第六話「灰かぶり舞踏会 ‐ 後」
一 魔法使い
「アリシア! どうしてこんな簡単な事ひとつできない!」
怒りのみが含まれた言葉がアリシアの耳元で叫ぶように発された。
「ごめ、ご、ごめんなさ……」
アリシアの父親パトリシア・フランソワーズは彼女が言い終える前に扉を出ていった。
溜まった涙でかぶれた
アリシアは生まれつき拘束系の魔法しか会得できず、かといって子宝に恵まれなかった哀れなフランソワーズ家は「五輝族」の栄誉ある冠を保持するために躍起になっていた。
特にパトリシアは一家一族の
そんな彼は漏れなく実の娘のアリシアにも完璧を求めたのだ。
教育というものは不思議なものでアリシアはパトリシア同様完璧な淑女となった。が、それが呪縛となり、アリシア自身もまた不出来な自分に嫌気がさしていたのだった。
床に伸びた華奢な指や肌が涙を僅かに吸い取りあとは蒸発するのを待つだけだ。
しかし、それを見届けるほどの時間は残っていない。彼女はこの後、一対一で教師と勉強することになっている。すでにその歳頃の教養は群を抜けており、いずれ王族に嫁ぐためにたっぷりと力を付けていた。実に現在から十年前の記憶である。
そんな自虐的な毎日を過ごしながらも、アリシアはとある少女と出会った。
といっても差は一歳のみだったが、九歳分の一と九十歳分の一ではその大きさは密度が違う。その一歳の差は彼女にとって大きく、実の妹のような存在だったのだ。名はミシェルと言った。
ミシェルはシュールズマン家の一人娘であり、ほとんどアリシアと境遇は同じであった。
「『貴族の手本もまた、貴族也』よ! 私の後ろにでも隠れてしっかり見ていなさい!」
何をするにしても手本は率先してアリシアが請け負い、ミシェルはそれを見て習っていた。
「やれるものならやってみろ」というアリシアのいたずらに近い意地悪をミシェルはその度に超えてきた。そうしていくうちに若かりしアリシアに眠っていた母性に寄った指導、成長していく過程を見守る楽しさを密かに培ってきていた。
しかし、その崩壊は突如訪れる。
ある地点まで成長したミシェルは突然にその知識や力が飛躍的に上昇したのだ。それはつまりアリシアを超えたのだ。いつの間にかアリシアができない事がミシェルにはできるようになり、その歳ながらにすでに「集光魔法」「屈折魔法」「引寄魔法」の三つを会得していた。
アリシアは「拘束魔法」のひとつだけであったが、そういう授業の時は苦し紛れにそれを応用しているに過ぎなかった。それでも十分に優秀ではあるのだが優秀なだけでは意味がなかった。
ただ一方的に気まずくなったアリシアからミシェル・シュールズマンを避けるようになった。
そうして時が流れ、
そこでもアリシアは優秀の座を揺るがすことなく、ほとんど順調に歩みを進めた。
そうして後進が二人、アリシアの部屋に入ってくることとなる。最初は一人部屋を希望していたのだが、学院きっての願いであったことと、遠回しなフランソワーズ家の命令であったため、最初こそ一人だったがやがて部屋に入れることを許可した。
それがグレイシア・マドリードと、モーリス・ヒルデガルドであった。
学院の
そんな二人は冷たくあしらおうと、実力差がどれだけあろうと決して離れようとしなかった。
フランソワーズの「虫狩りの蜘蛛の紋」に相応しい執念を持ち合わせていたのだ。
そんなタイミングでミシェルも入学を果たした。名前を聞かない日はないほどに学院中に広まっている。相当な実力者として上級生は貴族としても学友としてもピリ付いていた。
グレイシアもモーリスも決して引けを取らない程に成長している。それはかつて培われた後進育成の経験が功を奏してちゃんと実感していたが、またもそれを上回る速度でミシェルの部屋に入ったニコラ・ウォールディンとオデット・アマンベイルが成長を遂げていた。
成長の下地が出来上がったのはたった数日だった。ランプ街で起きた「虫との対当」には学院中で騒ぎとなった。それは入学時などとは比べ物にならなかった。
普通、人生で虫と対当する機会があるかと言えば
高等部に進出して間もなくそんな事件が起きた。そして当時、その場にアリシアは二人を連れていた。「安全を確保するため」と自分に言い聞かせていても、逃げたことに変わりはない。
唯一、完璧な彼女がその時に情けない姿を晒したのだ。それからアリシアは元気がなかった。
まるで鏡映しのようにグレイシアとモーリスがその嫉妬を肩代わりし、八つ当たりをする。
感謝に似た
――『劣等を抱いているなら、
ミシェルの言葉がずしんと響く。それは下腹部の肉がすっかり空いて代わりに鉛を入られたかのように重く圧し掛かった。
「(わかっているわよ。そのくらい……)」
目を閉じてそんな回想をする。目を開ける。そこはダンスホールの会場であり過去ではない。
しかし今も変わらず劣等感と自虐は変わっていない。
彼女はただじっと、凛として待っているのだ……舞踏に誘われることを。ミシェルの華麗なるダンスを見ながら、ひとり座っているのであった。
「(早く立てよ……無礼でここから追い出せるのに)」
視線という名の槍が椅子を貫いて、まるで釘ように動けなくさせる。
「(なぜ招待されたのかしら。よりによってミシェル様と……自分の能力や地位を未だに理解してらっしゃらないのかしら)」
嘲笑という名の矢が手や足を貫いて
「(どうせ『名家だから誘われて当然』とか思ってるんでしょう? 誰も誘わないわよ)」
優雅に舞踏するミシェルに嫉妬する。そんな自分に嫉妬する。目線が泳ぎ、顔が熱くなる。
「(おお、これは立つぞ! 誰か、誰か警護を呼んでくれ!)」
アリシアはもう無礼だろうが失礼だろうが「一家の名」との天秤に負けようとしていた。
目を伏せ意を決した時……少し沈んだ目線の先に手のひらがそこにあった。すぐ顔を上げる。
「
その言葉でつっかえが簡単に取れた。鉛のような身体は転じて風船のように軽くなっていた。
薄っすら赤くなった目でアリシアはオデットの手を取ったのであった。
二 鐘の音は十二時に鳴るか
しっとりとした霧雨は降雨に代わって、ちょうど入城を果たしたミシェル一行らは濡れることなく、目的地にたどり着くことができたのだ。
フランソワーズは先に入ってしまったが、ミシェルはニコラとオデットに話をする。
「ダンスホール内ではマナー的に喋ることができないから、その分ちゃんと私やアリシアを見ていること。いい?」
そういうとオデットは当然のように疑問符を浮かべるも、ミシェルには既にわかっていた。
「
「うげえ」
「『うげえ』じゃないの。そういうものなのよ。何かあったらすぐに駆け付けなさい」
ニコラとオデットが頷くとミシェルと共に入っていった。そしてミシェルは真っ先に近い所にある椅子の群の内のひとつに座った。そこにはアリシアも座っていたのであった。
座ってすぐにミシェルは身なりの小奇麗な年上の男性に「
しばらく見ていると、先に来たアリシアがいつまで経っても、誰からも誘われていなかった。その間にミシェルは六回も誘われているというのに。オデットはそれが明らかに故意であることが分かるとさらにむすっとしたのだった。
オデットがイライラしているとニコラは背中をぽんと押した。そして目で合図したのだ。
その意図を理解すると、一回頷いてから歩み寄った。
「
アリシアはすぐに手を取ってオデットと共に中央へと向かった。
ニコラがその様子をニコニコしながら見ていると舞踏を終えたミシェルが椅子へと戻った。
「オデットに……あとで言っておかなくちゃね」
「あら、何をですの?」
「誘い方よ」
「ふふふ」
「ニコラ、少しだけ外すわ……ああ、ついてこなくてもいいわよ、髪型を直したいだけなの。男性陣にはそれとなく言っておいて頂戴」
「はい、わかりました」
そうしてミシェルは扉を出て行ってしまった。その時、アリシアとオデットが帰ってくる。
「おかえりなさいオデット。おかえりなさいアリシア様。素晴らしい舞踏でしたわ」
「ありがと、ニコラもありがとうな……すっきりした!」
「何が『すっきりした』よ。余計なお世話を焼いてくれたわね」
「あらあら、その割には頬が緩んでいますが……」
「うう、うっさい! ちょ、ちょっと席を外すから良きようにやって頂戴」
その様子に今に悪態を吐きそうにチラチラ伺っている参加者を見てオデットはご満悦だった。
しばらくするとミシェルが帰って来た。
ニコラがそれを見て「おかえりなさい」と言おうとしたのだが、その前にすぐさまぎらついた若い男性が探していたと言わんばかりにニヤついた顔で舞踏に誘う。
「
手を取ることで反応するミシェルはそうして舞踏へと向かった。
「相変わらず凄いな……もう何人と踊ってるんだ? 足が取れちゃうよ」
ミシェルは次から次へと誘いに乗っている。アピールの為なのか身なりだけの礼儀無し男だ。そうした男たちに全く顔色変えずにただ静かに舞踏をしていたのであった。
「あぁあ、あの人……ミシェルさんにリードされてるよ」
「本当ですわね~」
そんなどっちがリードする側かもわからない舞踏を十数回したところで異変に気が付いた。
「なあ、ニコラ……こういうもんなのか?」
明らかに舞踏が途切れないのである。現に今の一度も椅子に座れた所を見ていない。
「たぶん、おかしい……のかしら。それとも余計な力を抜くコツがあったりするのかしら?」
「それにしたって、おかしくないか?」
「確かに、一応止めた方がいいかもしませんわね」
そうしてちょうど舞踏が終わって行こうとした時、周囲の参加者が一斉に舞踏を止めた。
「時間だ」
参加者の一人がそう言ったのをニコラとオデットは確かに聞いていた。
女性陣は全ていつの間にか椅子に座っており、中央には男性陣が集まり、その中心にミシェルが位置する状況だ。女性らはスカートに仕込まれた小さな杖を取り出すと男性陣に投げた。
それは空中でシャッと伸び、見事にキャッチした。そうして無防備極まりないミシェルにそのステッキの先を向けたのであった。
「ち、近づけない。遅かった……!」
「ミシェル・シュールズマン。残念ながらここで始末させていただく」
「始末!?」
ニコラとオデットは向かおうとしたのだが、女性参加者らが複数人で二人の腕を掴んでおり、身動きが取れなくなっていた。
「さらばだ。君のお父様にはよろしく伝えておくよ」
「ミシェルさん!」
各男性らの杖からは光が集まっていた。そこにいる三人を除いた皆が口角を上げていた。
ミシェルは突如しゃがんだ。
床に手を伸ばすと空中をグイッと掴み持ち上げたのである。そうすると周囲の男性らがまるで
ニコラとオデットは口を開けてその光景を見ていた。そして、それでようやっとミシェルの様子がおかしいことに気が付いたのであった。
三 魔法の溶ける時
宙吊りになった男性らが空中でもがいていた。
「どどど、どういうことだ!?」
「待たせたわね、生きてる?」
唖然とするニコラとオデットの背後から聞きなれた声がした。ミシェルの声であった。
「ミシェルさん!? どういう、あそこにミシェルさんが……」
「遅かったわね。流石に踊り疲れたわよ……」
握っていたぱっと手を離すとその蝶のような意匠の施された仮面を取った。その仮面の奥にはアリシア・フランソワーズの顔があったのだ。
なお宙吊りの男性らは地面にたたきつけられて伸びていた。
「アリシアさん!?」
「どうして、って顔をしているわね。ま……どうせそんなことだろうと思ったわよ」
「アリシアにはちょっと手伝っても貰ってたのよ」
「『いただいていた』でなくて?」
「これは失礼したわ、アリシア・フランソワーズ様。そんなことより、今はここから早く逃げるわよ。帰りの馬車で
「逃がすな……ミシェル・シュールズマンを……逃がすなぁっ!」
倒れて動けそうにない男が息も絶え絶えでそういうも、アリシアが優雅に歩み寄ってから杖を奪い取った。カンッと小気味の良い音を立ててその男の顔の真横で突き降ろされた。
「ミシェルにするのであれば、私にも同じことをしてごらんなさい」
「そ、それは……」
女性陣はそれを見て、逃げるようにしてその場を去っていった。
「私たちも早く行くわよ!」
そうして言われるがまま異様な光景をそのままにニコラもオデットもミシェルについて行く。
アリシアもその場を去ろうとした時、言葉を残した。
「あ、そうだ。今回は
皆が薄ら開いた目に写るようにカーテシーをすると、部屋を出るまでゆっくりと歩いた。
四人が部屋を出ると、正面入り口の方で叫び声が聞こえる。
驚くことに城常駐の近衛兵に拘束、切りつけられているようであった。
「な、なにをして!」
アリシアがそう声を荒げて止めようとしたところで、ミシェルが慌てて口を塞いだ。
「~~!!」
「落ち着いて! 私たちはお父様に嵌められたのよ。今はあっちに逃げるわよ」
そうして一行は二階への階段へと登って行った。
「こ、近衛兵に見つかったら大ごとですよ!」
「今は下に集まっているから大丈夫」
二階へ行くと目的があるのかないのか、真っすぐに向かうミシェル。ニコラは聞いた。
「これは……どこへ向かっていますの? 逃げるんですのよね?」
「ええ、その通りよ。ただし、ここからね」
そういうと突き当りにある窓を開けた。風が入り火照った身体に涼しい風が吹き抜ける。
「正気!? あなた、私にここまでさせて置いて死ねって言うの!?」
「アリシア落ち着いて! しょうがないのよ。それにこの下にはちゃんと緩衝してくれるものがあるから大丈夫よ」
「なによそれ!」
「牧草の束」
「ふざけないで!」
「まあまあ二人とも、ちょっと落ち着いてくださいよ……」
「落ち着けるわけないでしょ!? っていうかなんであなた達は普通なわけ!?」
ニコラとオデットは苦笑いをしていた。
「(そういえばつい最近、暴走する馬から飛び降りましたわね)」
「(そういえばついさっき、馭者に代わって崩壊寸前の馬車を操作したなあ)」
「……とにかく今はそうこう言ってられないの。さっきも見たでしょう? ぐずぐずしていると近衛兵が口封じに来るわよ」
「ぐ……っ! し、しようがないわね。ちょっと、オデットっていったかしら? あなた先に行きなさい。そして下で私を受け止めて頂戴」
「はあ!? あ、アタシが!? いやまあいいですけど……文句言わないでくださいよ?」
「い、言うわけないじゃない。私が指名したんだから」
「はいはい、早くして」
そういうとオデットは
そうして下で手を広げて待った。アリシアはドレスをなるべくたくし上げて足を外にして窓辺に座った。息を飲んで「ちゃんと受け止めるのよ」と二回念を押して飛び降りた。
オデットは予想以上の軽さに逆に力が入ってしまった。
「痛っ」
「ああ、ごめんなさい!」
「い、いえ良いの。ありがとうオデット」
そういいながらもなぜかそっぽ向くアリシア。それに続いてニコラ、ミシェルと飛び込んだ。慣れているかのように綺麗に飛び降りた二人はアリシアとオデット無事合流したのであった。
「こっちに馬車があるの。国のだけれど、まあなんとかなるでしょう」
「なるかしら?」
「だってアリシアがいるじゃない」
「!!」
アリシアは一回咳払いをすると馬車の方へと向かった。
「アリシア、そっちじゃないわ。こっちよ」
無言でミシェルの指さす方へと向かった。程なくして一行は馬車のある場所へと向かった。
「オデット、馬房に行って馬を馬車と繋ぐことはできる? まあ、できなくてもあなたにしか頼めないのだけれど」
「安心してください、アタシできますから」
そう言うとササっと馬房へと向かった。
「アリシアとニコラは先に入っていて。私は脱出の道を探すから」
「大丈夫ですの?」
「ええ、こういうのは慣れっこなの」
「わかりましたわ。お気をつけて」
そう言うとミシェルは行ってしまった。
「ちょっと、ニコラと言ったかしら」
「はい。ニコラですわ」
「質問があるのだけれど。ミシェルにどんな印象を持っているか正直に話してごらんなさい」
「あら、そうですわね~、ミシェルさんはとても優しくて、いつも私たちの事を気にかけてくださる方ですわ。貴族の何たるかを教えていただいておりますの」
「そう。ならいいの」
「(相変わらずね……)」
しばらくの木々のざわめきが馬車内を支配すると、オデットが顔を覗かせてきた。
「準備出来ました……って、まだミシェルさんは帰ってきてないんですね」
「あの、オデット……その……」
「なんです?」
「ごめんなさい」
「へ? なんですか急に」
「いやその……初めて会った時、随分酷いことをしてしまったから」
アリシアはオデットの日焼け跡を馬鹿にした上でグラスを割ろうとしたのである。
「ああ、そのことですか。いいですよ、別に」
「本当?」
「ふっはは……! アリシア様ってそんな顔するんですね! 大丈夫です、さっき踊った時にばっちり伝わりましたから」
ぷいっとそっぽ向くと背後からミシェルの声がした。
「ああ、オデット場所が分かったわ。中から指示するから馭者をお願い」
「はい、わかりました!」
そう言うと、オデットはすぐさま手綱を握った。ミシェルは中に入ると扉を閉めた。
オデットがそれを確認すると馬を走らせた。
「ひとまずは道なりよ!」
「その後は……!」
「正面突破!」
「は!?」
一同の
「馬車は王室が入るような頑丈な走行車両だから近衛兵の一人や二人、大丈夫でしょう」
「んなむちゃな……とはいえやるしかない!」
オデットは手綱を振るうと馬車に勢いを付けさせた。その場に居た近衛兵は馬車を見つけたが避けない。決して動かない。それがアウトグランの近衛兵なのだ。
「ちょっと、どいて! どいてってば! く……少し揺れますよ!」
三人は手すりに掴まると、何度も揺れた。そして一際大きな揺れが皆を襲う。
オデットは正面の門を華麗に駆け抜けたのだった。近衛兵は避けなかったが、間一髪でひかずに避けることができたのであった。そして喜々として声をかけた。中から声がする。
「いけました! 突破しましたよ!」
「良かった……なんとかいけましたわね……ミシェルさんもアリシア様も大丈夫で?」
「ええ、私は大丈夫よ。アリシアは大丈夫?」
「大丈夫……じゃないわよ! オデット!」
「ええアタシ!?」
「お尻に感じたことのない痛みがするのだけれど、どう責任を取っていただけるのかしら!」
「そんなお尻くらいで」
「はあ!? 私はあなたよりどれだけ偉いと思っているのよ!」
「そんなお尻くらいで」
「ミシェルまで!」
「治して差し上げましょうか?」
「ちょっと、何よその手つき……やだ、ちょ」
その後中から何かが聞こえることはなく、次に会話があったのは帰路の中であった。
四 ガラスは割れる
霧雨が弱まり再び霧になった帰りの道中、車輪がきっちり平行に取り付けられた馬車は車体との間にあるバネによってその小さな衝撃の一切を逃がしていた。
「それで、お二人はなぜ入れ替わったのですか?」
「あ、それアタシも聞きたい!」
「そうね……それについて話していなかったわね。どこから話そうかしら……ダンスホールで踊った時、明らかに怪しい見たことのない方と組んだのよ。ぎこちない動きをしていてね。その方が親切に私に耳打ちしてくれたのよ『君は狙われている』ってね」
「そんな人いたかしら?」
「明らかに動きが、その……ぎこちなかったのよ。とにかく。まあそれでいろいろ思い当たることがあったからひとまず人目を離れたの。でどうしようか考えあぐねていたところにアリシアがやってきたというわけね。で提案をしたの」
「なあにが『提案をしたの』よ。髪型からふ、服まで全部その場で替えたんだから。まったく私がドレスの着付けを知らなかったらどうするつもりだったのかしら!」
「いいじゃない結果的には上手く事が運んだのだから。着替えが済んでからはアリシアは私の代わりに、私はアリシアとして城をくまなく探索できたという訳ね」
「そ、そんなにアリシア様は偉いんですか?」
「あなたね、本人を前にしてそれを聞くのかしら? まあいいわ、私もおかしいと思うから。悔しいけど貴族から見て偉いのはどちらかと言えばミシェルの方よ。一見してミシェルは引く手あまただった。けれどまるで休ませる気のない舞踏でもあった。入れ替わってなければ体力尽きてるわよ……あんなの。踊も下手だったし」
「私の方はと言えばむしろ動きやすかったわ。むしろ無警戒にも程があるくらいにはね」
「ミシェルのおかげで最初から警戒できたから、少しずつ糸を巡らせておいたのよ。大正解だったわね。私、正確には扮したミシェルがしばらく帰ってこないことを誰かが告げたんでしょう。で、始末しようとしたわけ」
「あなたでよかったわ」
「お世辞でも嬉しいわ」
「どういたしまして」
「まあまあ」
「まあとにかく参加者全員が共犯であることは明確。『ミシェルを逃がすな』という言葉……そして私と相対した時の
――ドン!
車体が大きく揺れた。しかし分厚い窓からは外の様子を伺い知ることができない。
「オデット、なにがあったの?」
「む、虫です。霧でよく見えないけど、なにか……飛んでます!」
――ドン!
不慣れなアリシアの
「もう、どうにかしなさいよ!」
ミシェルはすぐさま扉を開けてオデットに呼びかける。
「オデット、私の手を取れる?」
「は、はい!」
手をぐいっと引っ張り馭者の椅子までやってきたミシェルはオデットから手綱を受け取った。
「オデット、私を守って。あれが偶然でないなら私が狙いよ」
「任せてください!」
オデットは傘を構える。狙いは付け辛いものの、集中すれば霧中でも十分に見えるくらいには視力が良いのだ。
「速度を上げても二十分よ。持ちこたえれば勝ち!」
「……わかりませんがとにかくなんとかなるんですね?」
言い終わるや否や容赦なく攻撃が飛んでくる。それをオデットはすかさず反応し、逸らした。
「二十分、もう少し早くはならないですよね?」
「残念だけど」
「わかりました!」
いくら経ったのか、オデットの体感ではすでに三十分を越えていた。
「まだですか?!」
「あと少しよ!」
この問答も五回目であった。周囲の光景は変わっているものの、一向に光は見えない。
「一体どこに向かってるんですか!?」
――ドン!
オデットが庇い切れない範囲の攻撃も当ててきている。それは車体を徐々に消耗させていた。
「お二方、さすがにもうそろそろ壊れてしまいますわ!」
「(でもやっぱりおかしいわ、
頭の中で一瞬だけランプ街で虫にやられていたブロアを思い出していた。
「(まさか、とも言えないのかしら。そういうことがあるのかしら)」
「ミシェルさん前!」
危うく大木にぶつかるところだったミシェルはそのまま森の中を突っ込んでいく。
「み、ミシェルさんこれは想定内ですか!?」
「もちろん。ちょっとは信用しなさい!」
「いやこれでも信用してるんですが!」
――ガタンガタンガタン!!
道なき道、そして長きにわたる攻撃に耐えた車体も相まって揺れは激しさを一層増した。
中からアリシアの聖書の一説が聞こえてくる。
「ああんもう、うるさいわね!」
森の中に入ると攻撃の頻度はそう多くはなくなったが、状況はあまり良くなかった。
虫は上空から被害そっちのけで攻撃し始めたのだった。
「ミシェルさん、火の粉が……! さすがに避けきれません!」
馬は驚きすでに手綱どうこうの話ではなくなっていた。応戦はできないと判断したオデットはミシェルと共に荒ぶる手綱を握った。
「もう、無理かも……」
その時、開けた場所に出た。そこはオデットたちからすれば見慣れた場所である。
「後は任せな!」
荒れる馬車の横を人影が通りかかる。そしてその人物は傘の持ちてを器用に枝に引っ掛けて、ひょいひょいと登っていき、あっという間に木の上までたどり着いた。
そしてそのまま傘から出た鞭のような光が虫の足に引っかかったのである。
そこからは一瞬であった。地面にたたきつけるとその光の線を伝ってその傘の石突が勢いよく突き刺さった。爆発に近い轟音を立てて虫は確実に逝ったのだった。
暴走する馬はやがて疲れて歩みを止め、その頃相を見計らい諸々を切り離した。
ミシェルとオデットは互いに抱き合うように支え合った。緊張の糸が緩んだのだ。
少しの間動けなかったが、ミシェルはアリシアとニコラの様子が気になったため扉を開けた。
「ええと、なにしてるの?」
ニコラはアリシアを膝の上に乗せ、アリシアはというと両手を組み合わせて祈っていた。
「あら、ミシェルさん~。アリシア様……アリシア様、もう終わったみたいですわよ」
そう言われるとバッと立ち上がって手で顔を仰いだ。
「ありがとう、ニコラ。いい仕事をしていたわよ」
「ええと、まあ無事だったらいいのだけれど……」
「お前たち、大丈夫かー!」
走って来たのはアリギュラ・ディエルゴだった。アリギュラは傘に突き刺さった虫をそのまま引きずっている。虫からは時折液体を吹き出していた。
ミシェルの顔が引きつっていると一方で馬車からオデットと二人が下りてきた。
「ミシェルさんが向かっていたところってここだったんですね」
「ええ、ここが一番安全よ。いろいろと」
「!!!!」
アリギュラがその言葉を聞くと、持っていた傘をボトリと落として手をわなわなさせながら、そして目を輝かせながらミシェルに力いっぱい抱き着いた。
「ミシェルがそんなことを思ってくれていたなんて……アタシは、アタシは感動したぞ!!」
ぶんぶん振り回されているミシェルを後目にオデットの後ろにアリシアは静かに隠れていた。
「お、見慣れない顔だな。っと……なんだどこかで見たことあるような……?」
「アリギュラ先生、この方はアリシア様ですわ」
「アリシア……アリシア……ああ! フランソワーズのぼんぼんか!」
「ぼん……!?」
「大きくなったな!」
「お、お久しぶりです」
「アリギュラさん、あの……そろそろいいかしら」
「ああすまん! しかし、王家の紋が入った馬車に虫とは、一体何があったんだ。そういえばドレスだし……結婚か!?」
「違いますし、それに関しては話せば長くなるのですが、ひとまず私が消されかけましたの」
「な、なんだって!? 無事なのか!」
「見ての通りです。ともかく、いくつかお聞きしたいことがあります。が、とりあえず報告しなければならないので学院までいかなければなりません。先生を見込んでお願いがあります。私たちを学院まで送り届けてくださいまし」
見込んで、のあたりで手ごたえを感じたミシェルは裾の誇りを払っていた。もちろん、お世辞にもお願いをする態度ではなかったが、それほど手ごたえを感じたのだ。
「おお、そんなことくらいならいいぞ! アタシもちょうど学院にいかなきゃならない用事があったからな! 大船に乗ったつもりでついてくると良い!」
そうして一行は大手を振って歩くアリギュラに着いていったのであった。
一同はこの上ない安心感を携えていたのであった。
五 陰謀とその後
「馬鹿者!」
女王のその怒号はシャンデリアをも揺らし、窓をガタガタと言わせた。握った手と震える足は怒りを表現するに充分であった。
「あれを逃がしたとは!」
「すみません、次はしっかりと……」
「次などあると思うてか! 連れていけ!」
もがく
「セインのやつめ……
――失敗したの?
誰もいないはずの
女王は怒りとは違う震えを覚えていた。
「ご、ごめんなさいお姉さま……違うのこれは」
――看過できないのは、わかるわね?
「ひぃ、ゆゆ、許してくださいお姉さまぁっ!」
――あなたは身内、だからこそ次はないからね
張りつめた空間が「いなくなった」と語るように、落ち着きを取り戻した。
心臓を抑えた女王は懐から取り出した薬を飲んだ。息を整えると口を曲げた。
「次は、失敗、できない」
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