを間一髪のところで避けた人々は散っていくことになった。しかし、それでもこの野次馬は減ることはなかった。何故なら非常に珍しかったからである。

 「(く……ここは足元を狙って隙を作ってでも逃げないと!」

 「小癪こしゃくね……次は外さないわよ!」


——「「そこまでよ」」


 二人の耳に声が届いた時には、それぞれ肩を掴まれ、そのまま引っ張られる。そして二人の前にはミシェル・シュールズマンとアリシア・フランソワーズがおり、対面していた。

 二人は特に何も言うことはなかったが、目を数秒間見つめた後に深々と頭を下げた。

 「あ、アリシア様、こんな奴に頭を下げる必要なんて……」

 「お黙りなさい!」

 「ひっ……」

 「ミシェルさん……」

 「オデット……恥を恥と知りなさい」

 振り返り、数歩前に出てそれぞれオデットとグレイシアの頬を叩いた。白い手袋のおかげでそこまで痛くはないはずなのに、二人の頬にはずっとその感触が残り続けていたのである。

 特に何か言うわけでもなくミシェルが歩き始めたのでオデットはそれについていった。

 道中一切喋ることが無かったため、曇天の日よりも空気は重く感じた。紙袋の擦れ合う音が歩くたびにするのであった。


 部屋へ入ると、外よりももっと静かだった。

 「あ、あの……ミシェルさん……?」

 「オデット、そこへ座りなさい」

 「は、はい!」

 「……いい? もう一度、よくよく私の言ったことを思い返してみるのね。あなたは賢いからきっとわかるはずよ。私は清論に乗っ取ってお風呂に入ってくるわ。あなたも身を雪ぐつもりで入ってらっしゃい」

 「はい。わかりました……」

 そういうと身支度をしさっさと行ってしまった。独り椅子に座らされたままのオデットは、移動する気力もなく、ただその場でじっとしていたのであった。

 いやに静かな頭の中では『恥を恥と知りなさい』という言葉が繰り返し響くのであった。


——ガチャ


 その静かな空間から一変し、扉からニコラが飛び出してきた。

 「ただいま帰りましたわ……ってあれ? 何かあったんですか? ミシェルさんは?」

 「ええっと、ミシェルさんはお風呂に。アタシは今……打ちひしがれてる」

 「打ち……? そうですの。大変でしたのね。あら買い出し行ってきてくださったんですの? ありがとうございます! ……それにいい香り! 自然の香りがこの辺りから漂ってきていますわ……くんくん……これは香水? いい香りですわ。オデットが選んだんですの?」

 「う、うん。ミシェルさんに『女子の勉強をしてこい』って。正直値は張ったけどね。感想を聞く暇もなかったよ」

 「あらそうですの。でしたら勉強はばっちりですわね! あら、お茶請けもありますわね! ここ最近は身だしなみもあって間食は控えるようにと言われていましたから、久しく見ていませんでしたわね! 寝る前に温かいものを頂きたいですわね~」

 オデットはまるでニコラで暖を取るように、感謝をするのであった。



    三  清(潔と生存率に関する)論



 正論。いや論とは、民間学者が提唱した「清潔と生存率に関する論文」のことである。

 いわく「清潔している人はそうでない人に比べ、鉱虫に狙われにくくなり数倍寿命が長くなる」とのこと。しかし、この論文には数多くのツッコミが入った。やれ「清潔に保つことで病にかかりにくくなるから寿命が長くなるのであって鉱虫は関係ない」だの、やれ「清潔にしていられる余裕がある人はそもそも死地へ赴くことが無い」だのと言われ、ふたつの意味で「正論」と呼ばれることになった。そんなとんでも論文も、清潔にしている方がいいとの認知が高まったため現在お風呂に関する商業が発展しているのもまた事実であった。一長一短である。

 ミシェルは道具一式を持ち、神妙な面持ちで湯のある大聖堂横の大浴場へと向かう。

 学院中、先生含め約三百程の人々が利用する大浴場だ。出入り自由で、ずっと沸き続ける湯がその華奢きゃしゃな身を癒すのである。

 「おお! ミシェルじゃないか! 奇遇だな! 一緒に入ろう!」

 アリギュラ先生であった。虫なのか土なのか、得も言われぬ臭いを放っていたので喜ばしいことではあるが、ミシェルにとってこの出会いは、ジャムを塗ったパンがその面を下に床へと着地するくらいに運が悪いことであった。

 「ああ、アリギュラ先生……せ、先生もお風呂へ?」

 「その通りだ! 来い、流してやる!」

 「いいえ、結構です。私は少し用事を思い出しましたので……」

 と言っているのにもかかわらず手を引っ張られ、凧のようになされるがまま連れていかれてしまったのであった。


 一方少し心に余裕ができたオデットは、ニコラと話しをしていたところであった。

 「なるほどそういったことがあったんですのね。災難でしたわね~」

 「本当にそう思ってるか?」

 「はい~」

 「はあ。まあいいや……それにしても『恥を恥と知る』ってなんだ?」

 「そうですわね、とっても難しいことですわ。何が恥ずべきことかを理解するってことでしょうか?」

 「アタシに聞かれても! ……と、まあ文字通りだったらそうだよな。はあ、考えとけっていってもなぁ」

 「ふふ、この先はご本人に伺いませんこと?」

 「はああ!? 今はちょっと、その……会えないって言うか……」

 罰が悪そうにするオデットの背中を押して部屋から追い出す。

 「ほうらほうら、大浴場にいるんですわよね。きっと素直に聞けば教えてくださいますわ! 咀嚼そしゃくしようとしたんですもの。わからないことを教えてくださるのがミシェルさんですのよ」

 「いやでも……って着替え!」

 「ちゃんとこちらに! さあさあ!」

 「いつの間に!!」

 こちらも凧のようにされるがまま大浴場へと向かっていると、扉を開けるより先に中から出てくる。ミシェルを小脇に抱えたアリギュラ・ディエルゴだった。

 「お、お前たちもお風呂か? いやあ気持ちいいぞ!」

 「あのぉ、ミシェルさんは今お元気ですか?」

 ニコラはアリギュラの脇に抱えられたミシェルを覗き込むようにしてそう尋ねた。

 「はっはっは! このざまだ! 逆上のぼせてしまったようだな!」

 「いやあっはっはじゃないですよ! 大丈夫なんですか!?」

 「ああ、問題はない! 少し冷ましてから部屋に送っておこう! すまないな!」

 「そんな人をスープみたいに……」

 唖然とするオデットはそう呟くも届くことは無く、アリギュラは行ってしまった。

 「しょうがありませんわね、もう少し二人で考えましょうか」

 「あ、ああ。うん」

 「どうしたんですの? 早く中に入りましょう?」


 大浴場内は人がおらず二人だけだった。少し散らかった後を見ると、アリギュラがいろいろと暴走したのだろうと簡単に推察できた。

 タオルを巻いた二人は湯けむりの中を進み、ちゃぽんと湯舟へと浸かった。

 「……それで、いろいろと考えたのですけれど、頭の重さかもしれませんわ」

 「頭の重さ?」

 「ええ。頭の重さは単に構造の問題という訳ではなく、貴族としての立場のことですわ……。例えば自分が下げた頭の価値とミシェルさんが下げた頭の価値はどちらが重いのでしょう?」

 「それは、ミシェルさんだな」

 「そうですわ。これは立場の観点から言えば至極当然。お家柄がありますから、束ねる側は、それはそれはたいそう重いと思いますの」

 「じゃあ相手に謝る頭を下げることが恥じってことか?」

 「それも、たぶん違います。ほら、初めて会った時『謝ることは恥ではない。過ちを認めないことが恥』と言っていたのを覚えておいでで?」

 「ああ。言っていた」

 オデットとニコラがアリシアの取り巻き的二人のグレイシアとモーリスに絡まれた時である。ミシェルが仲裁し、路地裏の小さな明かりの中で言われた時の言葉であった。

 「先に、謝るのが正解だったのかな」

 「いいえ、それも違うと思います。どうであれ経緯はあるものですし、聞いた状況なら致し方ありませんわ。しかし、もっと言えば回避できたかもしれない」

 「と、言うと?」

 「ミシェルさんは先々をみて決断する方ですし、人生経験は私たちとは違ったものを積んでおられるはずですわ。そういった厄介事を産まないようにする努力をしているのではないかと……思っただけです」

 「厄介事を産まない努力……」

 「ふう、私はこれで行きますわ。私も逆上せてしまうかもしれませんのでえ」

 「もうちょっと赤いぞ」

 「お気遣いなく~」

 そう言いながらふらふらと行ってしまった。が、入れ替わりで誰かが入って来たのである。


——あ!


 大浴場内に響き渡る二人の声、それはオデットとグレイシアのものであった。

 少し離れたところに済ました表情で浸かったグレイシアとの間に会話など生まれるわけもなくしばらく水が滴るだけの静かな空間であった。

 「……ごめん」

 「……は? な、何よ」

 「いや、別に」

 「……私の方こそ。ゴメンナサイ」

 「は? え今なんて?」

 「うっさいわね! ごーめーんーなーさーい! これでいいでしょ?」

 よく見るとグレイシアの頬は赤くなっており、目元も腫れていたことに気が付いた。

 「え、もしかして」

 「別に、泣いてなんかないわよ。これも……ちょっと逆上せてるだけ」

 「今入ったばっかりだろ!」

 「デリカシーとかないの!? 察しなさいよ馬鹿!」

 そう言いながら水を掛けあうと、やがて疲れて、再び静かになった。

 「はあ、どうせアンタ怒られたんでしょ?」

 「怒られてない」

 「ふーん。ま、いいけど…………アリシア様は小さな頃からお父上様から、酷い教育を受けていたのよ。名家に生まれてもなお、その地位に甘える隙の無いまま、ミシェル……もといシュールズマン家に抜かされ続け、あげく比較され続け……そんなアリシア様のお傍に居たいだけ」

 「そっか……でも、ミシェルさんは眼のかたきになんてしてないと思うけどな」

 「わかってるわよ、そんなこと」

 「わかってるのになんで……」

 声を遮るようにして立つと振り返ることなく、巻いたタオルの間から手袋を取り出した。

 そしてそれをオデットの方へと投げたのである……所謂「決闘」の申し込みの合図である。

 「これは……」

 「受け取りなさいよ、照ら……オデット!」

 「グレイシア……」

 「せいぜい季期テストで泣く事ね! 負けた方は永遠に敬語だからね!!」

 返事を待っていると背後からばしゃんと水が飛んできた。

 「きゃあ! な、なにをするのよ!」

 「いや? 目を見て言わないとなって思って」

 そういうグレイシアとオデットは眼が合っており、オデットの手には水に濡れた手袋が握られていたのであった。

 「アタシも、絶対に負けないから!」

 「ふん、生意気言っていられるのも今の内なんだから!」

 そうして二人は時間差で大浴場を後にしたのであった。


 部屋へ戻るとニコラとミシェルが居た。ミシェルはニコラに仰がれており、くったりとソファに横たわっていた。

 「ただいま戻りました」

 「おかえりなさい、オデット」

 「……」

 「み、ミシェルさん……大丈夫ですか?」

 「ええ。みっともない姿を……私の方こそ、恥を知ったほうがいいかもしれないわね……」

 「あはは、えーとアタシ、なんとなくわかりましたよ。恥のこと!」

 「そう。なら……」

 そう言うとニコラの手を支えに、ゆっくりと上体を起こした。

 「示して見せなさい」

 「はい! 季期テストで!」

 「……上出来よ」

 「えへへ、紅茶でも淹れますよ!」

 「い、いいわよ私は別に……」

 「いいから!」

 圧倒されるミシェルと微笑んだ様子で見守るニコラ。やがてたどたどしくもオデットの淹れた紅茶が出されるのである。辺りにはルーナとは違った、人工的な花の香りとも言えるような匂いがぶわっと漂い、瞬く間に部屋を包んだ。

 「良い香りですわね~。ルーナの茶葉ではなさそうですが、これはこれでいいかも」

 「……これ、シュールズマン家の茶葉ね? 一体どこから……」

 「モイラさんです! ばったり会って、その時に」

 「きつく言った方がいいわね……モイラったら……」

 「ほうら、全然飲んでないんですよね? 今飲んだら味が変わってるかも!」

 「そんなわけないでしょう!? 味なんてそうそう変わるわけ……」

 「うぐん……ん……これ美味しいですわよ! ルーナもミルクティーも良いのですがこちらもあっさりしていて、美味しいですわ~」

 「な! いいから、ミシェルさんもほら!」

 「う、うぐ……ん……ん……」

 ミシェルは確かに、と違った味わいがあることに驚きを禁じ得なかった。

 「確かに、悪くは……ないわね」

 そう言いながら確かに満更でもない様子のミシェルをみてオデットは微笑んでいた。

 「(本当に、悪くはない……むしろ……なぜ?)」

 「お茶菓子もありますわよ~」

 「おかわりもあります!」

 「(ああ、なるほど……この子達のおかげなのね……)」

 「オデット私……」

 「なに弱気になってるんですか。この件に関しては季期テストで、です!」

 「そう、ね……オデットも言うようになったわね」

 「それはずっと前からではありませんこと?」

 「それもそうね」

 ニコラとミシェルが笑い合うと、オデットは頬を膨らませながら間に割って入った。

 ミシェルは熱くなった頭を手で仰いだのであった。

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