第二十四話「愚者の月 ‐ 前」

    一  月の軌道



 アウトグランの大地の中にある小高い山にある隠れた小屋。降りしきる雨の重さで沈んだ屋根が鬱蒼とした不気味な蔦に支えられて、すっかり自然に溶け込んでいる。

 ただ多少生き物の気配がする程度の生活感のまるでない小屋の中に一人の天才がいた。


——ばふっ、ばふっ


 ふさふさの名犬ムーンがティーポットから立ち上る湯気の様子をご主人に伝えるべく、重い扉の取っ手に手を引っかけ器用に開けた。

 足元にすり寄るとその青年は片手を犬に掛けられた紐を探り持った。

 「ありがとうムーン……つい没頭してしまうね。良い閃きに恵まれてからぶっ通しで作業をしてしまったよ。いやはや、この世に君と魔法があって良かった。感謝しているよ。目が開けられたらもっと感謝できたんだけどね」

 「ばうふ、ばふ」

 「おっと、僕はまだモテているようだ。なんてったってティーポットと君から引っ張りだこだからね」

 犬の先導に従い、台所の前に立ちいつものように魔法を使って遠隔的に操作する。

 「牛乳、どこだっけね……」

 その青年の袖を掴み誘導する。そしてお皿を口にくわえてそれを淹れてもらう。

 「偉いねぇムーンは。君がいないとこうして食事すらとれないようだ。君もまた、僕がいないといけないとは思うが……どうだろうね、僕についていても利益はあまりなさそうだが……そこのところ、君はどう思っているのかな?」

 「ばふばふ、ふばふばう」

 「そうかそうか、嬉しい限りだ」


——りんりんりん


 「おやおや、家政婦メイドさんかな……君には逃げておくことをお勧めするよ、ムーン」

 「あらあらもうもう、クレディオ様……暗いですわ!」

 小太りで短く巻かれた髪を小さく揺らしながらかばんを置き、吊り下げられた家政婦用ランプを点ける。

 「時に君、ええと」

 「ギュベラにございます」

 「ああ、ギュベラ君。君は上にある月がどう見える?」

 「どうって……まあ綺麗ですね」

 「私の式が正しければ、あの月と呼ばれる星は動き続けているはずだ。くるくるとね」

 「くるくる……まあ確かにあの辺で円を描いていますが」

 「見えなくなる瞬間は?」

 「? ありませんよ」

 「やはり。ありがとう……今日は豪勢に肉にしたいね」

 「あらご主人様はてっきり菜食家かと……」

 辺りの生い茂る蔦や苔を見ながらそういったが、幸いにもクレディオにそれは伝わらない。

 「なにを、嬉しい時には食べるんだ。ただ、まあ最近は嬉しくなかっただけで」

 「そうですか……ではお代を」

 「そこの棚に」

 「はいはい」

 そうしてギュベラは指定された棚の引き出しを開けるとたんまりとお金が入っていた。それを多めにしようとしたところを犬に吠えられた。

 頓狂とんきょうな声をあげるギュベラに、クレディオは吊り上がろうとする口角を下げようとする。

 「うちの用心棒は心強いんでね……それで、いつもの娘はどうしたのかな?」

 「さあ、体調が悪いんですって!」

 「君は悪くないのかい?」

 「今さっき、悪くなりました!」

 どたんと音を立てて閉まる扉。この静まり返る小屋の中にはばうふと鳴く犬の声と、紅茶の香りでいっぱいだった。

 「ああ、時にムーンよ。彼女は果たして買ってくるだろうか……はっはっは、流石の私でも、それは計算できないさ」



 ローゼンドーン二一番地の大通り沿い、そこら中から警鐘を鳴らす車が行きかう不穏な街となってしまったが、それはそれとして生活には外出が不可欠である。故に行きかう人の量も相変わらず多いのであった。

 「お使いを頼まれるの、何回目かしら……まあ心得のある私が行く方が安心と言えば安心だけれど、良いように使われている感じがして何か嫌ね……いつか会えたらモイラに謝っておきましょう。新聞屋、新聞屋は……と」

 独り言を呟きながら歩くミシェルは懐に黒猫、もといイフリートを抱えて歩いていた。この人の多さでミシェルの声を聞くことができるのはこの猫くらいだろう。

 「きゃっ」

 往来する人だかりの中の、割と大きい体格の女性が急いでいたのかぶつかって来た。華奢なミシェルは尻餅をついてしまう。対する大きい女性はわざとらしくしゃがみ、あたかもかのように振る舞う。

 「ちょ、ちょっと前を向いて歩きなさいよ! 怪我でもしたらどうすんのよ!」

 「ご、ごめんなさい」

 「え? なんて!? あんた声小さいのよ。後、これ落としたわよ!」

 まくし立てる彼女に圧倒され、落としてもいない紙の束を押し付けられる。

 「な、こ……これ」

 ローゼンドーンの大聖堂にて、魔女として死んだことになっているが為にあまり声の出せないミシェルは一瞬の躊躇ためらいによってその人物を取り逃してしまった。

 「(これは、お金!? ……と紙?)」

 大金(庶民の金銭感覚と相違ない感覚を得たミシェルの主観)と住所のようなものが書かれた紙が託されていたのであった。殴ったような字で、「meet会う!!」と書かれていた。

 「どういうこと……? もしかしてその、あの方は破廉恥なお仕事をしている……とか?」

 「いやそれはないんじゃない?」

 尻餅の衝撃で飛び起きたイフリートが眠たそうにそう呟いた。

 「そうよね」

 「お嬢ちゃん、邪魔だよ」

 人通りの多い所での一幕はこの一言で幕を閉じた。会釈をして慌ててその通りの脇に反れるとミシェルはどうしても気になってその場所へ、文字通り「会いmeet」に行くのだった。



 「ここよね……」

 ミシェルは扉の前に立っていた。「天使たちの止まり木」とは別方向にある郊外の小屋だ。

 静か過ぎる場所に、思わずイフリートをぎゅっと抱きしめた。

 「なんもないと思うよ。いたずらじゃないかな」

 「『好奇心は~』……てやつよ」

 「それ僕のこと?」

 ミシェルが固唾かたずを飲み、扉を引いてみるといとも容易く動かせた。

 「す、すみません……?」

 「ばうふ、ばうふばふ」

 「ひぃい! で、でたお化け!?」

 「ムーンどうしたんだ……って、ん? そこに誰かいるのかい?」

 震えるミシェルに優しく声をかける男性に目を向けた。そこにはミシェルに吠えた犬のようにぼさぼさの毛を携えた、お世辞にも清潔そうには見えない青年がそこにいた。

 「あと、えと。ミシュ、です」

 「ああ、新しい家政婦メイドさん? どうも」

 「ええと、いや私はメイドでは……」

 「? では誰だい? 強盗……?」

 「いいえそれも違います! 私は町でぶつかって来た女の人から無理やり渡されたこのお金とこの紙の意味をお聞きしたくて来たんです」

 「紙? お金は確かに渡したが……いやはや『肉を買ってきてくれ』といったが娼婦しょうふが来るとはね……当たらずも遠からず、か。いや私は肉欲には飢えていないが。そもそも私には君がどんな風体をしているのかわからないからね。とはいえ、はてさてどうしたものか。ともかくそこへ座ってくれ。彼はムーン。名犬だよ」

 「ばうふ!」

 ミシェルの座る分の椅子と彼の座る椅子を咥え引いた。歯形は付いていなかった。

 「賢いのね」

 「ばふ」

 「おや珍しく照れているね……それはそうとその方は誰だい?」

 「その方? 私は一人ですが」

 「おや、私には人のような気配がもう一つばかり感じるが、随分小さいが……動物の様にはがねぇ。答えをお聞きしても?」

 「あ、ああ猫ですよ」

 「ほぅ?」

 「み、みゃー」

 「ふむ……猫か。まあいい。君はミルクでいいかな? それとも紅茶?」

 「そんな、私はすぐに失礼するので」

 「遠慮なさらず。お嬢さん。付き人付きの御令嬢にお茶のひとつも出せないなんて、このクレディオ、目だけでなくこの心もくすんだと思われては誇りに埃が積もるというものです」

 「ええ。ではありがたく頂きますわ……じゃなくて、いただきますね」

 クレディオと流れで名乗ったそのその青年は手探りでありながら慣れた手つきで紅茶を出すと、椅子へしっかり座った。

 「さて、先ほどの女性というのはギュベラという方だろうね。失礼。肉を買ってきてほしかったのだが、まんまと逃げられてしまってね。お詫び申し上げる」

 「いえいえ」

 「いや、きっと彼女のことだ強引に、最悪ぶつかってでもして君に……えー、ミーシェだったかな? すまない名前を覚えるのが下手でね。なんだったかな? ああそう、兎に角彼女はきっと乱暴に君に押し付けたと推察するよ。怪我はないかい?」

 「お気になさらないでください」

 「ああ、これは優しい。その猫とやら、彼は……もしくは彼女かな? どういった馴れ初めで? ミルクはあまり飲んでいないようだ。紅茶の方が良かったかな?」

 「ええと、まあその。危ない所を助けて貰ったことがあって」

 「ほう、猫が?」

 「え、ええ。とても、強いんですよ」

 「面白い。実に。魔法でも使えるのかな?」

 「まさか」

 「ふうむ。しかし私にはその内に秘めた力が見え隠れしてしょうがないのだが、しかたないミーシェさんがそういうならきっとそうならねばならない理由があるのだろう。納得するよ」

 ミシェルは冷や汗を滲ませながらイフリートを撫で、適当に返事をする。

 「時にミシェル」

 「え!?」

 「ん? ミーシャルだったかな?」

 「(ああ、そうよね。覚えが悪いだけ……よね)」

 「まあいい。君は月が好きかい?」

 「月ですか? まあなんとも」

 「嫌いか」

 「そこまでは……」

 「いいや、声色でわかるさ。いいんだ。奇遇だね。私も月は好かないんだ」

 「……そうなんですね。何故?」

 「あの月は、偽物だからだ」

 「偽物?」

 「……私は『数字』が好きでね。数字は嘘を吐かない。使用者が正しく扱えているのならね。魔法と同じさ。この目は見えなくとも、魔法は使える。雨の日に傘をさせるのと同じさ。私の魔法が言うには『月は動き続けている』はずだ。だが、聞く限り一定の辺りをぐるぐるしているばかりと。これは私の言う動いているには当たらない。私のいう『動き続けている』とは『見えなくなる瞬間がある』ということなんだ」

 「なるほど。だから偽物だと?」

 「ああ。過去の月の軌道は私の通りだったはずだ。大昔に見ていた文献だがね。しかしいつからか動かなくなった。止まってしまったんだよ……それはそうと、君はなぜ月が嫌いなんだ?」

 「さあ、なんとなく。昔から、月の明かりが不気味で……」

 「ほうほう、目が見えるならではの理由で大変結構! しかし感覚は時に理知を越える……。きっとそれは天性のもの。大事にされるといい」

 「え、ええ」

 「しかしだ、昨今の町の様子は随分と物騒そうだが、ミーシュにはどう見える?」

 「人の数は変わらないように思えるけれど、なにか騒がしい感じがしますが」

 「そうだろう。最近、本物の魔女が処刑されたそうでな。そいつが残したとされる呪いだかなんだかで町は大賑わい。彼女は商才もあるそうだ」

 「『も』?」

 「ああ。だって魔女の正体は君だろう?」

 「……?!」

 ミシェルは思わず席を立った。

 「なぁんてな、冗談だよ! って……どうしたんだい?」

 「い、いえ。ね、猫が紅茶をこぼしてしまって……失礼」

 「? まあいいさ。ともかく今は魔女に対して、処刑に対して非常に敏感になっていてね。私のこの論文が標的になって殺されるとも限らない。くれぐれも他言無用で頼むよ」

 「論文をお書きに?」

 「ああ。言っていなかったかい? 私は論文も書くのさ。目は見えなくとも、魔法があるから思い描いたように書ける。心配しなくとも私はギュベラの様につづりを間違えたりはしないさ」

 「生死が関わるような話をなぜ私に?」

 「さあて、なんでだろうね。私なりの感覚かな? ミシャエルなら言わないような気がするからかな。とはいえ、折角しがない盲目の学者の他愛たわいもない話を聞いてくれたんだ。君が届けてくれたそのお金は上げるとしよう。それとこの入場券を。これで口をつぐんでくれるかな?」

 ミシェルは二枚の入場券を受け取った。そこには「ステロ座」と不思議な字体で書かれており、気分が悪くなりそうだった。

 「ステロ座。聞いたことがあるかい? そこの入場券さ。なんせ上等品プレミアだからね。おいそれと渡すなとは言われているが。耳だけの人間より、目も耳も働いている人間の方が見られる劇も嬉しいだろう。なにより目を閉じていると、起きていても寝ていると思われる……それはしゃくだからな」

 「ちょ、ちょっと待って、なんであなたがこの入場券を?」

 「言っていなかったかな? 私はクレディオ・ステロ。ツェレカ・ステロは私の弟だ」



※|好奇心は猫をも殺す:イギリスのことわざ。好奇心が過ぎると身を亡ぼしてしまう例え。



    二  悲劇「四つの夢」



 ローゼンドーンの喧騒すらも舞台の劇中曲となってしまう魅惑の舞台「ステロ座」には新作の公演を待ちわびた人々で開場前から長蛇の列であった。

 「は、はあ……せっかくもらった入場券を無碍むげに扱う訳にはいかないし」

 「まあいいんじゃない。こうしてデートできるわけだし」

 そこにはなるべく顔を隠したミシェルと、美しい顔立ちの青年イフリートが列の様子を暗がりから眺めていた。列が解消され、その人込みに紛れて中に入ろうという算段であった。

 「あなたもうちょっと静かにできないの?」

 「え? これ以上声を小さくできないよ。耳元で囁こうか?」

 「そ、そういうことではなくて! 顔が目立ちすぎるのよ!」

 「かっこよすぎるってこと?」

 猫の姿に見慣れたミシェルはその青年姿になったイフリートの扱いに困っていた。

 「ただでさえこの入場券の扱いにも困っているのに、あなたの扱いも別の意味で困るわ!」

 「いいじゃん。万が一君を知っているあの男ツェレカに見つかっても僕といる所を見ればちょっかい掛けられなくなるって」

 赤い目をじっとミシェルに向ける。首をあざとくかしげるイフリートは無邪気な笑みを浮かべた。ミシェルの頬は赤らんだ。

 「(イフリートは猫よ。猫。ほぼ猫……)」

 自分に言い聞かせてから列をもう一度確認する。すると先ほどの列が倍以上になっていることに気が付いた。さらに、その列に追加で並んだ人に見覚えがあったのである。

 「あ、あれって……学院の生徒じゃない!」

 そこには黒い衣服に身を纏い、帽子を斜めにかぶる淑女らの姿があった。その中に光るようにして強調されてニコラとオデットもいたのである。見つけるや否やイフリートの後ろに隠れた。

 「ちょ、ちょっとどうしたのさ」

 「どうしたもこうしたも、一番見つかってほしくない人たちが列を成してるこの状況で冷静でいられるもんですか」

 「万が一が千が一くらいになったね」

 「呑気に言ってる場合!? 帰りましょう」

 「ええ! やだよ! 見ようよ、デートしようよ!」

 「やだってなによ! 危険すぎるわ、見つかったらご破算どころの騒ぎじゃないわ。今はあっちの状況もわからないし、ともかくだめなものはだめ! デートならまた今度してあげるから」

 「いやだね……ほ、ほら! 列が進んでる、開場したんだ! 行こう! ばれないって!」

 「あの子たちも大変だけど、一番大変なのは学長……! 気づかれたら何をされるかわからないわ。メリーからも注意しろって言われてるんだから」

 そう言っている間に手を引いてしまうイフリートの力の差に、首輪を引かれる猫のようにぐわーっと引きずられていくミシェルはやがて観念するのであった。

 しっかりと学院生が入り切るのを見て、また学長が居ないことを十分に確認してから入るのであった。


 指定と書かれた券を受付は快く受け取り千切った。

 「あ、この席は……!」

 受付は別の役員に耳打ちすると、待つ二人の元へ人があてがわれる。

 「ようこそ。あなたがツェレカ・ステロ様のお兄様でありましたか。そちらは……おっと野暮でしたね。お席にご案内いたします」

 そういうと二人をその席まで案内を始めた。ミシェルとイフリートは顔を見合わせてその人の後を付いていった。

 「(ねえ……もしかしなくてもあなたのこと「クレディオ」さんと間違えているんじゃ?)」

 「(そうっぽいね。そして君は愛人)」

 「(私たち目立ち過ぎないか不安なのだけれど……)」

 「(まあ大丈夫じゃない? なんとかなるさ)」

 「(あなたのそういうところ。不安だわ……ちょっと安心するけど)」

 そう小声でやり取りをしていると、やがて四階席までやってきた。そこは四人程度が入る小さな部屋のようになっており、そこから見下げる形で鑑賞することができるようになっていた。

 「ではクレディオ様、ごゆるりとお楽しみください。こちらはツェレカ様からの贈り物です」

 その手にはワインボトルと二つのグラスが用意されていた。

 「ありがとう。もういいよ」

 「では……ごゆるりとお楽しみください」

 「様になっているじゃない」

 「でしょ? 折角だし呑もうよ」

 きゅぽっと小気味よく音を立ててとくとくと注いでいく。ミシェルは視線だけを動かして学院生がどこにいるかを確認する。すると最奥の、舞台を真正面から観ることができる場所に立ち見として招かれてるのを確認した。

 「(立ち見……ねえ。まぁここからなら座席が壁になっていて見えないし、暗くもなる。とりあえず演目の間に見つかる心配はなさそうね。ただ懸念するとしたら、この席にいるのがクレディオになっていることかしら)」

 「あの……クレディオさんですか?」

 そこには煌びやかな装飾を身に纏ったいかにも演者のような美しい女性が細々と立っていた。

 「あ、ああ。君は?」

 「私はテッラといいます。以後お見知りおきを。いつもカステロにお世話になっています」

 「いえいえ、こちらこそ、いつも弟が世話になっているようで」

 「ふふ、カステロのお兄様はお優しいようで」

 「弟は厳しいと?」

 「それはもう! ……時間がありませんから詳しくは言えませんがどうか、カステロを……ステロを守ってやってください。彼は悪魔デヴィルに身を売っているのです……今回の公演で彼はなにか企んでいるようで、裏で何かが動いているみたい……あ、もうこんな時間! 楽しんでいってください、でもどうか今のことは忘れないで」

 そういってテッラという女性は嵐のように去った。首をかしげあるミシェルとイフリート。

 ついこの前に、二人は悪魔に身を売るその光景を見たのである。裏で動いていることなどはわからない。しかし学院生らSONG’sがいることと「裏で何かが動いている」ことが不気味に繋がってしまいそうだった。


 公演は滞りなく進む。先ほどの不安は演者らの熱演と奏者の技巧な演奏によってすっかり吹き飛んでいた。一流というものをまざまざと見せつけられているようでミシェルはすっかり貴族のそれを思い出していた。

 一方イフリートはあまりに難解な言葉や情緒的な曲に置いてけぼりになっていた。

 「(ミシェルはすごいな……ふあぁー。おっと、失礼。確かにすごいけど、理解が難しいな。「四つの夢」ね……)」

 重いまぶたを開けも閉じもせず見ていると遠くの方からがんっと音がしたような気がした。その音が彼の目をすっと持ち上げたのである。

 「(どうしたの?)」

 「(いや、今何か聞こえたような気がして。丁度学院生が居る辺りで)」

 「(よく聞こえるわね……)」


——そうだ、かの四人は各々の描いた夢を悪魔から買ったのだ!


 現れたのは主演でありこのステロ座の持ち主であるツェレカ・ステロであった。

 おおよそ序盤にもかかわらず最高潮クライマックスの場面であると錯覚するほど、数ある演目の中でも演奏演技どちらも群を抜いて激しいのは確かであった。

 「彼らは手を汚すこともなく濡らすこともなく、既に描かれた『夢』を買ったのである」

 彼はその言葉を放った後の動きが、丁度ミシェルの姿を捉える位置になった。その瞬間ぱっと顔が明るくなった。しかしすぐさま顔をしかめる。それらはこの台詞群に溶け込み、まるで演技の一部であるかのようだったが、ミシェルからすれば、好きな人を見つけた時のそれであった。


——中止せよ! 本公演を即刻中止せよ!


 どんと制止を振り切って男たちが割って入ってくるのが見える。観客たちはその方をみやる。

 学院生らの間から白い衣服を身に纏った人々が溢れていく。それらはあの高等議会であった。

 「中止せよ、中止せよ!」

 その声に奏者はその熱い演奏を止めてしまった。ざわつく会場と演者はきょろきょろと顔を動かし始めた。会場は依然暗いままだったからか、不安感があたりに充満し始めていた。


——そして!!!


 張り裂けんばかりの低く大きな声が会場を一瞬で制圧したのである。ツェレカ・ステロの一声である。それは魔法のように、ざわつきは収まり、顔を動かしていた演者や奏者、観客に至るまで、その注意を完全にツェレカ本人に向けさせたのである。

 「その対価は言うまでもなく、もっとも価値の高い時に支払われる!!!」


――ばば・ば・だん!


 ティンパニの張りつめた音が鳴り響き、指揮者とその奏者らの瞬発力がそれを合図に演奏を再び始めたのである。


 「それは、覚めてしまう直前である」


 高等議会はたじろいだ。ミシェルにはその台詞がまるで「この場所は我が領地であるぞ」といっているようにも感じた。有無を言わさず進むかのように思えた演目は、議会の直接介入により取り押さえられて強引にも終わりを告げたのである。

 しかし幕はまだ閉じられてはいなかった。



    三  約束



 魅惑の月。それは人々を魅了する宝石ダイヤモンドのように白くぼんやりと輝いていた。

 「忌まわしい月め……」

 法王は大聖堂にあるあつらえさせた部屋からそれを見上げた。この辺りでは月に一番近い場所である。

 蝋燭にぼっと火を点けて、その明かりを頼りに筆を執った。


 「(もう私は、長くない。この身に受けた呪いは私とこの世を繋ぐかせとなっていたが、その枷も外さなければならない時が来たようだ)」

 細く骨ばった腕をさすり、近くに立てかけた杖を寂しそうに見た。

 「(私の願いはただ一つ。『多くの者からの感謝』それのみ。しがない私は人の役に立ちたかったのだ……しかし食事であれ性格であれ、甘さというものは人に良くないようだ。私はあまりに多くのものを殺してきた。最初は秘密を守るためだった。次第にそれは正義へと歪んでいった。私が感謝されることはもうないだろう。私のようなものが他に三人。首謀者はセイン。女王、あとは……この手紙を読む君の実の父親だ。皆が皆、自分の欲を満たすために魔女に身を売った。彼らは力を我が物にする為その対価として『約束』をした。その約束を皆は破るつもりだろう。自分のために。私は百年続く悲劇の幕を自分で閉じられないことを恥じる。そして被害者である君にそれを頼むことも我が生涯のすべてで持って恥じさせていただきたい。三人の月の魔女はその対価を、約束を果たすために大きな何かを仕掛けるつもりだろう)」

 震える手を逆の手で支える。杖からは光が出ていた。


——君は月の力を持っている その力でこの世界にかつてあった『太陽』の力を取り戻してくれ


 殴るようにしてそれを書き切ると、杖の光がぱっと消える。同時にその老いた手から力が抜け落ちる。小さく吹いた一息、それで蝋燭の火をそれで吐き消した。

 杖を持ち、白い布で持ち手などを丁寧に拭き始めた。月から何かを隠すように、隠れるようにして一心不乱に汚れをふき取った。ぴかぴかになった杖をもう一度立てかける。

 白かった布はもう黒ずんでいた。

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永黒の月の魔女 椹木 游 @sawaragi_yu

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